9月19日、山形県に来た。
手段はまた高速夜行バス。
メリットは値段の安さが一番だが、日帰りでいっぱい時間が使えるのもよい。
泊れば2日使うが、夜行バスなら1日で済む。退職したものの、1日2時間、3時間程度の用事(バイト、ダンス練習)などはほぼ毎日あり、2日何もないことはほぼない。敢えてキャンセルをしないと一人旅などはずっと先送りになる。
それにホテルの予約が要らない。予約するというのは選ぶこと。値段と場所をみながらいくつものホテルをネットで見なくてはならない。それに、どこの駅(都市)にするか決めるには、旅の予定を決めなくてはならない。これが面倒。
デメリットは、もちろん、狭いバスで寝ること。これは無視できない。
その窮屈さは分かっているのだが、
東京―米沢 4000円
酒田ー新宿 5200円
を予約してしまった。県内での最初と最後を決めて後はフリー。
山形はいつか来たいと思っていた。
スキーで蔵王、社内旅行で山寺、上山温泉はいったが、ひとりで町を歩かないと意味がない。観光地でなく都市を見て風土とか歴史を見たかった。
東京駅鍛冶橋BTを24:20に出て、5時間後の朝、米沢駅東口に到着。
5:25 (上が西)
市街は奥羽本線米沢駅の西に広がり、JR米坂線がぐるりと南から市街を囲んでいる。一つ目の南米沢駅の旧制米沢工業高校本館、春日山林泉寺が気になるが、時間もないので2つ目の西米沢駅の近く、上杉家御廟にいくことにした。
5:39
米沢駅 改札口。
駅舎は新しいが、古い意匠を取り入れている。
改札でスイカはまだ使えないが、自動券売機では使えた。
改札で駅員が切符にハンコを押す。
もちろん始発列車。
このあたり、列車はワンマンカー。
半分くらいは稲刈りが終わり、今夏の米不足も解消するかな?
北方の長井盆地と合わせて置賜地方という。
19世紀のイギリス人旅行作家が東洋のアルカディア(理想郷と言われたギリシャの地方)と評したらしい。米沢から2つ目の西米沢で下車。
5:56
西米沢駅。小さい無人駅だが建物は新しい。
近くに商店が何もなく、ポツンと不思議な景色になっている。
6:00
駅前からまっすぐ伸びる道路は広い。
歩道すら車が走れるほど広い。
このあたり直江町という。上越の直江津は直江兼続以前からの地名だが、ここは兼続由来の町名だろうか。(ちなみに兼続が養子に入った長尾家重臣・直江家は与板城主だった)
途中右手に小学校、コミニティセンター、公園がある広大な公用地があり(軍用地ではなかったようだ)、そこまで来ると家々の向こうに高い杉の森が見えた。
6:06
上杉家墓所、北西の角。
地元では御霊屋(おたまや)とも呼ばれているらしい。
原生林ではないが、杉がびっしりと生えている。
6:08
杉のあいだから歴代藩主の霊廟が見えた。
上杉家第二代の景勝が最初に葬られ(火葬)、以後12代までの御堂があるはず。明治以降に亡くなった上杉家当主13代斉憲からは 港区白金の興禅寺に墓所があるらしい。
初代謙信の遺骸は越後、会津、米沢と、はるばる上杉家とともに引っ越しを繰り返し、米沢城本丸に安置されていたが、さらに明治になってこの地に移された。
6:09
杉の多くはツタが絡まっていた。
西辺をぐるっと回って正面参道に出る。
6:13竹にスズメの上杉家紋のかかった御廟正門
参道の西側にお寺がある。
6:15
八海山法音寺
山号から越後から来たと分かる。
門に米沢藩主上杉家菩提寺と書いてある。
説明板を読めば、八海山のふもとで建立されたが、天正年間に春日山に移り、上杉謙信の帰依寺となった。越後から会津、米沢と転封された上杉家に付き従い、米沢では二の丸に建立された。本丸には謙信の遺骸をまつるお堂があり、そこに奉仕する真言宗21か寺(すべて二の丸にあった)の筆頭として、上杉家の菩提寺となったという。明治3年、神仏分離令で城内からこの地に移った。
6:16
法音寺は善光寺如来と付属の仏具を安置している。
川中島の合戦の際、近くの善光寺から謙信が持ち帰ったと書いてある。盗んだとは書いてないが、強引に献上させたのだろうか?
(ところで、法音寺が上杉家菩提寺とすると、朝の地図にあった春日山林泉寺は何だろう?
調べたら山号どおり、上越の春日山に建立され、上杉家移封とともに米沢まできた。謙信は7歳から14歳までの間、林泉寺で教育を受けている。曹洞宗。晩年の謙信が真言密教に深く帰依したため、謙信の遺骸は城内に建立された真言宗寺院21か寺によって守護されることとなり、林泉寺は謙信廟所とはならなかった。
しかし、歴代藩主の墓は廟所がここに造営されたために林泉寺にはないものの、上杉家の菩提寺として、藩主の正室や子女の墓が安置された。また直江兼続夫妻の墓もあるという。)
さて、上杉家廟所を出て、米沢城を目指す。
秋雨前線が停滞し、雨は降ったりやんだり。東京と違って暑くないから歩きやすい。
6:22
廟所入口からまっすぐの県道を歩いていたら、「毘」「刀八毘沙門天王」という文字が飲食店のような看板にあった。千勝院とある。調べたらやはり越後高田に建立、上杉家とともに会津を経て米沢まで来たようだ。
廟所から米沢城まで1.2キロを14分で歩いた。
6:30
米沢城本丸、北西の隅
本丸跡は櫓などお城関係の建物はいっさいなく、中央に上杉神社がある。
すなわち本丸跡はそっくり全部、神社の境内になっていて、看板地図を見れば、蓮を見ながら渡った橋は「西参道」と書いてあった。
6:33
上杉神社。祭神は上杉謙信。
米沢城は(幕府に遠慮したのか、無用と考えたのか)30万石の城としては天守を構えず、本丸の東北と西北の隅に2基の三階櫓を建てて天守の代用とした。
本丸には謙信の霊屋(御堂)があり、仏式で祭祀を行ってきたが、明治になって神仏分離令があり、明治5年(1872)謙信の霊は、9代藩主治憲(鷹山)とともに合祀され、上杉神社とした。
また廃城令により、明治6年には城の建物が全て破却され(二の丸にあった藩の政庁はそのまま郡役所、町役場として利用)、明治9年には謙信遺骸を廟所に移し、上杉神社が現在地である本丸、奥御殿跡に遷座した。
(明治35年、鷹山を摂社・松岬神社(本丸の東隣、世子御殿跡)に分祀したので現在の祭神は上杉謙信ひとりである。)
それにしても米沢の、というより上杉家の謙信崇拝は大したものだ。
謙信は1578年、春日山城で急死し(49歳)、遺骸は甲冑を身に纏った姿で甕に納められ、その甕に大量の漆を流し込んで固めてあるという。上杉家の越後から会津、会津から米沢への転封に伴い、遺骸も一緒に運ばれた。そして本丸に高台を作って遺骸を安置するなど普通の藩では考えられない。
上杉神社は大正の米沢大火で類焼したが、米沢出身の建築家、伊東忠太の設計で再建された。
(伊東忠太については千駄木菜園の散歩カテゴリーで何回も書いた)
本殿の前(東)、観光案内所も入っているという臨泉閣は閉まっていたが、幸いトイレは借りられた。
出てくると「天地人」という像があった。
故人を素朴に顕彰するというより、いかにも観光客を相手にした新しい像である。
6:40
副題が「上杉景勝公と直江兼続公 主従の像」
ふたりで城下なり領国の田畑なり、話しながら見つめているのがわざとらしい。
謙信以来の上杉の重厚さを伝える米沢への尊敬心が減ってしまう。
直江は少年のころ謙信に見いだされ、養子の景勝の近習にされた。景勝とともに成長しながら謙信を間近に見られた。謙信同様、学問好きで軍事を宗教のように高次元に置いた。
謙信が急死したとき、景勝は24歳、補佐役の直江は19歳だった。後継者を決めるお家騒動も二人で乗り切り、ここから景勝は終生、すべてを直江に任せた。
中央では秀吉が柴田勝家を倒し小牧長久手で家康と和睦した。そして上杉家は、1585年秀吉政権の大名として組み込まれた。
その後、1590年、小田原征伐のあと家康が関東に国替えになり、秀吉最晩年の1598年、上杉は当時45万石(http://www.joetsu100nen.com/kasugayama-8.pdf)とされた越後から会津120万石に大幅加増で移封され、五大老の一人となった。
ふるさと越後を離れても、これは上杉にとって得であった。この国替えは数か月後に死ぬ秀吉が一人で考えることなどできず、おそらく石田三成の案であろう。三成と直江兼続は同年齢で仲が良く、類似点が多かった。双方補佐官として才能があり、当時の武将としては珍しく漢学の素養もあり、民政がすきで、また珍しく正義漢であった。
三成の構想には、仲の良い直江を通じて上杉と連携し、奥州大名の筆頭として、関東の家康をけん制して欲しかったに違いない。
直江は会津120万石(今の福島、山形、佐渡)のうち、景勝から30万石をもらい、米沢城を本拠とした。豊臣政権の大名で30万石以上は11人しかいなかった。中央で直江は無名だったから世間は驚いた。これも(景勝の直江好きというだけでなく)三成の策だったという。東北で直江の名を高めておくためである。
関ヶ原の合戦では、三成、直江の構想通り、家康を挟み撃ちにする形になったが、三成が1日で敗れ、戦後上杉は直江の知行地、米沢30万石に押し込められた。毛利と全く同じく4分の1になっても家臣団は減らなかったから窮乏したはずだが、それでも景勝の直江に対する信頼は篤く、6万石を割いて与えた。だいたい当時の常識なら直江を切腹させて、家康にお家存続を嘆願するものだ。
「天地人」の像の説明には、
「初代藩主の上杉景勝公、その執政が「愛」の前立ての兜で知られる直江兼続公です。二人の主従は固いきずなで結ばれ、義と愛の心で領国経営にあたり、・・・米沢市民は今なお両公に対し深い敬慕の念を抱いております」
固い絆とか、義と愛の心とか、にわか歴史好き、観光客向け(実際私もそうなのだが)の文章が好きではない。
そもそも、彼が戦場でかぶる兜を作った当時、「愛」とは今の愛とは違うだろう。博愛とか友愛とかは明治以降だし、当時は仏教思想からいってむしろ「慈悲」が前面に出て、愛は愛欲とか愛着とか我執をあらわし、あまりいい意味ではない。あえてこの字を使ったのは、やはり「愛民」だろうか。それにしても珍しいことだ。
いっぽうで、この兜は謙信もしくは景勝があつらえて直江に下賜したという説がある。謙信が春日山の愛宕神社に武田信玄および北条氏康の打倒を戦勝祈願していたというから、彼が毘沙門天から「毘」を軍旗としたように、愛宕神社の「愛」を兜につけたのではないか。
帰宅後、像のタイトル「天地人」って何だろう、と思って調べたら、2009年、二人を主人公としたNHK大河ドラマだった。それに便乗して作ったものなら、わざとらしい像も文章もすべて納得する。
6:40
「伊達政宗公生誕の地」
天地人の像の向かいに、真っ白な字が浮かぶ新しい黒い石があった。
となりに大きな説明のパネルがあるのだから、こういうものは不要だと思う。
観光客相手だろうが、ないほうがずっと品が良い。
6:44
米沢城は鎌倉時代に長井氏によって築かれたとされる。
室町時代に長井氏は伊達氏に侵略され、以後、安土桃山時代までここは伊達氏の支配下に入った。1548年伊達晴宗が本拠地を桑折西山城より米沢城に移し、晴宗、輝宗、政宗の三代で米沢城下が整備された。
1591年、伊達政宗は秀吉の命令で米沢城72万石から岩出山城(宮城県北部の大崎市)58万石へ減転封された。代わって蒲生氏郷の家臣、蒲生郷安が入る。1598年には上杉の会津転封により重臣直江兼続が入城。関ヶ原後は上杉景勝が居城とした。
ちなみに景勝は米沢藩主として初代、謙信から数えて2代、山内上杉家(初代関東管領に始まる)としては17代目となる。
竹に雀の似た家紋
伊達は二羽の雀にたくさんの葉が広がる根竹
上杉は二羽の雀に輪竹(桶の周囲にはめるたがの竹)
正宗の曽祖父の三男、伊達時宗丸が、越後上杉家(謙信が継いだ山内上杉家とは別)の養子となる話があり、竹に雀の紋を贈られたのが始まりという。
・・・
それにしても上杉謙信は死後、自分の遺骸が会津に運ばれ、さらに米沢に運ばれ、こんなところで神社になるとは思っても見なかっただろう。
私の上杉謙信は1969年、中学1年のときの大河ドラマ「天と地と」である。それまで川中島、海津城などは遠足で行ったし、飯山の綱切り橋などの話も聞いていたが、まとまった物語としてはこの時が初めてだった。信玄・高橋幸治に諏訪御前・中村玉緒が後ろから抱き着いた場面、謙信・石坂浩二がお堂にこもり、毘沙門天を前に「毘」という文字を筆で書いた場面をまだ覚えている。
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