千駄木は千代田線が通っている。いま週2回ほどアルバイトで北千住まで行くが、南のほうは不定期に出かけるとき、乗り換えの大手町、日比谷くらいまでしか行かなかった。
5月5日、連休終盤。
暇なので、千代田線の南の終点まで行ってみようと思った。もちろん用はない。
14:30に家を出て、14:39の電車に乗った。
終点は小田急線と接続する代々木上原だが、一つ前の代々木公園で降りた。
乗車時間26分。
2024₋05₋05
代々木公園駅は1976年以来48年ぶり。
1976年、大学2年次は夏学期の終わりの9月に定期試験のあと秋休み、10月末に入学以来の成績で進学先が決まる。無事、希望した薬学部に滑り込んだ。二年時の冬学期はまだ教養学部であるけれども、一部、薬学の先生による有機化学やら物理化学がカリキュラムに入ってきて、週2回、本郷に通うことになった。
当時学内の寮に住んでいたから普通なら駒場東大前-渋谷―赤坂見附―本郷三丁目、という井の頭線、銀座線、丸ノ内線を乗り継いで行く。しかし私は裏門から出て少し歩き、代々木公園駅から千代田線1本で湯島まで行った。こちらのほうが乗り換えがなく、運賃も安い。
(しかし地下鉄は景色も見えず、あまり面白くない。そのうち炊事門から出て渋谷まで歩き、国鉄で代々木乗り換え、お茶の水まで行き、そこから歩いた。)
15:09
すぐ隣に小田急線の代々木八幡駅がある。
駅舎はとても新しく、エスカレーターに天井があり、48年前とは景色が変わるわけである。
ずっと千代田線の代々木公園は本来「代々木八幡」という駅名で、近年「代々木公園」になったとばかり思っていたが、開業時から「代々木公園」だったようだ。
歴史的には1969年(昭和44年)9月、都市計画第9号線を「千代田線」と呼称決定。その年の12月に北千住 - 大手町 (9.9 km)が 開業した。
その1年3か月後、1971年3月には 霞ケ関まで延び、翌月は綾瀬 - 北千住 (2.6 km) が開業し常磐線、我孫子駅まで相互直通運転を開始。1972年10月には霞ケ関 - 代々木公園 (6.2 km) が開業した。
しかし小田急線の乗り入れが必要な代々木公園 - 代々木上原間 (1.0 km) の開業は、だいぶ遅れて私が大学3年が終わる1978年(昭和53年)3月。(このときは根津に近い谷中に住み始めていた)。
だから48年前はこの代々木公園駅が千代田線の始発駅だった。
今回は、駅名にもなっていながら行ったことがなかった代々木八幡社を目指す。
小田急線(代々木八幡駅)の改札までエスカレーターで上がり、外に出ると環状6号線、山手通りである。
15:12
山手通りが小田急線を乗り越える八幡橋
清掃工場のような煙突が目立つ。
山手通りの下は首都高中央環状新宿線が通っていて、豊島区の高松入口から大井JCTまでの道路トンネルは2015年3月開通、全長18.2 キロメートル 。道路トンネルとしては日本一長く、世界でも2番目に長い。
長いトンネルには当然排気口が必要だ。
高くそびえるのは排気塔だろうが、浄化処理するため排気は地上の山手通りの空気と比べて充分にクリーンという。それなのに45メートルもの塔を建てたのは、トンネル内で火災が起きると高温の煙をそのまま排気せざるを得ず、地表に排気口があると消火救援活動を妨げたり、沿道住民にも多大な影響を及ぼすためという。
15:14
ここの歩道は広く、自転車用と歩行者用に分かれている。
最近、西日暮里駅に向かう道灌山通の歩道は自転車が危なくてしょうがない。
ひどいのはタイヤの太いバイクのような電動自転車が入ってくることがある。ネットショップでは「お洒落な」アシスト自転車という立ち位置のようだが、歩道歩行者から見たら走る凶器である。自転車は車道を通るべきであり、歩道を乗るなら歩行者と同じスピードで進むべきである。渋谷区が羨ましい。
15:15
代々木八幡
鎌倉二代将軍・源頼家の側近であった近藤是茂の家来、荒井智明が、頼家暗殺の後、名も宗祐と改めてこの代々木野に隠遁し、鶴岡八幡宮を勧進したのが始まりという。荒井宗祐は山手線の向こう、千駄ヶ谷の鳩森八幡神社も創建したらしい。
思ったより森が深い。
何か落ちていると思って近づくと外国人が眠っていた。
森の深さを示す。
15:17
ようやく本殿が見える。
右側(東)の塀の向こうは福泉寺。この寺の入口は神社と反対側の東のほうで、かつての別当寺も今は完全に離れている。
本殿はお参りする人が列を作っていた。
私なら離れたところで一人するかもしれない。ただ、そっと手を合わせるなら木陰でもいいが、最近は散歩テレビ番組で二礼二拍一礼が一般にもひろまり、これは本殿でないと様にならない。しかし、そもそも私は、じぶんに縁もゆかりもない神様にお参りなどしない。
15:19
神輿倉、遺跡出土品陳列館などもあるらしいが行くのは割愛。
15:22
代々木八幡遺跡の復元家屋。
入り口は地面に近い一つだけ。熊が冬眠するような極めて動物的な住居である。
地温を最大限に利用し、暑さ、寒さを防ぐ構造だが湿気がありそうだ。
窓はなく、頂上に煙り抜けか、小さな開口部があった。しかし中で火を焚いたら肺がやられそうで結核にもなりそうだ。
それにしても、柱を立てた跡くらいは残っていても、この形はどうして分かったのだろう?
縄文遺跡、八幡神社があるとなると地形に興味がわく。
しかし広い山手通りを西に渡ったり、はるばる東、北のほうを歩きまわる元気がなかった。帰宅して地図を探す。
地形が分かって、かつ現代の目印があるものとして明治末期の地図が良い。
1909(明治42)
左(南)に帝大農科大学、鍋島農場、下に南豊島御料地(のちの明治神宮)が見える。
代々木八幡社の地は、西は代々木村西原、南は富ヶ谷、東は代々木練兵場と、谷(水田)をはさみ対峙し、北のみが初台のほうからの台地とつながっている。つまり南に突出した舌の先端のような地形。
さて、代々木八幡をみて次はどこに行こう。
かつて歩いた山手通りを東大裏門までいくため、来た道を戻る。
小田急線を再び越えて駅の南側に来ると見覚えのある景色。
15:28
山手通り(八幡橋)から下に降りる階段
青年座の文字があった。
覚えている。このビルだったかどうかは分からないが、山手通りから階段を下りて千代田線の駅にいくところに青年座の稽古場だったか看板だったか、確かにあった。
小学生がなりたい職業のパイロットとか、高校生が考える医師とか弁護士もあまり楽しいものとは思えない。ただ俳優というのはやってみたかった気がする。ずっと貧乏のまま埋もれてしまったかもしれないが、役を演じるというのは惹かれる。ただ大学生のころはこの前を通り過ぎるだけだった。
劇団青年座は、1954年、山岡久乃ら当時の劇団俳優座の準劇団員たちが立ち上げた。西田敏行、竹中直人、桂木文、杉田かおるなどが在籍し、高畑淳子は今も所属している。
15:31
井の頭通りとの交差点
昔はもちろんエレベーターなどなかったし、
歩道橋すらなかったと思う。道路ももっと狭かった気がする。
15:33
肉のハナマサがあった。
千駄木では定年退職してからたまに買い物に行くが、スーパーのレジ待ち行列が嫌で、私はまいばすけっととハナマサしか行かない。
ハナマサ千駄木店が空いているのは、品数が田端生協やサミットと比べ少ないからだと思われるが、バックヤードからアンモニア臭が漂ってくるなど清潔感がないせいかもしれない。しかしここ山手通りに面したお洒落なハナマサに入ってみると、中はとても清潔、品物も多い気がした。値段も高くなくハナマサ名物の玉子も1パック148円だった。
15:41
歩行者と自転車のレーンを分けてもさらに「歩行者優先」の看板を掲げる。
渋谷区は民度が高くていいなあ。
炊事門を出た私道(大学敷地)に駐車して、跡見の畑さんと新座から森林公園までドライブしたり、世田谷の家庭教師先にリンゴ1箱をもっていったり、免許取得中の衣山晶之(昌之?)氏の運転練習に武蔵境で付き合ったり、寮の同室だった荻本和彦氏の楽器を川口まで運んだり。
しかしその後、さっぱり運転せず、せいぜい家族と実家に帰るとき車を借りるくらいだった。車を持たなかった理由を考えると、恋人がいなかったせいではないだろうか。都会にいれば自分だけの生活に車は必要ない。車好きの恋人がいたら(当たり前だが)全く違う人生、老人になっていただろう。
そんなことを考えながら歩いていたら東大裏門の三叉路にきた。
15:44
このあたりにラーメン屋の大龍があった。
寮の夕食は早いから、夜おなかがすく。
同室の1年上の鈴木さんや市川さんに誘われて何回か裏門から出て食べに来た。ニンニクが効いて美味しかったが、付き合ったのは1回か2回だけ。昼の活動中ならまだしも、もう寝る格好しているのに、わざわざ外に出て、また戻ってくるのが面倒だった。
三叉路のあたり道路がすっかり広くなっていて、昔の建物は一切ない。
地下の首都高の排気口が3本連続して空に伸びている。
代々木八幡の排気口は代々木換気所、ここは神山、次は大橋換気所という。
この煙突が何かに使えないかな、と思う。
15:47
東大裏門
代々木公園駅から1.0キロメートル、14分である。
千駄木から電車1本、思ったより近かった。
門は昔より小さくなった気もするが、中に入ってみた。
(続く)
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