4月15日、綾瀬駅から古隅田川の親水緑道を西に歩いた。
綾瀬川を水戸橋で渡り、民家の間を抜けるとすぐ、小菅拘置所の巨大な建物が現れた。
2024₋04₋15 10:40
一帯は極めて人工的で(世俗的なにおいがせず)、公園はあるけれども平日のせいか誰もおらず、造園業者が掃除と植込みの手入れをしていた。拘置所の敷地内であれば収容者がするだろうか。
拘置所の東は綾瀬川との間に公務員宿舎(合同宿舎小菅住宅)のマンションが並んでいる。
2010年竣工、4棟あって1220戸という。
セブンイレブンもあるが、すこし他と雰囲気が違うのは気のせいか。
拘置所の中は入れないが、一周してみようと外縁に沿って西に歩く。
広い外縁道路には何もないと思っていたら、拘置所南門の向かいに古い小さな店があった。
10:43
池田屋 差入店
となりは「弁護士村上昭夫」の看板。
カフェ・ダイニング「アイアイ」もある。
「差し入れ店」と看板にわざわざ謳っているのは、持ち込める品物に制限があって、この店は当局の監修のもとに商品をそろえているのだろうか? 向こうのセブンイレブンの品ではダメなのだろうか?
いったい、どんなものがあるのだろう? しかし興味本位で覗くのは憚れるな、と思った瞬間、若者が二人、店から出てきた。かわいい顔にピアスをして、10代だろうか。
先輩だか仲間に会いに来て彼の話でもしているのか、楽しそうに笑いながら道路を渡り面会用である南門に入っていった。
病院の面会と違って、ひどく明るいのが意外だった。
10:44
若者二人は普通に中へ入っていった。
守衛室などなく思ったより開放的。
しかし大学敷地などなら入って行けても、面白半分で入るのは気が引けた。
今、写真を見て注意書きを初めて読めば、(当然のことながら)面会、差し入れ、出所お迎え以外の入場は禁止されている。しかし(行こうと思えば)窓口までは行けそうである。
危険物持ち込み禁止は分かるが、ゼッケン、ハチマキ、ワッペンをつけたものの入場もダメという。ごみのポイ捨て禁止まで書かれていた。
拘置所と刑務所の違いは、おおざっぱに言えば、前者が裁判前の、刑が確定していないものを収容するのに対し、後者は刑が確定した受刑者を収容する。かつては両方ひっくるめて監獄と言ったが今は刑事施設という。拘置所は全国に8か所あって支所を入れると98か所ある。
ちなみに死刑囚は有罪が確定しているが刑務所ではなく拘置所に入れられる。全国に7か所あり(仙台、札幌は刑務所に併設された拘置支所)、関東甲信越、静岡で確定した死刑囚はこの小菅に収容され、もちろん刑場もある。2023年12月28日時点で、収監中の死刑囚は全国で106人、そのうち、ここには坂口弘、木嶋佳苗はじめ50人収容されているはず。
刑務所の網走とか府中とかと比べ、拘置所の小菅になんとなく暗いイメージが浮かぶのは死刑と関係するからだろうか。
さて、敷地の南縁を西に歩いていく。
フェンスの前にレンガが置かれていた。
何かの記念碑である。
10:45
説明を読めば、明治5年に銀座、築地が火災で焼け野原になり、再建にはレンガ造りにすることが決定、その年の12月には川崎八右衛門が政府の要請をうけここにレンガ工場を建設した。明治11年に内務省が施設、敷地を買い上げ、同時に監獄を建て、小菅監獄とした。西南の役で敗れたものを賊として収容し、レンガ製造に当たらせた。ここで養成された優秀なレンガ技能囚人が全国の監獄に移送され各地で囚人レンガが作られるようになった。
桜田門外に今もある法務省本館をはじめ、銀座、丸の内、霞が関の多くの煉瓦はここで焼かれたという。
しかし、説明板に無造作に貼られた写真ははげている。
レンガの置き方は正面とか真ん中とか考えず、そこらの石ころを積み上げたかのように無造作に置かれ、通行人が自由に持って行ったり、代わりにコンクリートブロックを不法投棄できるような記念碑である。
レンガの左の何かを囲んでいたであろう枠の中は雑草が生えていて、過去のストリートビューを見れば花壇だったようだ。
さて、レンガ製造所は明治の話だが、江戸時代、ここは関東郡代伊奈忠治の下屋敷として歴史が始まった。敷地10万8千坪は、東大本郷キャンパスとなる加賀藩上屋敷に匹敵する。
忠治は、関東郡代・伊奈忠次の二男。
父の忠次は、武蔵小室(現・北足立郡伊奈町)に陣屋を構え、私が90年代に7年住み、2013年から9年間通った伊奈町の町名にもなった。その子忠治は幕府勘定方に出仕し、赤山(現・川口市)に7千石の陣屋を構えていたが、兄が急死しため代官頭の職をつぎ、関八州の治水、河川付け替えに活躍した、荒川開削、江戸川開削、利根川東遷事業の多くが忠治の業績であり、鬼怒川と小貝川の分流工事や下総国、常陸国一帯の堤防工事などを担当した。合併してつくばみらい市となった旧筑波郡伊奈町の町名は忠治に由来する。親子2代で町名を残したことになる。
彼は内匠(たくみ)新田(現・足立区花畑)からここ小菅までの新綾瀬川も開削した。
そして江戸に近く、綾瀬川、隅田川、江戸川、利根川など関東各地に船で行ける小菅の地は屋敷をおくに最適であったであろう。
この伊奈氏下屋敷には吉宗の時代に鷹狩りの際の休憩所として小菅御殿が建設された。
しかし1792年に伊奈忠尊が失脚し、御殿は壊された。(忠尊の墓は千駄木の近所、駒込吉祥寺にあるらしいが確認していない)
折しも松平定信の寛政の改革の時期で、貧民救済や災害に備えた籾の貯蔵と管理をする江戸町会所(えどまちかいしょ)が設置され、1832年、火災の心配がなく水運がつかえるこの地、3万坪に62棟の籾倉が建てられた。
明治維新のあと、籾倉は新政府に引き継がれるが、明治政府はこの地に武蔵国内の旧幕府領・旗本領を管轄する小菅県の県庁を置いた。小菅県が廃止、東京府に変わると日本初の煉瓦工場が建設されることになる。
説明板の向こうに巨大な拘置所の建物が見えた。
1997年に改築工事が始まり、2003年中央管理棟と南収容棟が、2006年に北収容棟完成した。地上12階、地下2階、高さ50 m。収容定員3010名。
建設前は4.5メートルの塀があり中が見えなかったったらしい。
いまでも収容等の窓側は廊下とし、房の鉄格子は外部から見えないようになっている。
同時に房から外の家々は見えず、空しか見えないようになっている。
今の東京拘置所
上から見ると新棟も放射形状がはっきりわかる。
屋上のヘリポートは遠方からの護送、収監の目的もあったが、緊急避難用らしい。
1989₋11₋03撮影、国土地理院
以前は、放射状の監獄は管理棟の南北に二つ、東のほうにも櫛型に並んでいた。
よく見ると、すべて収容棟の端には旭日旗を半分にしたような放射状のものがある。収容者を監視しながら何かをさせていたのだろうが、野菜つくりでなければ日光浴だろうか。
これらを統合高層化したことで空き地ができ、綾瀬川沿いにあった運動場を北方に移し、そこに公務員住宅を作ったことが分かる。西南にあったテニスコートは駐車場?になった。
(実際は網目状のフェンスがある)
正面に旧管理棟が小さく見えた。
小菅に来た理由のひとつはこの旧管理棟を見ることだった。
先日、草加西高校からの帰りに東武電車の窓から見て、近くでじっくり見たかったのである。
外から見ていたら中の官舎に住むの職員のご家族だろうか、荷台にチャイルドシートをつけた自転車の女性が、番号を押すカギを開けて入っていかれた。
外周道路からは、電車の窓よりもっと見えない。
そこでグーグルマップの航空写真を載せる。
小菅刑務所管理棟
この管理棟は1999年に同潤会アパートや国立代々木体育館などとともに日本の近代建築20選に選ばれた。(2003年に80件追加され100件となり、その後さらに追加され2023年8月で280件となっている。)
この建物は有名なのでネットにいろいろ情報がある。
設計者は蒲原重雄(1898〜1932)。東京帝大建築科卒業、司法省会計課営繕係に就職。
1923(大正12)年の関東大震災で被災した小菅刑務所の建て替えなどに関わる。小菅刑務所は翌年着工、すべて受刑者の労役により建設され、1929年竣工した。
「行刑政策の新理想である教化主義を表現せん」と、下から見ると教会のような、白鳥が飛び立つような外観となった。白鳥は、天に召される死刑囚か、刑を終えて新たに人生をやり直す出所者か、あるいは昭和7年、結核により享年34歳で天に飛び立った蒲原自身か、100年後の我々に色々感じさせる姿である。
大正時代に20代で処女作、遺作としてこの姿を生み出した蒲原は天才といえるか。
10:48
ケアホーム葛飾
ここには拘置所の官舎が3棟あったが、2019年に完成し平成医療福祉グループが運営している。
敷地の西南の角までくると拘置所の正門があった。
植え込みの中に「東京拘置所」という表札があったので来た記念に写真を撮ろうとしていたら、守衛さんが飛んできた。
撮ってはいけないという。
電車からの眺めやグーグルなら、ここよりもっとよく見えるし、正門からはほとんど何も見えないから、表札くらい撮っても問題ないような気もするが、逆らう気もないのですぐ謝ってスマホをひっこめた。
(ちなみにカルロスゴーンが10億円の保釈金をつみ作業員に変装して出所したときの、サンケイニュースの映像がユーチューブに残っていて、カメラマンは南門の近くからフェンス越しに望遠レンズで撮影したようだ)
さて、守衛さんに注意されその場を離れたが、道路の向こうは荒川の堤防になっていて、上がれば電車からと同じような写真が撮れるだろうと上がってみた。
10:52
東武線の鉄橋と北千住
荒川下流方面にスカイツリーが見える。
拘置所のほうを振り向けば幸か不幸か首都高で見えなかった。
10:52
堤防から正門を見ていると、ちょうど拘置所から車が出てきた。守衛さんは車に気づくと守衛所から飛び出し、走ってゲートを開けた。職務熱心であることがよく分かった。
しかし撮影に関しては、拘置所内部ならいざ知らず、公道からの外観撮影を禁止しても利点はない気がした。
代わりにグーグルマップで堤防上空からの鳥観図を載せる。
10:55
旧小菅御殿の石灯篭
ほんとはこれも撮影してはいけないのだろう。
10:55
拘置所のまわりは伊奈氏下屋敷の時代からか、水堀になっていて、このあたりは親水公園になっている。
10:56
小菅御殿古図のパネル
御殿は1万8千坪の伊奈屋敷の西のほう一万坪に作られたようだ。
10:57
小菅銭座跡のパネル
銀貨の銀座は有名だし、金貨を鋳造した金座も今の日銀のあたりにあったことも知られている。しかし寛永通宝などの銭貨が作られた銭座(ぜにざ)はあまり知られていない。
銭座は全国各地にあり、江戸でも深川や亀戸などにあった。
小菅の銭座は幕末の安政6年、南の今の西小菅小学校あたりに作られた。
10:58
古隅田川流路と裏門堰
古隅田川はかつては武蔵(足立郡)と下総(葛飾)をわける国境の大河だったが、河川改修の結果水量を失い、近年は雑排水の流路だった。しかし下水道の整備により浄化が進み、いまは鯉も亀も見られる親水遊歩道になっている。中川から綾瀬川までの古隅田川と、綾瀬川と荒川を結ぶ裏門堰が、遊歩道になった。
11:00
官舎の間から旧管理棟の正面がみえる。
高くそびえる塔は敷地内を監視するためだろうか。
同時に時計を二つ付けるという大胆な設計で長い首と目のようになり、白鳥を連想させるのである。
11:02
外周の西北隅
もともと水郷地帯だから伊奈氏のころから濠はあったのだろう。
明治以降も、脱走を防ぐことはできなくとも、外界と隔離するには十分な濠である。
11:05
旧管理棟が一番よく見える場所だが横からの姿
この濠(堰)は葛飾区小菅と足立区西綾瀬一丁目を分けている。
近代建築遺産の旧管理棟をみていると、イチニサンシゴーロクシチハチ、を繰り返す掛け声が聞こえた。月曜日の11時、一帯は静かだから余計よく聞こえた。
収容定員3000人というのだから、全員が一度に運動することはできない。時間割などあるのかな? さきほど南門から入った若者二人が面会した人はいま何をしているのだろう。差し入れされた食べ物は自由に食べていいのかな? まだ有罪と決まったわけじゃないから緩いのかもしれない。
綾瀬駅に戻るべく、綾瀬川を渡った。橋の名は伊藤谷橋であった。
かつて伊藤谷村という村があったが、明治22年に大字となり、1965年の住居表示により、伊藤谷という地名は消え、今は1時間前に訪ねた伊藤谷公園とこの橋などにその名が残る。前のブログ
20240418 綾瀬駅と国ざかいの古隅田川、水戸街道
20180421 草加:松並木と古綾瀬川
20180308 伊奈町が伊奈忠次のPRをしている
0 件のコメント:
コメントを投稿