熱海に行く途中、鎌倉に寄り道した。
東京の天気予報では午後から降るようなことだったが、鎌倉は朝から雨だった。
じつは鎌倉はほとんど初めて。
最初は中学の修学旅行。
二度目は30年以上前の1990年ころ、職場の鏑木さんの父上だったか母上だったか亡くなられて研究室のみんなと焼香に来た。鎌倉駅から逗子へバスで行ったから、鎌倉はほんの一部しか見ていない。
いつか行こう行こうと思いながらこの年になって、しかも他に行くついでとは・・・
西日暮里を8時過ぎに出て、1時間10分程度で着く(945円)
2024₋02₋25 9:19
鎌倉駅
駅舎は1984年というが、改装もしているだろうし、全く記憶がない。
9:22 東口
鳥居が左に見える。まっすぐ行けば鶴岡八幡かな?
観光案内所が券売機のすぐ横にあったので入って地図をもらう。
9:27
駅から見えた鳥居は参道かと思ったが、扁額を見れば「鶴岡八幡宮」ではなく、「八幡宮近道」と書いてあった。縦柱には「小町通り」とある。要するに商店街のアーケード入り口のモニュメントのようだ。さすが鎌倉、感心した。
この通りはよく散歩、グルメ番組で出てくるが、やはり鎌倉と言えば若宮大路を歩きたい。
9:28
雨に濡れた路上の地図で確認すれば、ツルオカではなく、ツルガオカである。
なんでもインバウンド客に迎合することはないと思うが、ローマ字併記が便利なこともある。
オオギガヤではなくオオギガヤツということは知っていた。
9:29
若宮大路に出た。ここから南は一の鳥居を過ぎて由比ヶ浜までのびる。
北の終点は山を背にした鶴岡八幡。
まるで京都の大内裏から羅城門まで延びる朱雀大路のようだ。
実際、頼朝は三方の山と海に囲まれた鎌倉を本拠地にして都市計画を進めたとき、北山に守護神の八幡社を置き、社殿を中心に幕府の中枢となる施設を建てたから、朱雀大路と同じである。
9:30 二の鳥居
ここから先は中央分離帯のように、車道の真ん中に並木道がある。
観光客は日本人より外国人のほうが多い。
鎌倉はもともと桓武平氏の当主、平直方が京都を本拠地にしながら関東に所領を得て鎌倉に居館を設けたことに始まる。一方、清和源氏の一派、河内源氏の2代目、源頼義が1036年、48歳で相模守として受領(ずりょう)に任じられたとき、平直方の娘をめとったことから、直方は頼義に鎌倉を譲った。
河内源氏は、初代頼信が平忠常の乱を、次いで頼義・義家(八幡太郎)が前九年の役、後三年の役で武功を重ね、摂津源氏、大和源氏などを抑えて「武家の棟梁」とみなされるようになった。これに伴い、東国の坂東武士(大半が平氏)の中には、河内源氏の家人となるものも出て、河内源氏の一部は北関東にも土着した(上野・新田氏、下野・足利氏、常陸・佐竹氏など)。
鎌倉に入った頼義は、平直方から譲られた大蔵(鶴岡八幡の東)の屋敷に住み、鎌倉が河内源氏の東国支配の拠点となった。(実際は頼義も直方も京都を拠点とする軍事貴族である)
1063年、頼義は、前九年の役に際して戦勝を祈願した京都の石清水八幡宮(あるいは河内源氏の氏神・壺井八幡宮)を鎌倉の由比郷鶴岡(現 材木座1丁目)に鶴岡若宮として勧請した。(現在は住宅街の中に小さな神社として残り、グーグルストリートビューで見ると「元鶴岡八幡宮」という石柱が通りに建っている)。彼は東京、杉並の大宮八幡宮も創建している。
若宮というのは新しい神社ということである。
それから100年余り後、頼朝が1180年8月、伊豆で挙兵、相模から安房にわたり上総、下総、武蔵を平定して10月、鎌倉へ入った。そしてすぐに由比の鶴岡若宮を小林郷北山(現在地)に遷座させた。父祖伝来の地であるだけでなく山と海に囲まれた要害であるため、本拠地に決めたのであろう。1182年には、京都の朱雀大路を倣って新しい若宮から由比ガ浜まで直線道路を開き若宮大路と名付けた。
9:31
若宮大路は盛土によって中央部分が一段高く、両側を石で押さえている。
これを段葛(だんかずら)というらしい。
鎌倉に入った頼朝は36歳で待望の嫡男、のちの頼家を得る。懐妊中の政子の安産を願っての大路の造成であった。有力御家人たちが土や石を運んで段葛を作り、頼朝が自ら監督したという。
発掘調査の結果、大路の幅は広いところで11丈(33メートル)あったらしいから、現在の両側の車道も大路だったようだ。段葛構造は、当初は鶴岡八幡宮の社頭から一の鳥居までの1300 mに渡ってつくられたが、その後の地震や津波、さらには横須賀線の建設で明治時代には二の鳥居から南がなくなったという。
9:32
鳩サブレの豊島屋本店があった。
そうだ、鏑木さんはよくお土産で部屋にもってきてくれた。
9:38
両側はわりと古い、きれいな店舗が多い。
けばけばした店がないのは街並み規制があるのか民度が高いのか。
9:39 八幡宮前、三の鳥居
鳥居をくぐると境内。東西に広がる源平池の中央、くびれた部分に太鼓橋がかかる。これは文化財で通れない。通れたとしても傘を持ったまま滑って転びそうなほど急である。横目で見ながら陸地部分を通って進む。
左手に鎌倉文華館・鶴岡ミュージアムがあるが10時の開館前だったので素通り。
9:43 舞殿
1186年、静御前が、義経を慕った今様の歌にあわせ頼朝と政子のまえで白拍子を舞い、頼朝の怒りを買った。当時この舞殿はなく、舞ったのは若宮(下宮、石段下の東)の回廊だったとか。
舞殿の後ろの石段を上がると本宮(上宮)と呼ばれる本殿。
楼門は神田明神と同じく、両側に一対の武士坐像がある。
説明は何もない。
頼義と頼朝なら面白いのだが、違う。
9:45
楼門は随身門と言って、坐像は貴人(平安貴族)を警護する武人(随身・ずいじん)をかたどっている。寺院の仁王門に相当し、神田明神のほかにもよくある。
9:46
本宮前から南を臨む。天気の良い日は太平洋も見えるという。
頼朝の時代は樹木も小さかったから鎌倉の町がよく見えたことだろう。
1199年頼朝がなくなると長男頼家が18歳で家督を継ぎ(2代鎌倉殿)、3年後に征夷大将軍となる。しかし1203年頼家を後見してきた乳母父・比企能員と、頼朝の次男実朝を担ぐ北条時政の対立から、能員は謀殺され、頼家は伊豆に流され、翌年北条の手兵によって殺された。
1203年に12歳で第3代征夷大将軍となった実朝は、1206年兄頼家の嫡男・公暁を養子にしたが、1219年1月の大雪の日、右大臣就任を祝って鶴岡八幡宮を参拝、石段を下りたところで公暁に襲われ落命した。28才。北条義時は躊躇なく公暁を誅殺し、頼朝の血筋は絶え、以後は北条の天下となった。
境内を出る途中、源平池の西半分・平家池を覗いた。
昔は源平の白旗赤旗にちなみ、東の源氏池は白い蓮、西の平家池は赤い蓮が咲いていたというが、今は混在しているらしい。
9:52
鎌倉文華館・鶴岡ミュージアム
池のほとりに立つ鎌倉文華館は、日本最初の公立近代美術館として1951年、神奈川県立近代美術館として開館した。開館時は国有地であったが、その後鶴岡八幡の土地となったため、県の土地貸借契約の期限が切れるのを機に2016年閉館した。
契約では更地になることになっていたが、建物の保存運動が起こったのは記憶にある。結局建物は鶴岡八幡に譲渡され、耐震補強などして2019年鎌倉文華館・鶴岡ミュージアムとしてオープンした。
カフェなどもあるらしく、もっと近くに行っても良かったのだが雨で寒くて元気がなかった。
公暁が実朝を襲うとき隠れていたという石段脇の大銀杏は、2010年3月の強風で倒れたが新芽が出て再生しつつあるという。もっともイチョウは外来種で頼朝以降(鶴岡八幡造成以降)に植えられただろうから、公暁の時代は隠れるほど大きい銀杏はなかったそうだ。
その再生中の銀杏を見損ねたが、もちろん雨の中、戻る気は起きなかった。
雨というのは見物する気分をしぼませる。
この日、最高気温は5.8度(東京)である。
さて雨の鎌倉はつぎにどこへいこうか。
(続く)
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