2019年8月22日木曜日

青山霊園の偉人たち

青山通り、赤坂御所やホンダ本社がある青山一丁目の交差点から南に折れ、外苑東通りを少し行くと青山霊園。

北東の角から入る。
目当てのお墓はなく、ただ歩いてみる。
海軍中将 東郷吉太郎
東郷平八郎は叔父(父の弟)
こんなところにあると思わなかった。
乃木神社は立派なものが全国各地にあるが、墓所は普通に青山にあるのが意外だった。

立体共同墓地もあるが、すでに満杯なのだろう。

藤波教忠卿墓
誰だか知らなかったが、大勢で祭りができるほど広場になっていたので撮影。
伊勢祭主、神祇大副を世襲した公卿。華族制度で息子が子爵。

海江田信義 枢密顧問官
何をした人かよく知らないが、幕末維新でよく出てくる薩摩の有力者。
東郷吉太郎の妻の父、母の兄、父の弟の妻の父である。三重につながっている。

警視庁墓地という、他より少し高い一角があった(左側)。

内閣総理大臣海軍大将 加藤友三郎

小村寿太郎
並びに島村速雄もあった。日露戦時の参謀長、のち軍令部長、海軍大将。死後元帥。

この警視庁墓地に上がってみる。(この日、唯一の寄り道)
牧野伸顕
大久保利通の次男。
生後間もなく父の義理の従兄弟にあたる牧野吉之丞の養子となるが、吉之丞が北越戦争で死去したため、牧野姓のまま大久保家で育った。
宮内大臣、内大臣、昭和天皇の信頼が篤かったことで知られる。

長女雪子の婿が吉田茂。その三女和子が麻生太賀吉と結婚し生まれたのが麻生太郎。つまりひ孫になる。

犬養毅
右隣りは子爵入江為守。昭和天皇の侍従長・入江相政は為守の三男

海軍中将 山口多門。
ご存じ、骨はミッドウェーに消えた。

左は高須四郎大将。開戦時の第一艦隊司令長官。
古賀長官行方不明の後、一か月ほど連合艦隊を指揮した。

右翼の巨頭 頭山満
早くから海外進出を唱え、日露開戦論を展開。
一方で孫文などアジアからの亡命者を援助し、大杉栄などとも交流があったという。

このあたり巡査の墓標が並び、警視庁墓地らしいが、全体のわずかである。
 いつのまにか有力政治家の区画になったのだろうか。
警視庁墓地は本来、西南戦争以来の殉職者を葬った一角だった。

加藤友三郎の真裏が空き地になっている。
となりの十字架が麻生多賀吉、麻生和子

帰宅後、警視庁墓地に葬られている人を調べてみた。
青山霊園ガイド(立木真人)別冊歴史読本臨時増刊1995年12月

この本によれば麻生多賀吉の場所に吉田茂がある。
娘夫婦の麻生に墓所を譲り、自分は移転したようである。

塀に囲まれた区域は筑前黒田家。52万石。
黒田長溥(11代)長知(12代)長礼(13代)

この都営霊園の番地表示はどうにかならないものか。
 1種ロ8区1/14側7番 浜口雄幸
 1種ロ8区1/14側14番 松平恒雄
区別するものは最後数字、7番、14番だけ。
その前の1種ロ8区1/14側は全く意味がない。
最初の3文字(数字と「種」とイロハ)は、1種イ、1種ロ、2種イ しかなくて、本来なら10 x 46 の460種類も表される表記で、たった3つしか使っていない。
次の区、側も数字を3種類、スペースで6つも使いながら順番性がまったくないから、この番地が分かっても地図では見つけられない。

すべてやめて住所番地のように端から、たった一つの数字を振り、385番とか820番とか付けた方がましである。
墓域をいくつかに分けて丁目に当たる数字を使えばもっと親切、それでも数字はたった2つ、6-13とか9-21とかで済む。
これなら墓域内の番地案内板も重宝されるだろう。

もっとも子孫の方が分かればいいのだから、外部の人間がとやかく言うこともないのだが。
霊園事務の人はたぶん別に通し番号を使って管理しているのではなかろうか。

大木喬任は佐賀の人。大隈、江藤、副島らとともに動いた。
大木遠吉は息子

桜並木だが、車道というのがつまらない。

川上操六 
日露戦争前に死去して惜しまれた陸軍の天才戦術家
通り沿いにたまたまあった。
三島通庸
鬼県令、警視総監として知られる。
この人こそ警視庁墓地がふさわしい。

歩いていたら、いくつもの墓石の向こう、遠くに長岡外史の文字がみえた。
もうやたら偉人ばかりだから、立ち止まることも近づくこともしなかった。
墓地というのは加藤家、堀家などと彫ってあり、あてもなくぶらぶら歩いていると偉人の墓を見過ごすのだが、変わった名前だと、いくら遠くても墓石の間から自然と目に飛び込んでくる。
男爵北里柴三郎

秋山好古
墓域を新しく整備しなおしたようだ。
鉄柱の跡がある石が横に並べられている。以前は鎖で囲まれていたのだろうか。

余り寄り道せず北から歩いて来て、ここがほぼ南端。
まだ崖下と立山墓地があるが、ここで千代田線乃木坂駅に向かって帰る。
途中、畝傍の森という一角があった。
巡洋艦畝傍慰霊碑
海軍増強のためフランスに発注、1886年完成、曳航する途中シンガポール出航後、行方不明になった。

海軍中佐広瀬武夫

副島種臣

青山霊園は過去に一度だけ来たことがある。
1995年ごろ。
やはり当てもなく、ひとりで通り抜けた。
今回ほど偉人の墓が目に入ってこなかった。知識も大してなかった。

そのかわり25年分、若かった。


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