8月6日、朝起きると窓から陸が近くに見えた。
前夜に秋田を出港した飛鳥は津軽海峡に入ったのだろう。
12階に上がった。
6:38
竜飛岬を過ぎたあたりか。正面は下北半島か。
6:38
後方は竜飛崎?
津軽半島は竜飛崎一つだと思っていたが、 湾(今別町)があり、西が竜飛崎、東が高野崎であることを今回初めて知った。
7:17
飛鳥は高野崎をまわって陸奥湾に入っていく
ちなみに津軽海峡はあっても津軽湾というのはありそうでない。
下北半島と津軽半島の間全体を陸奥湾という。それをさらに分け、湾内の夏泊半島の西を青森湾、東を野辺地湾と言い、北東の窪みを大湊湾という。
7:19
左舷は下北半島。
スマホがなければ北海道と間違えてしまう。
津軽半島から下北半島へはもちろん陸続きで行ける。あるとき船で近道しようと思った縄文人が間違えて北海道に渡ってしまったりして、津軽海峡文化圏というものができたのではないか? そんな珍説が浮かぶ景色であった。
しかし夕方から皆でねぶた祭りを見て、そのまま飲みに行くというので、昼に出かけてもそれまでに戻ってこなければならない。
何処に行こうかと考えた。
青森市は2022年11月、短時間だったが港付近を見物したことがある。今度は内陸に行ってみようと思った。
八甲田山雪中行軍遭難資料館のある幸畑の陸軍墓地、縄文期の環状列石で知られる小牧野遺跡などが浮かぶ。しかし両方ともバス便がほぼないに等しく、タクシーで往復するしかない。
そこで市街地に近く、路線バスで行ける三内丸山遺跡に行ってみることにした。帰りに自衛隊青森駐屯地の資料館に寄れるかもしれないし。
10時半過ぎに上陸が可能となったので、青森駅まで歩くことにした。
11:01
聖徳公園
明治天皇が初めて北海道に行った時の出航記念碑
(右のほうに小さく飛鳥が見える)
この公園は青い海公園とつながっている。
三内丸山遺跡へのバスは、行き先がそのものずばりだから分かりやすい。
しかしバスは11:00が出た後で、11:50までない。それまで駅ビルの土産物を見て時間をつぶしたが疲れてしまい、バス乗り場に戻ってきた。
本州の古代遺跡は長野県の尖石遺跡にしろ静岡登呂遺跡にしろ、戦前、戦中に発見され、早くに発掘された。土器、石器などは丁寧に保存しただろうが、DNA解析などの技術はなかったし、発掘技術も今ほど丁寧ではなかっただろう。三内丸山遺跡は発見が遅かったのが幸いした。
11:38
ところがバス乗り場は行列になっていて、座れないことはもちろん、全員が乗れるかどうかも危ぶまれた。乗れたとしてもぎゅうぎゅうのところに30~40分も乗るのはやだな。
そもそもぜひ行きたいというわけではない。
三内丸山遺跡は一般的には有名観光地である。さらに夏休みは世界遺産の縄文時代遺跡を子供に見せたいという親も多そうだ。
しかし日本には面白いところがいっぱいあって、今まで私の行くところはあまり人が行かないところが多かった。有名観光地はむしろ敬遠してきた。また私は今につながらないものはあまり興味がなく、つまり縄文時代は古すぎる。
もともと行く理由もなかったのだから行列を見てすっかり行く気が失せた。
しかし他に行きたい場所が見つからない。
それに行けば意外と面白いかもしれない、と自分に言い聞かせ、何とか行くことにした。
スマホで調べたら、慈恵病院行きというのが11:44にあり、そこから遺跡まで歩けないこともない。そのバスがちょうど来たので飛び乗ったらガラガラでゆったり座れた。
12:08
終点・青森慈恵病院(右)
前のラーメン屋「倉内」に行列ができていた。
スマホの地図を見ながら県立運動公園に入っていく。
12:11
広い。この下にも縄文時代の遺物がありそうだ。
12:13
向こうに県立美術館の白い建物が見えた。
方角ではあの向こうである。
12:14
ところが標識では遺跡への道が、今まで来たほうを指している。
来た道を戻るのは嫌だな、と行けるかどうかわからないが芝生を突っ切ることにした。
この芝生は運動公園だろうか美術館だろうか、まあどちらも県立だから良い。
12:16
それにしても、この起伏と芝生の感じが三内丸山遺跡と(行ったことはないけど)同じ気がした。再びもう行かなくてもいいのではないか、とちらりと思ったがここまで来たのだから行く。行けば面白いかもしれないと言い聞かせ。
12:23
無事、県立美術館を過ぎて青森駅からバスが来る道路に出た。
道路を渡るとフェンスがある。
立入禁止としか書いてないが、たぶんここが三内丸山遺跡だろう。
有料施設だから入口は一つ、それがどこにあるか問題だがスマホの地図ではよく分からなかった。フェンスに沿って歩き続ける。歩いている人は誰もいない。
12:27
無事、正面玄関に到着。
バス停から20分歩いたが正解だった。
遺跡内がどうなっているのか、園内に見どころは何があるのか、看板地図を探したがない。
一部がちらりと見えて、入場すれば全部見えるという構造ではなく、一切外から見えないようになっている。隣の土産物屋に遺跡の公式パンフレットがあり、それで大体の全容がようやくわかった。
馬蹄形の建物が1棟あり、そこが博物館を兼ねながら、外部と有料遺跡区域の境界になっている。
ちなみにパンフレットに書かれた住所が「青森市大字三内字丸山305」だった。
今まで知らなかった遺跡名の由来が分かった。
12:36
券売所と入口ロビー
意外とカップルとか若者グループもいた。
12:36
展示室が並ぶ
12:39
これら土器はここで発掘されたという以外、あまり情報がない。
情報がないと物語もないから、なかなか興味がわかない。
12:45
施設内から遺跡へ向かう通路はトンネルのようになっている。
入り口は北東に向かい、遺跡は施設(時遊館)の北側に広がっている。
12:46
トンネルを抜けると芝生が広がり向こうに何軒かの古代住居が見える。
この演出はいい。
女子高校生、女子大生くらいのグループが「あー、やばい」と歓声を上げていた。
この遺跡は、歩いてきた総合運動場、県立美術館と隣接していて、1992年県営野球場の建設途中に発見された。もっとも江戸時代から周辺では土偶や土器のかけらが大量に発見されており、遺跡があったことは一部で知られていたが調査はされなかった。
1994年には集落跡の全貌が明らかになって野球場の建設は中止、保存が決定された。だから長野県などの縄文遺跡と比べるとかなり発見が新しい。昭和の高度成長時代から一貫して日本中が土木工事で掘り返されてきたことを思うと、これだけの大規模遺跡がそれまで発見、調査されなかったことは奇跡に近い。青森というのは関東の我々が考えるよりもずっと土地が余っていたのかもしれない。
そういえば青森から八戸、さらに盛岡に向かう列車の車窓からは「平地の」森林が見えた。他の地方では森林は山にあり、平地は住宅や農地になっている。
12:48
縄文服を着た子供たちがいた。
ミュージアム内で無料で貸し出しているらしいが、記念撮影用だからここで着ている人はあまりいない。
しかしみんなで着たら、客も展示の一部のようになり盛り上がるのではないか。
12:51
ドーム内部
隣に復元された三層櫓の発掘現場を保存したものだった。
穴をのぞけば柱の遺物がみえる。本物の柱の基部は別に保存し、これらはレプリカらしい。
柱は直径1メートルのクリ材だったという。
穴は直径2メートル、深さ2メートル、2x3=6本が4.2メートルの間隔で統一され正確に並んでいる。
「4.2メートルで正確に統一され」というのは重要で、いい加減に建てたものでなく高度な建築技術と物差しがあったことを示す。遺跡内のほかの建造物から35センチが基準となっていることが明らかにされ4.2メートルも35センチの倍数になっている。
現在はメートル法で統一されているが、それ以前は尺貫法で、法隆寺なども大陸から来た高麗尺、唐尺で建てられた。尺度の広がりは建築技術(集団、文明)の広がりを示すもので、4600年前の三内丸山の「縄文尺」はどの程度の広がりがあったものか。
12:52
柱の太さは地中に残った基部から分かっても高さや構造はどうやって分かったのだろう?
説明を読めば土圧の分析から推定したというが、詳細は分からない。
6本の立柱の重さが分かっても、三層にした床、屋根の有無、柱の長さはそれぞれ重さとして立柱の土圧にかかってくる未知数であり、2つを仮定しないと全体像は決められない。
真相は分からないとして何もしないよりも、えいやっと仮定してでもこのようなものを作ることは、様々なことを想像する手がかりとして意義がある。
すなわち、これだけのものを作るにはかなりの労働力を必要とし、それを可能とした社会と指導者にも思いがはせる。物見台にしては大げさだから祭祀用のステージだろうか。
この櫓は遺跡のシンボルとしてだけでなく、縄文時代が思ったより進んでいたことを想像させるものになっている。
12:53
柱は内側に2度ほど内側に傾けて立てられていたという。地中に基部が残っていただけなのにわずかな角度が分かるものなのか知らないが、安定性を高めるための知恵である。
柱の下の部分は腐食を防ぐため焼いてあったらしい。
向こうに高床式建物が復元してある。なぜ高床式だと分かったかというと柱跡の内側に生活の痕跡(火の跡など)がなかったためという。発掘調査の丁寧さ精密さに驚く。高床式建物は遺跡中央部にまとまって見つかった。
となりの復元大型竪穴建物は中に入れた。
12:55
大型竪穴建物の内部
ここだけでなく集落の中央部分に跡がいくつか発見されている。
集会所、共同作業所、共同住宅などの説がある。
三内丸山遺跡は縄文時代前期~中期( 現在から約5,900~4,200年前)の、1700年もの時代の幅がある。これは卑弥呼の時代から20世紀までの長さである。いくつもの文明(王朝)が興亡する長さだが、同じ村というなら、先祖代々同じ人々である。
発掘では各時代の地層を1枚ずつ取り去りながら、土の中の情報を詳しく記録したのだろう。最盛期の平成6年(1994)には、調査員10人、調査補助員28人、作業員(地元のおばちゃん)580人が調査にあたり、それは現在も続いている。
しかし1700年にもわたり何度も壊し建てられた場所の柱のあとは相当複雑である。手を付ける前によほど周到な準備、計画と注意深い発掘作業が必要であったことと思う。
パンフレット裏面
村の周囲にはクリの林があって手入れされていたという。手入れの根拠はクリの実のDNA解析らしい。
遺伝子的に均一だったということだろう。しかし、それは1本の大木から採れたものならDNAは同一になるだろうし、野生の栗でも近くに生えていればDNAが同じになるかもしれない。おそらく現在の(近隣の)野生栗や、他の遺跡の栗のDNAと比較して、その均一性が際立ち、特定の品種を長年栽培していたと結論したのだろう。
同様に、豆類や瓢箪も栽培されていたという。
ニワトコやキイチゴの種がまとまって大量に発掘されたこと、発酵したものに集まるショウジョウバエの仲間のサナギなども一緒に出土していることから、果実酒も作っていたのではないかと言われている。
12:57
竪穴式住居がいくつも復元してある。
三内丸山では550棟以上見つかったという。
村の規模、すなわち同時期には何棟あったのだろうか?
1700年も続けばいろんな形式の住居があっただろう。
発掘調査の結果や近隣民族例を参考にして、茅葺き、樹皮葺き、土葺きの3種類を復元した。
樹皮葺き住居の中。
周りに板を敷いたのは発掘調査の結果なのか、現在の少数民族の住居を参考にしたものなのか。
こういう家だと伝染病が来たら一家全滅だな。
1700年もの長い間続いた村が忽然と消滅した理由は、伝染病というより、縄文末期の寒冷化で海が遠ざかり、不便になったからという説が一般的である。
12:58
土葺き住居
これがいちばん、夏は涼しく冬は暖かそう。
冬眠動物はもちろん下等動物まで地中に巣をつくるものは多いから、誰かに教わらなくとも人類は猿の時代から本能的に土葺き住居を作れたのだろう。
ここで思い出したのは江戸末期、ロシアの南下で東北諸藩が幕府に命じられ蝦夷地警備を命じられた時の話。本州の家屋は東北と言えど中央の影響を受け、床下を風が通るような住居だったから、そのような宿舎を立てた。当然寒さには耐えられず、兵たちは次々と病没していった。アイヌのような竪穴式住居だったら耐えられただろうということだ。
12:59
土葺き住居の内部
13時過ぎて管理展示施設の時遊館にもどった。
土器など遺物の展示は美術館のように広い空間に、何もない壁を背景にポツンと展示するのも、遠い縄文世界を想像するのに良いかもしれないが、当時の生活を推定・再現したときの「説得力ある科学的根拠」も学会発表のポスターのように展示すれば、現代考古学を知るうえで面白いと思った。
誰もいない休憩所でジュースを飲んだ。
ここで当初の計画にあった自衛隊青森駐屯地に電話してみると、当日でも見学できるというので三内丸山遺跡を切り上げることにした。
来た道を戻っていく。
美術館の敷地を突っ切る。
13:32
青森県立美術館の壁
遠くから見た美術館の白壁は一面のぬりかべだと思ったら、レンガに白ペンキを塗ったものだった。わざわざ白に塗る意味はないと思った。
三内丸山縄文人の直接の子孫かと思わせる棟方志功、没後50年記念展が開催中だった。
約束の駐屯地14時00まで少し時間はあったが館内には入らなかった。
(続く)
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