弟夫婦がこちらで就職した子供たちと会うため1泊2日で上京した。
弟は2日目の朝、6月19日、一人で家族と分かれ都内を見物することになった。
電話で相談し一緒に早稲田を歩くことにした。
JR高田馬場でなく、東西線早稲田駅で9時に待ち合わせ。
千駄木から大手町経由、日曜朝のすいている地下鉄で行くと、駅の混雑もなく、車窓の景色もなく、地上に出ると瞬間移動したようだった。
早稲田大学に行く前に、おしゃべりしながら少し周りを散歩する。
東西線が下を通る早稲田通りから斜めに住宅街に入る。
漱石山房通りという。
2022-06-19 9:03
新宿区立早稲田小学校
創立122年。早稲田尋常小学校、早稲田国民学校などと名前を変えたが、一時牛込第四小学校ともいわれた。
関東大震災で被害を受け、1928年(昭和3年) 鉄筋コンクリート3階建の校舎となった。戦災を受けたが、当時の面影を残して修復されている。
区立早稲田幼稚園を併設。
坂を上りながら落ち着いた家並みが続く。
下り坂になるころ、左手に現代的な建物が現れる。
9:06
新宿区立漱石山房記念館
2017年開館だから新しい。
夏目漱石は牛込喜久井町、代々名主をつとめた夏目家で生まれた。
慶応3年で翌年が明治元年だから、明治の年号がそのまま満年齢となる。
生まれた喜久井町は、ここ早稲田南町の隣町。記念館からは家数件分しか離れておらず、明治のころはほぼ同じ土地とみてよい。
すぐに新宿の名主、塩原家の養子となり、浅草、喜久井町(生家)、猿楽町、本所、大学を出てから松山、熊本、ロンドンなどに住んだが、文京区とも縁が深い。一高、東大に通ったほか住んでもいる。
1. 新福寺(白山3-1-23)
明治16(1883)年、大学予備門受験に備えて英語を学ぶため、成立学舎に入り、その間ここで下宿した。
2. 法蔵院(小石川3-5-4)
明治26年、東大英文科を卒業後、東京高等師範学校の講師となり、ここに間借りした。
ここから明治28年松山中学へ赴任。
3. 千駄木、猫の家(いま向丘2丁目20-7)
留学から帰って明治36年3月から39年12月まで、3年10か月すみ西片へ転居。
草枕、吾輩は猫である、坊ちゃんを書いた。この家は13年前の明治23年から1年ほど鴎外も住んでいた。
4. 漱石・魯迅旧居跡(西片1-12-8)
39年12月から40年9月まで9か月すみ、早稲田南町に転居。
虞美人草を発表。
そのご、明治41年4月から魯迅が住んだ。
さて、生家のすぐ近く、ここ早稲田南町は明治40年から大正5年に49歳で死ぬまで9年間住んだ。漱石山房と呼ばれ、毎週木曜日の午後を面会日とし、木曜会は若手作家、青年たちが集まるサロンのようになった。鈴木三重吉・小宮豊隆・森田草平・安倍能成、芥川龍之介、寺田寅彦らである。
漱石にとって、ここは最も長く住み、ここで死んで、生まれた家にも近い。さらに代表作の「こころ」が書かれた。しかも、戦後、漱石公園と区営住宅があり、土地が残っていた。
記念館の場所として最もふさわしい。新宿区はいいものを建てた。
ちなみに、一葉記念館(台東区)、サトウハチロー記念館(北上市)は文京区が建てるべきだったと思う。
9:08
入場料は300円。開館は10時。
ガラス張りの記念館の中で掃除機をかけている係員が見えた。
離れのような小屋(上の写真の奥)は開いていて、係員が一人いらした。
展示物があり、そこだけ覗いて(無料)退去した。
漱石が一葉、鴎外など多くの作家と違うところは、言文一致の現代書き言葉を作った点である。明治の昔は王朝風文体、漢文読み下し文体、江戸っ子的話し言葉風文体などいろいろあったが、彼の文体なら小説も論文もレポートもかける。読みやすいだけでなく、心の描写も現代的で、今読んでも古さを感じないところが他の作家と違う。
外から見ても資料が充実していそうで、いつかまた来てもいいと思った。
喜久井町の住宅街を少し歩いて車の通る道に出る。
通りを東に行けば三川先生のお宅がある二十騎町、さらには神楽坂に出るが、早稲田に戻るため西に向かう。通りは牛込原町と喜久井町の境で、昭和40年の住居表示で整理されず小さな町が残る地域である。
夏目坂を下り切って地下鉄駅のある早稲田通りに戻った。
9:21
有島武郎旧宅跡
いまは三井住友銀行原町社宅
通りは広い道に合流した。
夏目坂通りという。
9:24 このあたりから下り坂
9:27 夏目坂
坂を下りて、早稲田通りとの交差点手前、右側に漱石生誕地の記念碑がある。
喜久井町1番地。
1番地というのは番号を振るときに町内で最も駅に近いところ、皇居に近いところだったりするが、ここは喜久井町夏目家があったところでもあり、1番にふさわしい。
すぐ裏は早稲田大学40号館、41号館がオフィスビル、マンションの間にたっている。
ちなみに喜久井というのは、武田の遺臣だった夏目家の家紋が“井桁に菊”で、漱石父の直克が夏目坂とともに名付けたらしい。
ぐるっと一回り、改札口から30分足らずの散歩だった。
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