2022年7月8日金曜日

早大・沼正作追悼シンポジウムと安部球場

弟夫婦がこちらで就職した子供たちと会うため1泊2日で上京した。

弟は2日目の朝、6月19日、一人で家族と分かれ都内見物するという。
前日夜、電話で相談し一緒に早稲田を歩くことにした。

東西線早稲田駅で9時に待ち合わせ。
新宿区立漱石山房記念館、穴八幡神社のあたりを歩いた(別ブログ)。

しかし目的地はもちろん早稲田大学。
最後に来たのは1993年1月だから30年も前だ。
ここ数年都内をあちこち散歩しているが、早稲田は後回しにしていた。

理由は、大学に来るなら学生のいる平日が良いからだ。
校舎に入ったり学食でランチしてみたかったが、仕事をしているときは散歩だけのために平日休んでまで来る気は起きず、そのうちチャンスがあるだろうと敢えて目的地からはずしていた。

また、弟の嫁さんが早稲田なので、一緒に来れば昔のキャンパスの話が聞ける。平日で彼女も来る日がベスト、とチャンスを待っていたのだ。

ところがこの日は日曜、しかも彼女はまだホテルで寝ていて、昼は娘とスイーツを食べに行くらしい。女は歴史とか思い出の地とかよりも、現実のグルメのほうがいいのだろうか?

念願の早稲田は、最もつまらない日に来てしまったが、これ以上後回しにしていると行けなくなってしまう。

穴八幡のある馬場下町交差点から、早稲田中学、高校を横目で見ながら南門通りをはいっていく。
2022-06-19 9:45 早大南門
ところで正門ってあるのかな? 

早大南門通りの突き当りは大隈講堂のロータリー。
あまりにもオープンで、正門という門はない。
当然守衛さんもおらず、近所の人がベビーカーを押して散歩に入っていける。
東大のような石段や石畳の道も少なく、バリアフリーのキャンパスである。
グーグルストリートビューの車まで入っていけるというオープンさに驚く。
バス停があった。
千駄木を通って不忍通りを上野まで行くバスはここではなく、大隈会館の向こう、新目白通りから出るらしい。

キャンパス案内図の前で記念写真を撮っている留学生らしき若者と友人がいた。
キャンパスはあまり広くない。
学習院と比べるとグラウンドなど緑地、空き地がほとんどない。それでも慶応の三田よりだいぶ広い。
こうしてみると東大、京大、千葉大、埼玉大、お茶大など国立はなんと恵まれていることだろう。逆に言うと、早稲田はこの敷地であれだけの人気、偏差値を保っているのは大したものだ。公立私立の敷地の格差は中学、高校においても言える。

9:48
ここに来たのは少なくとも3回ある。

1.1977年ころの学生時代、学園祭にきた。ぶらぶら歩いていた女の子二人に声をかけた。日米会話学院の学生だった。女子大の学園祭に行っても歩いているのは男ばかりで、女子学生は模擬店などに忙しい。ナンパするなら女子大よりも早慶のキャンパスのほうが簡単だと知った。
2.1991-12‐17~19 第15回日本神経科学会 
3.1993-01‐14,15 NYアカデミーシンポジウム(沼Memorial)

後述するが、このほかに高田馬場から古本屋を覗きながら一度くらいここまで来たことがあるかもしれない。

ロータリーから入ってすぐの右手、1号館一階は早稲田大学歴史館となっている。
日曜も空いているとは驚き。しかし開館は10時だからまだ少し早い。

建物は古い部分を残しながら高層化させ、伝統と品位を残しつつ、高度利用している。
9:48 1号館の隣、3号館

ロータリーから入ってすぐ左の2号館は会津八一博物館だが、ここも10時から。

それまでに学会で記憶のある国際会議場に行ってみる。
北門から出てグランド坂通りを挟んで向かいにある。
9:56
早稲田大学総合学術情報センター 1991年4月開館

ここに、中央図書館とシンポジウム会場となった国際会議場、井深大記念ホールがある。
入ってみると10時開館の図書館の前に人が並んでいた。日曜というのに早稲田の学生は勉強家だ。

1991年12月の神経科学会はできたばかりの国際会議場と大隈講堂などが会場となった。
学会のことは全く記憶にない。学会とは全く関係なく、公衆電話で三川先生に電話したことだけ覚えている。学位のことで訪問するアポイントを取るためだったと思うが、ずいぶん緊張したことだけ記憶にある。

1993年1月は、京大沼正作先生(1929 - 1992年2月15日)の追悼国際シンポジウム(New York Academy主催)があり、森泰生氏が世界中から称賛された脳のCaチャネルのクローニングについて講演していた。まだ若く、英語の上手い人だなと思った。彼は沼先生が亡くなった後、その年12月にアメリカ、シンシナチ大学の客員助教授となっていた。

この7か月後、私が彼のいるラボに留学するとは、思ってもいなかった。以後、30年近く親しく付き合い、この3月にも京都で会ってきたのだが、当時はステージから遠く離れた客席から雲の上の人を見るようなものだった。

さて現実に戻ると、10時になってぞろぞろ人々が図書館に入っていく。
それとは逆に、我々は博物館に行こうと国際会議場、総合学術情報センターを後にした。
ふと銅像に気づいた。
10:01
そう、ここには安部球場があったのだ。

銅像は野球場の建設について大隈重信を説得した初代野球部長安部磯雄と初代監督飛田穂洲である。この2体は取り壊す前の球場のセンター後方にあった。

早大野球部は1901(明治34)年創部、球場は翌1902年に完成、最初は当然のことながら安部球場ではなく戸塚球場といった。当時はプロ野球もなく、慶應の三田綱町球場とともに東京の代表的な野球場だった。神宮ができるまでは六大学野球も行われ、1933年には日本で初めてナイター設備が完成、1936年には日本職業野球連盟結成記念大会がラジオ中継された(わが国最初のプロ野球中継)。

1987年11月の「サヨナラ安部球場」全早慶戦をもって球場は閉鎖、野球部の練習場は東伏見に移転した。1989年スタンドの取り壊しが始まり、1991年4月に総合学術情報センターがオープンした。
グランド坂通りに工事のフェンスがあったことを覚えている。
いつだったか不明だが、それは前述の3回ではないことが明らか。つまり、89年か90年に来ている。何の用だったか、それこそ散策だったのだろう。

フェンスの向こう側は見たことがなかった。
幸い昔の航空写真がある。
国土地理院 1984-10-31撮影
ホームベースは南側。
穴八幡や國枝卓氏のいらした甘泉園住宅も見える。

こうしてみると、安部球場という名前や歴史は立派だが、今の野球場とはだいぶ違う。予想に反して観客席があまりない。球場全体は四角形であり、外野フェンスは円弧になっておらず、センターが角になっている。
拡大すれば、そのセンターの角に木が見える。
碑文によれば、ここに銅像が立っていたのだろう。

(続く)

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