2019年8月17日土曜日

横川からバスで碓氷峠越え

お盆の帰省。
今年は一人。
一人は自由。
ただの移動になる新幹線はやめて、昔を思い出す小さな旅にする。

1975年、18歳で上京したころ長野・上野間は
・特急3時間
・急行4時間
だった。
特急「あさま」は贅沢。赤羽停車の急行「信州」を使っていた。
ところが急行はなくなり、特急に乗らざるを得なくなる。

しかし鈍行でも高崎で乗り継げば、5時間で着くことを知る。
早く着いても家でテレビを見ているだけなので、用事がないときはたまに各駅停車に乗った。
小説や勉強の参考書を読み、疲れたら外を見る。
高崎線は田んぼの向こうに小さく富士山が見えた。
埼玉北部、ローカル線の乗客の言葉は信州よりもなまっていた。
1979年ボックス席で向かいになった熊谷女子高の高校生に数学を教えてあげたこともあった。今と違い、車中で話しかけることは変態ではなかった。

・・・
2019年8月13日、上野発 5:13
思ったより人がいて、ボックス席を一人独占してのんびり朝食を食べようという思惑が外れる。
熊谷を過ぎても沿線は家が建て込み、富士山は見えない。
よく考えたら高崎までは近年も割と乗っていて面白くなかった。

高崎発 6:58
ここから先は数十年ぶりの車窓。
電車はガラガラ。
2019-08-13 7:09 東邦亜鉛
新幹線と高速道路ができるまえ、安中精錬所は必見の名所。
とくに夜中に18号を車で走るとき、煌々と稼働する工場は迫力あった。
スマホは広角レンズということもあるが、記憶ではもっともっと間近に迫っていた。

7:16
磯部を過ぎると車内は私だけになる。隣も空っぽ。
裸になっても床を転がっても大丈夫。
ようやく堂々とコンビニのパンをかじった。

平行する国道18号
ここを何十回と走った。
運転は父だったり叔父だったり。
家族ができてからは叔父から車を借りて私がハンドルを握った。
息子に運転してもらうようになったのは、上信越自動車道ばかりになってだいぶ過ぎてから。

7:29 
妙義山のほうはかすんでいるが、手前に釜飯おぎの屋が見える。

高崎から横川まで、このほとんど人のいない路線は依然として信越本線という。
高崎線、上越線などとちがい、東海道や北陸などと同じ「本線」。
高崎から長野、直江津をへて新潟まで1893年(明治26年)に全通。
上越線開通の1931年まで、日本海側と関東を結ぶ大動脈だった。

しかし、1997年の長野新幹線で横川から軽井沢まで廃線、
軽井沢以北も篠ノ井まで第三セクターに移行した。
長野・直江津も2015年えちごトキめき鉄道になる。
すっかり実体がなくなったのに、信越と関係ない西上州の短い部分だけが「信越本線」と名乗っている。
7:31 横川駅到着
かつて、ここでは必ず補助機関車を連結した。
長野行きは急こう配で客車を押すための機関車。上野行きはブレーキのための機関車。
すなわち必ず低地側、高崎側で脱着作業があった。
この停車時間で、釜飯を買う客が多く、私はたまに降りて連結作業を見ていた。
発車するとき、おぎの屋の売り子さんは必ず並んでお辞儀した。

横川は中山道坂本宿と松井田宿の間にあり、もともと町はなかった。
補助機関車連結のための停車駅だから、乗降客はあまりいなかっただろうし、碓井越えの線路がなくなったら用はない。

線路は一部残した。

たどっていくと碓氷峠鉄道文化むら
早朝だからもちろん空いていない。
横川駅はここへの見物客か、ハイキングの人のための駅。
鉄道おたくは必ず一度は来る場所だろう。

中には古い車両。
多分アプト式の線路模型もあるのではないか。


碓氷峠は太平洋戦争末期、米軍戦車が越えられないと想定したほどの難所。
道路なら九十九折にできるが鉄道はそうもいかない。橋梁だけでなく、穿つトンネルは26か所、それでも急こう配になった。
有名な歯車で上るアプト式の時代は長かったが、1963年7月に通常レールで単線が開通、66年には複線となった。

私が初めて上京したのは小学校入学前の1963年3月。
恒叔父の結婚式で祖父母について東京見物に来た。
行きは安雄叔父の車だったが帰りは祖父母と一緒に列車だった。
ぎりぎりアプト式だったことになるが、もちろんそんなことは知らない。

二回目の状況は小学生のとき成田山に来ている。
三回目は中学3年4月の修学旅行
四回目は高校3年8月、大学の下見。
もう列車は通らないが並行してアプトの道という遊歩道が続いている。
地図で見たら丸山変電所跡にいくが、旧中山道には行けない。

いったん駅に戻る。
鎮魂碑、招魂碑
鉄道の難所は工事中に多くの殉職者を出した。500名を超えるとか。

旧中山道

碓井の関所は峠にあったのでなく、ここ横川にあった。
横川は西で3つの川が合流していて、旅人の動きも限られ取り締まるのに都合よかった。
関所の門は道を塞ぐようにあったが、番所のあった北側の高地部分に復元されている。



軽井沢駅行きバスの発車時刻が迫ったのでターミナルに向かう。
バスは途中停留所がないから入口一つの観光バス。
軽井沢まで510円。
高崎からの電車がまた到着、その客が乗ってきてほとんど空席のない状態で8:10正確に出発。
8:14 国道18号、碓井バイパス。覚えている。
廃業したのか営業しているのか分からないドライブイン。
ほとんど車は通らず、渋滞なし。

国道18号の旧道は急カーブの連続で(184か所)、たいてい酔っぱらってゲロを吐いた。
南側に碓井バイパスができたとき、えっ、もう終わり? と驚くほどカーブが減って(45か所)有り難かった。

バイパスのできたのは1971年らしい。しかし大人になった75年以降も、倹約して一、二度は旧道を通っていたのではないか? そうでないとあの感動は説明できない。バイパスの通貨料金は150円くらいだったと思うが、安いと思った。

上信越自動車道は1993年に佐久まで伸びたが、中野まで全通(1996年11月)するまでは乗らなかった。
従来通り高崎城の西側で17号と別れ、18号碓井バイパスで山を越え、信濃追分から浅間サンライン(広域農道)、菅平越えというのが帰省ルートだった。
子供3人の5人家族でドライブという幸せな時期は短かったが。

8:44 
バスは順調で予定より2分ほど早く軽井沢駅に着いた。

(続く)

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