2019年8月9日金曜日

廃棄された明治31年の薬学雑誌

戸田で廃棄になる薬学雑誌を1巻(1年分製本)もらった。
一番古いものは1898年(明治31)であるが、酸でも付いたのか、
染み込んで数十ページが変色、一部ボロボロになっている。

次の年度の製本はきれいだったが、敢えてこのぼろ本をもらってきた。
いまそっと開く。

14年前の2005年、ファルマシアのコラム「薬学昔々」に乗せるネタを探しに図書室の奥に来た。ここ数十年誰も読まなかったであろう明治の雑誌をめくった。
ふつうの企業、大学はこんな古い雑誌を持っていない。研究所として長い伝統をもっていること、今やまったく業務に役立たない本を愚直に保管していること。二つの点で田辺製薬を見直したものだ。

そのとき見つけた記事に再び会った。
秦佐八郎、無名時代の論文。
そうか、この年だったか。
せっかくなのでもう一度見る。
この論文からはいろんなことが分かる。
・旧制高等学校は専門学部を持っていたこと
・第三高等学校の医学部は岡山にあったこと
・秦佐八郎は化学の素養があったこと

佐八郎は明治6年島根県に生まれた。
秦家の養子となり、28年三高医学部卒。
恩人養父が病死した養家ではひたすら秦の帰郷を待ち焦がれていたが、岡山に留まる。学問への夢捨てきれぬ事を口にして、地元縁者に恩知らずと激しい非難を受けた。

しかし、理解ある養祖父母が親戚を説得してくれ、明治31年7月妻を置いて上京、北里柴三郎の伝染病研入所。これが後にドイツ、エーリッヒのもとでノーベル賞級の梅毒特効薬サルバルサンを開発することにつながる。

本論文は、この上京1ヶ月前に出た。
兎に駆虫剤チモール3gを投与し得られた1.2gの尿中代謝物をグルクロン酸抱合体と推定している。NMRやMSのなかった時代、化学反応、精製、元素分析を繰り返す内容は、秦がただの青年医でないことを十分示している。

サルファ剤登場以前、まともな医薬品などアスピリン、モルヒネ、キニーネくらいしかなく(つまり解熱、鎮痛のみ)、どんな優秀な医師でも病気の前にまったく無力だった。医師は患者の前では威厳のみが頼りだった。秦は威厳だけでは病気を治せないことを知っていたからこそ、基礎研究に進んだ。それがよく分かる論文である。

こちらは「東宮殿下のエキス光線ご一覧」の記事
後の大正天皇が理科大学に導入されたばかりのX線撮影装置を見学した。
頭蓋骨に弾丸を入れ二重に箱に入れたものを透視したり、鯛の骨を見たり、自分と侍従の手を写したり、とご機嫌だった話。
これはファルマシアに送ったが掲載されず、数年後、このブログに書いた。

今このページをみると東宮殿下行啓の次の記事は、大鳥圭介「シナ語を勧むるの説」という講演会の記事だった。
大鳥は適塾、坪井塾で学んだ幕臣。
榎本武揚と一緒に函館にこもったが降伏、明治政府に仕え、工部大学校校長、東京学士会院会員、学習院院長兼華族女学校校長となった。
日清戦争直前に清国特命全権公使、朝鮮公使をつとめ、このころは枢密顧問官に転じた。

こちらは第一高等学校医学部の修学旅行の記事。
一高は本部を本郷弥生に、医学部を千葉亥鼻に置いた。
医学科は1,2年が日光、3年生が箱根。薬学科は房総地方。いずれも4泊5日。

こちらは帝国大学医科大学の講座制についての不満。
医学科は衛生、解剖、薬物など専門学科に二人ずつ教員がいるのに、薬学科は長井、下山、丹波がひとりで数科目担当し、ゆえに講座名も第1から第3と数字になっていると述べる。
これも薬学昔々に書いた。

当時、秦論文にみられるように、公文書や論文はカタカナ漢文訓み下し文。
しかし雑報などの記事はひらがな、口語体だったので読みやすい。


参照
田辺三菱図書室閉鎖に伴う古書廃棄
戸田の廃棄図書 岩波「化学」
薬学昔々 第7話 秦佐八郎と三高医学部
薬学昔々 第17話 旧制高等学校の修学旅行
薬学昔々 第108話 大正天皇とエックス線

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