スモン協議会はキノホルム服用率の調査を2回行った。
1回目は、45年9月開始、18班員の890例
2回目は、46年7月開始、18班員含む全国医師から2456例
2回目は、グリーンブックNo8(昭和47年2月発表)に載っている。
・確実になし 269
・無いらしいが不確実 189
・あり 1381
・使用状況不明 617
合計 2456
「確実になし」と「ないらしいが不確実」を入れると、458人、使用状況不明を除いた1839人のうち、24.9%になる。
それでも例数の多さから、1回目とほぼ同じ結果とし、協議会側は自信を深めて発表した。
しかしイギリスのMeadから、全患者9249名から確実な患者として5839名を選び、さらに「服薬状況の明らかな」2456名を調査したという操作に批判を受けると、重松班長は
「あれは精度が低いので890例の方を使うべき」と述べた。(文献1,p254)
単なる服用率だけでは対照群がないから不十分だと批判されると、昭和45年9月8日のキノホルム販売中止という行政措置のあと、スモン患者が激減したことこそ「動かぬ証拠」とする。
文献7
確かにキノホルム禁止後に激減している。確実に服用なしの15%分まで消えてしまったのは、減りすぎだが。
スモン協議会の公式報告書を見てみる。
なお、報告書の結論は、
「行政措置は、疫学的にいって全国規模で行われた一種のProspective study であるが、その結果スモン患者の発生は激減した。(下図参照)このことはキノホルム剤がスモンの発生と直接あるいは間接に関係あることを意味している・・・」
グリーンブック No8 p2(要約)
よく見ると前年44年秋から理論推定値よりも新規患者発生が減り始め、バラつき下限2シグマあたりを推移している。そしてキノホルムが自由に処方されていたにもかかわらず、45年6月から2シグマを下回り、例年なら流行する7,8月は明らかに少ないのである。
もっと重要なことは、なるほど全国的に見ると発生は増加を続け、キノホルム禁止後に激減したが、地域的に見ると、各地ともキノホルムに関係なく急に発生、その後激減している。
例えば、釧路地方では昭和33年に1例あり、段階的に増加、昭和37年に一度ピーク(20例)があって、減少したあと40年に最多26例の発症を見、その後急速に減少、43年2例、44年1例、45年は7月までに4例を見たが、その後1例も発生していない。(グリーンブック、No2 伊東弓多果 p3)
戸田、蕨では昭和39年に大量発生、翌年は6分の1に激減、以降は散発した。
グリーンブック No8 p167(山本俊一)
また岡山県井原地区では昭和41年から発生数が急増し、キノホルム販売停止の1年ほど前から発病が減った。このことについて朝日新聞(昭和46年6月16日)は、A医師が41年1月に井原市民病院に勤務し始めキノホルムを乱用、45年1月に退職したせいであると報じた。
しかし、患者発生はA医師の退職前から減少していたこと、乱用はない、などA医師(高木医師)、岡山大第一内科、井原市民病院の関係者らは、6月18日朝日を相手に「事実と反する」と公開質問状を出し、ねつ造偏向報道を批判した。その内容は7月10日付の岡山県医師会報353号にあるらしい(文献1、p208)。
すなわち各地でのスモン発生は一時的で、キノホルムの使用禁止前にもかかわらず、終息したのである。国内で新規患者がどんどん増加したのは発生地点がどんどん広がったことによる。45年9月の急激な減少は、全国に広がった発生が、初期の発生地点と同じように、一斉に終息した結果であるとも考えられる。
感染病などはこれと全く同じ流行、終息パターンを示す。
キノホルム説は大きな矛盾があったから、協議会の中でも反対意見があった。
しかし甲野礼作会長は45年度報告(文献3、No2-4、46年3月)の序文の中で
「スモンの病因究明に対する多くの有力な手掛かりが、昭和45年度の研究から生まれて来た。この網にかかった最も大きな魚はキノホルムであるといえよう。(略)もとより現時点においてはキノホルムを原因と断定するのは時期尚早ではあるが、スモン発症に対する影響はもはや何人も否定できないと思われる」と書いた。
その後、東大神経内科とその関係者を中心としてキノホルム説を進めていく。
彼らが発表する証拠、論文の問題点については後で述べる。
ちなみにスモン協議会は64人もいたが、会長、班長、幹事の多くは東大医学部出身であった。
最後に一つ、キノホルム処方件数が患者発生と並行しているとしたグラフ。
証拠として挙げられたグラフは一見一致しているように見えるが、棒グラフと折れ線にして、たくみにずらしていた。
文献1 p56
田辺は両方とも棒グラフに書き換え、一致しないではないかと反論、控訴したが、裁判遅延策であると日本中の非難を浴びた。
この少し前の、記憶に新しかったであろうサリドマイドは、
1957年10月1日 グリューネンタール社がコンテルガンの商品名で発売。
1961年11月18日 ウィドゥキント・レンツが催奇性を学会で報告。
11月26日 グリュネンタール社が製品の回収を開始。
1962年5月17日 大日本製薬が製品の出荷停止。
9月18日 販売停止と製品の回収を開始(ドイツでの回収開始から294日後)
アメリカでは1960年9月に販売許可の申請があったがFDAの審査官フランシス・ケルシーがその安全性に疑問を抱き審査継続を行ったため、治験段階で数名の被害者を出しただけだった。
一方、日本ではこのときの当局の遅れが問題になったこともあり、キノホルムに対する厚生省の対応は非常に早かった。
この速さが、キノホルム説の弱さにもなり(減少が禁止のせいか自然現象かどうか確実ではなくなった)、裁判が長引く原因となった。
文献3 スモン調査研究協議会研究報告書
昭和48年から平成7年まで東大医学部図書館にあった。
それ以前はグリーンブックと呼ばれ本駒込の日本医師会図書館にある。
参考文献
1.謎のスモン病 高橋秀臣 行政通信社 (1976)
2.田辺製薬の「抵抗」 宮田親平 文芸春秋社 (1981)
3.スモン調査研究協議会研究報告書(グリーンブック) No1~No12 (1969-1972)
4.厚生省特定疾患スモン調査研究班 スモン研究の回顧 1993
5.スモン・薬害の原点 小長谷正明 医療 63, 227 (2009)
6.スモン病因論争について(1)~(4) 増原啓司 中京法学15, 1980
7.薬害スモン全史(1~3) スモンの会全国連絡協議会編、1981
なお、書く人によって内容は著しく異なる。
3~5は権威者側の記録、総説、1,6はそれに疑問を呈したもの、2は一連の経緯を説明するもの。7は患者、支援者側の記録
3~6はネットで読める。(ただし3はNo1~No6)
別ブログ
20200215 スモンの謎2 キノホルム服用率85%
20200214 スモンの謎1キノホルム説の登場
千駄木菜園 総目次
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