2020年11月12日木曜日

浅草花やしきからホッピー通り、公会堂

 11月8日、谷中から台東区めぐりんバスで浅草に来た。

最初の浅草は学生時代、谷中にいたとき。
寺社にはまったく興味がなく、境内まで行かずに六区で一人で買い物かインベーダーゲームに来た。
そうそう、国際通りの薬局で家庭教師のアルバイトをした。

長野から運んできたぼろい自転車で言問い通りを走って通っていたら、ある日見かねて新しい自転車を買ってくださった。その家は安芸浅野家のご典医という家柄であったが明治後先祖が薬剤師になった。
当時薬剤師は漢方医の多かった医師より近代科学を学んで魅力的な職業であったが、その後地位が低下し、1979年ころご主人は「薬剤師なんてつまらないもんです」といって娘を医師にしようとされた。
しかし駒込の聖学院に通っていた彼女は歯科をえらんだ。明るくかわいい高校生で見事合格した。1982年5月16日三社祭を一緒に見に行ったが、それきりで発展しなかった。
今どうされているだろう?


なんて思いながら2020年、バスを降りて六区花道から入り、ブロードウェイを南下、雷門から仲見世を北上、本堂(観音堂)、浅草神社を見た(別ブログ)

本堂の西北に花やしきがある。
2020-11-08 15:09
昭和に東京で生まれた人でないと、ここは知らないだろう。
私も入ったことはない。

入場料1000円、乗り物は中で別に払うようだ。
わが国最初の遊園地として知られる。
1853年(嘉永6年)に千駄木の植木商、森田六三郎により牡丹と菊細工を主とした植物園「花屋敷」が開園した。遊園地らしくない名前は、こういう経緯による。
嘉永年間の尾張屋版切絵図で我が家のあたりは「植木ヤ多シ」と書いてある。

当時の入場者は文化人や上流階級の大人だった。
しかしその後、大娯楽施設として発展した後、今や屋根やレールがさびている。

レールぎりぎりに民家の模型を配している。
子どもが喜ぶジャングルや未来志向のビルでもなく、なぜか古い二階家である。
こういう趣向は面白い。

花屋敷となりの民家は終戦後そのままの雰囲気。
取り残された浅草らしい。

映画のセットのような花屋敷通り。

ブロードウェイに出る前に南側の路地に入る。
左の奥の抹茶クレープに女子の行列
右は路上に藤棚がある。

2020-11-08 15:15
テラス席というとおしゃれだが、ただテーブルを出しているだけ。
昼間から路上で飲んでいられるところは珍しいかもしれない。

このあたり一帯、浅草公園第四区として、瓢箪池や植え込みの中に茶屋など点在する風雅な地であった。

1907(明治40) 東京案内下巻より

しかし空襲で焼けた浅草寺は1951年、観音本堂の再建のためにここを売却。
池は埋立てられ、映画館「浅草宝塚劇場」と遊園地「楽天地スポーツランド」ができ、1959年には東急の複合娯楽施設、新世界ビルが建った。

その後室内遊技場とキャバレーが同居した一大レジャー拠点、新世界ビルは、時代に合わなくなり、壊されて1973年日本中央競馬会の場外馬券売り場となった。
(ウインズ浅草と改称したのは1987年)。

浅草の場外馬券売り場は1950年、二天門のそばにできたが、ここに移ってきて、六区の歓楽街と一体化した。
すなわち両側の飲み屋は全店、大型モニターで競馬中継をしている。


ホッピー通りというらしい。
秀逸なネーミング。
飲んでいる客はほぼ全員競馬ファンであろう。

観光名所というのは一回くれば十分である。
2012年9月から10月にかけて、浅草六区最後の映画館であった5館が相次いで閉館され、全てのなくなった。この時点で定期的に来るのは競馬客だけとなり、繁華街というより名所となる。

観光名所は、デートや食事で待ち合わせる池袋新宿渋谷にかなわない。
埼玉にいた時も上野で乗り換えてまで行く気がしなかった。

東武線沿線の人には依然ターミナルであるけど、JRにつながっていないのが致命的。
みな北千住で乗り換えてしまい、浅草まで来る人は少ない。
彼らにとっても1度行けば十分な観光地であろう。

しかし、観光地であっても賑やかさ、猥雑さは魅力となる。
競馬客はその賑やかさに貢献しているだろう。

ホッピー通りから六区通りに入り東に行くと伝法院前に浅草公会堂。
浅草公会堂
ここは戦前浅草区役所があったが、戦後下谷区と合併すると台東区役所浅草庁舎となり、1977年公会堂に建て替えた。
渋谷公会堂などと同様、催し物、興行が盛んで、田舎の公会堂とだいぶ内容が違う。

正面入り口前の「スターの広場」の手形とサインは、ここに出演した人かと思ったが、大衆芸能の振興に貢献した浅草ゆかりの俳優、落語家、歌手のものらしい。
小椋佳、五木ひろし、森下洋子など目につく。
出演者でないなら、この日付、順番はなんだろう?

着物の古着屋
5000円から1万円。500円の上掛けも売っていた。

こういう店は浅草でないとやっていけないかもしれない。
都内に1軒くらいは残ってほしいから、浅草に来ればあるというのは重要だ。レコード、カセットテープ屋とか、映画パンフレット、骨董とか、そんなものが集まればリピーターが増えるかもしれない。

浅草の没落(かつての繁栄からみた場合)は、ひとえにJRが通らなかったことによる。
奥州、日光街道が通っていたのだから東北線が通ってもよかったのだが、寛永寺が焼けて土地が余っていた上野に線路が敷かれた。
浅草は大いに栄えていて土地買収が大変だったこともあるが、みな鉄道の重要さを認識していなかった。
ほとんどの客が徒歩で集まってきた時代だから仕方がない。

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