2019年11月1日金曜日

長良川と命がけ岐阜城登山


薬史学会の会場は木曽川の中州のような各務原市川島。
交通不便なところなので事務局は閉会後、尾張一宮駅への送迎バスを出してくれた。
バスを降りて皆と別れる。
駅ビルは思ったより大きく、一宮市は人口37万、愛知県第四の都市という。
2019-10-26 19:25
古代より豊かならむ尾張の国。
一人歩いてきたのは、その第一の御宮、真清田(ますみだ)神社を見たかったから。
一宮は太平洋戦争の空襲(7/12, 7/28)で総戸数の8割にあたる1万戸が罹災。
社殿も焼失した。
終戦後、昭和天皇の行幸で励まされ、市民は復興のシンボルにと昭和26年に社殿再建に着工、復活させた。
背後は山と見まがうほどの森
(実際はそれほど広くはないのだが)

 なお二宮は大縣神社(犬山)、三宮は熱田神宮という。
2019-10-26 19:36
参道はアーケードの商店街になっていた。

この日は2駅先の岐阜に宿泊。
若いころは翌日の学会プログラムや抄録をチェックしたり、テレビの地方ニュースを見たりしたが、最近は翌日の早朝散歩に備えて早く寝る。

2019-10-27
岐阜駅6:19、朝一番のバスで長良川へ。
着くと大勢の人が川一帯の掃除に出ていた。
対岸にも袋を持った人がいっぱい。
きけば、年3回、町中の人々がボランチアで参加するらしい。ソフトボールのチームだったり、町内会だったり、真如苑などの団体だったり。
帰京後、ネット新聞を見たら74団体約2200人が清掃活動に励んだとか。8月の花火大会の後は113団体の約6千人がゴミ拾いしたという。
6:36
川には入江のようなものがあり、屋根付き客船や、鵜飼い船が停泊していた。
鵜飼いは5月11日~10月15日、シーズンオフなのに船を陸揚げしないのだろうか。

鵜飼い見物は3400円。持ち込み自由。
弁当付きパックは5000円。そんなに高くない。

6:43
近くの川原町は古い町並み
振り向けば山の上に岐阜城

6:51
長良橋で陸閘倉庫という珍しいものを見た。
閘とは水門のこと。
ここは国道256号が川を渡るので、橋のところは堤防が少し低い。
1959伊勢湾台風と翌年の台風でここから水があふれたため、「ふた」が設置された。電気でレールを動く大掛かりなものである。
昨年7月の西日本豪雨のときも閉鎖された。この付近では大小100もあるらしい。
堤防に隣接して岐阜公園 
金華山(稲葉山)中腹に三重塔、頂上に岐阜城が見える

6:59
公園は広い。岐阜市は良いものを持っている。
菊をまとった信長の横の女性は誰だろう?
濃姫(齋藤道三の娘)?

信長居館跡の衛兵も菊人形
菊人形というのは頭部と手のひら以外、菊で覆われるものだから、これだけ少ないとオシャレな花かざりというべきか。

信長は安土へ行くまでここで天下布武、天下統一を目指した。
ちなみに信長(1534~1582)の居城は
 那古屋 ~1554
 清州 1554~1563 桶狭間は1560、26歳である。
 小牧山 1563~1567
 岐阜 1567~1576 義昭追放1573、長篠1575
 安土 1576~1582

この先にロープウェイ乗り場があるがまだ動いていない(9じ~)
しかし最初から乗るつもりはなかった。
歩いて登らねば昔のことは分からない。
7:06
登山道・めい想の小径。
別名・水の手口。急峻だが山頂への近道とある。
関ケ原合戦の前哨戦で東軍・池田輝政の兵がこの道を山頂まで駆け上がったという。
2300メートル、50分らしい。
目標40分。
7:09
いきなり、写真ではわからないが、かなり急。

7:14
丸山頂上。伊奈波神社跡地

ふと見ると、ここから別の登山道がある。
馬の背登山道。
案内板を見れば「急峻な近道」である「めい想の小径」よりさらに近道にみえる。
7:14
「老人・幼児には無理です」
この看板をみて、冷や水を選ぶ。
7:16
降りてくる女性に挨拶した。
「まあ、そんな恰好で上がって。スーツは汗びっしょりになるわよ。
靴もそれだと歩きにくいでしょ。
まっすぐ上がらずジグザグに行けばいい」
彼女は軍手をして本格的な登山スタイル。67歳という。
「週に2回上り下りしているの。ここで鍛えて四国のお遍路さんやろうと思って」
7:17
しかし、この道を選んだとことをすぐ後悔。
写真だと急峻さが分からないが、これは両手を地面について登らないと無理。
そこでエーザイでもらった大型写真集など書籍の入った紙袋の荷物をなんとかリュックに押し込む。

すると重いリックが背中で動いてしばしばバランスを崩す。
どこにでも足を出せるならバランスを崩しても次の足で調節できるから問題ない。
ところが、ここは次の足の場所を自由に選べない。
バランスを崩して慌てて置いた次の足の場所が悪いと、さらにバランスを崩し、崩しても手で捕まるものがないから転倒、転倒したら急斜面を落ちるのみ、死ぬかもしれない。

命には替えられれない。
そこで再び、リックから荷物をだし、重い紙袋を持ったまま石や根っこをつかみ上がることとなった。
7:19
もう引き返したかったが、下りだと手を使えない。
この服装、荷物で下りるのはもっと危険。 
戻るに戻れず、そのまま上ることにした。
手ぶらだったら何のことはないのだが。
いちいち断崖を目の前にして、どこから上がろうかとコースを考え、数歩先まで決めて踏み出す。
県庁所在地の城山なんてハイキングコースだろうと思っていたら甘かった。
7:39
ほんとに死にそうな場所。
山は土がほとんど流れ落ちて岩だけになるほど急峻なのに不思議と樹木がある。
でも引っかからず滑落するくらい隙間がある。

7:48
やっと到着。45分かかった。
登山に精魂使い果たし、もはや城に興味がわかない。
上着を脱いでしばしベンチで休息。
途中少しでも軽くするため捨てようかと思ったペットボトルのお茶を飲む。
全山が岩と言っても、この石垣の石は大きい。
足場の悪い中、どうやって積んだのか。


しかし、ここは天守閣を作る必要があるのだろうか?
麓からは米粒にしか見えないから、権力を示すものにならない。
なにも建てなくても見晴らしは十分だから、楼もいらないだろう。

長良川
7:57 東方面
帰りは6本のコースのうち百曲がり登山道を下りると決めた。
下山始めてすぐに井戸があった。
この城では普段生活しないだろう。
戦時に籠城する時のためか。

8:00
観光客はロープウェイで来てここから山頂を目指す。

この下にロープウェイの駅があるから手すり付きの道がしっかり作ってある。

8:04
南半球でできた堆積岩チャートがプレート移動でここまで来たという。
地層が斜めになっていて地殻運動の激しさを物語る。

チャートという岩石を久しぶりに見た。
平野小学校5年のとき、中庭に岩石園ができた。
PTAの人たちが広い長野県中を車で周って集めた大きな石たち。
当時、花壇造成なども業者任せにせず、親たちが作り、先生をして「平野のPTAは日本一だ」と言わしめた。
長野が教育県というのは生徒の学力が高いということではなく、学校に協力する親が多かったということではないかと思う。(実際生徒の学力は低い)
そのとき堆積岩のコーナーに、貝殻の入った砂岩、泥岩、石灰岩、礫岩、などとともに、チャートがあった。小学校は建て替えられたが、あの石はどうなっただろうか。
8:17
ロープウェイ駅から下は、途端に悪路となった。
数か所危ないところはあるが、馬の背道と比べたら楽ちん。
8:21
やっと地上に降りると足はがくがく。
8:35
正法寺。こんな形をしているのは中に大仏様がいるから。
ここもまだ開いていない。

岐阜も空襲に遭っている。7月9日、B29、135機。
死者818人、被災2万戸。罹災10万人。
しかし、この辺りの家は古い。

8:44
岐阜市のバスは駅を発着地点とせず、すべての路線が途中で駅を通過する。
もう二度と岐阜には来ないと思うので歩くことにした。

伊奈波神社入り口
先に述べた馬の背登山道の入り口にあったが、齋藤道三が築城に当たりここに遷座させた。
白うさぎの因幡も古くは稲葉と書いたらしいから、ここも稲葉か。
しかし、遥かに見える本殿まで行く元気なし。

8:55 東別院
真宗大谷派岐阜別院のこと。
市内には真宗本願寺派(西本願寺)の別院もあり、本願寺岐阜別院という。
ここも立ち寄る元気なし。

岐阜市役所の横断幕は、
「体験学習・市岐商デパート・開催11月3日」とあった。
なるほど、市立高校なのだから市役所が応援するのは当たり前だ。

これこそ体験学習だ。
薬科大の体験学習というと病院、薬局の見学ばかりだが、体験とは言えないのでは?

9:03
フローレンス・ヤナガセ
美川憲一「雨の降る夜は~心も濡れる~」
アーケードになっていると雨でも濡れない。

この「ヤナガセ」通りもアーケードになっている。
ところで柳ケ瀬ブルースは歌詞の後ろの方に、長良川とか金華山とか入っているのだろうか? 「鵜飼い」「信長」は無理でも何か岐阜らしさを入れないと締まらない。

9:11
駅の近くまで来ると、金(こがね)神社ではラジオ体操をしていた。

神社の表と裏が公園になっているが、もとは境内だったのだろう。

9:20 名鉄岐阜駅
右の十六銀行本店は立派だった。
日曜の朝は人がいない。
さて、朝食をどこで食べようか。


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