2024年9月26日木曜日

山形3 各市町村の人口と高畠・南陽・上ノ山

9月19日、米沢に来た。

早朝、上杉家墓所、米沢城などを見てから米沢駅に戻って来た。
これから山形市へ行く。
最終目的地は庄内の酒田、鶴岡なので、米沢から鶴岡までの切符を買った。各駅停車で3080円。100キロ以上あるから途中下車できる。通し切符はいちいち切符を買う必要がないから便利だ。
米沢は改札でスイカが使えないが券売機では使えた。出てきた裏が黒の切符は自動改札を通った。(スイカは山形駅以外の上山温泉とか蔵王、北山形とか、むしろ小さい駅では2024年春から自動改札で使えるようになったらしい。スイカで有名な尾花沢は鉄道から東に外れていて、この名の駅はない)。

ちなみに、南端の米沢から北の鶴岡までは、100キロどころか実際は166.8 km。
山形県は大きい。長野―飯田(160.6キロ)より遠いのは意外だった。
8:08
1.米沢駅出発
乗客は意外と多い。米沢から山形までの列車は、6:04、6:44、7:15、8:09、9:39だから通勤通学客がこの列車に集中しているのだろう。山形まで46分、860円。
2 8:14 置賜駅
米沢の隣。無人駅。
置賜はたいていオキタマだが、駅はオイタマのようだ。
サキタマ埼玉と同じイ音便だが、促音便と違ってオキタマでも言い難くはない。
昔の北関東や東北の人々はK音が苦手だったのだろうか?

置賜というのはアイヌ語の広い葦の湿地(u-ki-tomam ウキトマム)から来ているとされ、日本書紀にも出てくる。地域としては山形県の最南部、県を4区分したときの1つである。
こんな大きな地名を、こんな小さな駅が使っていいのだろうか?

奥羽本線は、米沢から北が明治33年(1900)に赤湯まで開通、米沢の次は高畠(当時は糠ノ目といった)であったが、大正6年その中間に新駅が作られた。それまで置賜をどこも使っていなかったから、これにしたのだろう。

オイタマを過ぎるとトウモロコシ畑が青々していた。この季節で不思議に思ったが、やがて線路際に牛舎があった。そうだ、子どものころ実家でも牛がいたとき餌としてトウモロコシを作っていたな。
草原に放牧されていなくとも、こういう広々とした田園で育てられていれば肉もうまいだろう。いや、むしろ放牧より小屋で運動せずに高脂肪食を食べさせたほうが良いのかな。

ちなみに山形牛は山形県全体で育てられた牛だが、米沢牛は置賜地方だけに限られた牛である。明治初めに米沢興譲館の英語教師が当地の牛の旨さに驚き、横浜に牛を一頭はこび、全国に知られるようになったとか。
3 8:19 高畠駅
高畠は、東置賜郡役所も置かれ、山形県内でも比較的早く町制が施行されたが、奥羽線は西のほうを素通りした。そこで地元の名士たちによって会社が設立され、大正11年に奥羽本線糠ノ目駅から高畠町まで鉄道が開通した(高畠線)。しかし、1974年高畠線は廃止となり、1991年、糠ノ目駅は高畠駅に改称された。東方の高畠町中心部には、旧高畠駅の石造駅舎が残っているらしい。

8:20
高畠駅を出てすぐ。
穂波がつづく。
山が見えないほど広い。

各駅停車で県下を周るには、山形県の地図が頭にあったほうが良い。
山形県市町村
明るい色が市、褐色が町村。
大雑把に、明るいところは平地が多く、褐色部分は山が多いと思ってよい。
もっとも、平成の大合併で鶴岡市などは出羽三山まで市域に含むが。

各地の人口を見てみる。
各都市圏の人口
核となる都市への通勤通学者が、全通勤通学者の10%以上となる周辺市町村を、その都市圏とする。10%以上いる都市が二つ以上あれば、多いほうの核都市の圏内とする。

米沢、山形、鶴岡、酒田は知名度の上で同じくらいだが、都市圏の大きさでは県庁所在地の山形が圧倒的である。

また、山形は大きく4つの地域に分けられる。
庄内、最上、村山、置賜である。


日本はどの県も、便宜上いくつかに分けている。
長野は北信、中信、東信、南信、福島は会津、中通り、浜通り、新潟は上越、中越、下越。県外の人もだいたい分かる。しかし山形県の区域名は少し分かりにくい。村山地区など村山市より山形市のほうが大きいし、最上地区も最上川は全県を流れている。

村山地区は村山市とは関係なく(なくはないが)、郡の名前である。(山形市も明治22年の市制施行前は南村山郡だった。山形市にある県の出先機関も村山総合庁舎という。)最上地区は最上川からではなく、これも郡の名前である。では戦国武将の最上氏は最上郡と関係あるかというと、それは別のブログで述べる。
庄内郡というのはない。一帯を庄内、また庄内藩とは言った。戦国時代後期、大泉荘を拠点としていた大宝寺義氏が、この地域の所領化を進めた結果、一帯が「大泉荘の内」、庄(荘)内と呼ばれるようになったとされる。庄内地方は鶴岡の田川郡、酒田の飽海郡からなる。

さて、各駅停車の列車は豊かな田園地帯を進む。

1 8:09 米沢
2 8:14 置賜駅
3 8:19 高畠
4 8:24 赤湯
5 8:31 中川(山形)
6 8:35 羽前中山
7 8:41 かみのやま温泉
8 8:44 茂吉記念館前
9 8:48 蔵王
10 8:53 山形

赤湯、中川は南陽市。もとは東置賜郡だった。
1967年、赤湯町、宮内町などが合併してできたが、双方新市名で譲らず、ときの県知事が中国の故事「南陽の菊水」から命名したという。しかしこれには(遠い部外者だが)首をかしげる。初めて南陽と聞けば、太陽明るい南国の宮崎、高知、和歌山などをイメージするのではないか? 中国の故事などいくらでもあるし、この地域と何の関係もない。置賜駅のように、安直に「東置賜市」としても良かったのではないか?

中川駅を過ぎると山地に入り、郡の境を越えて羽前中山は旧村山郡(上山市)。
平地に出るとかみのやま温泉。
8:40 7上山温泉
駅名がひらがななのは、かつての私のように何度も忘れてしまい「かみのやま」か「うえのやま」か、あるいは、かみやま、うえやま、と分からなくなってしまう人が多いからだろう。

山形県は実質的に(町を見るという意味で)今回が初めてであるが、1983年12月蔵王にスキーに来て、1994年10月には薬理研CNS部門の社内旅行で蔵王お釜、山寺立石寺をみて上ノ山温泉の村尾旅館に泊まった。翌日はブドウ畑の下で模擬芋煮会を楽しんだ。すなわちわずかでも知っているのは上山温泉だけなのである。

村尾旅館は昭和天皇が泊まったという老舗で、増築で曲がりくねった廊下には天皇の写真が飾られ、宴会の乾杯の挨拶をした工藤幸司さんは昭和天皇の声色で音頭を取った。だが惜しいことに数年前に廃業したという。建物は残っているようで、今回途中下車してみる予定だった。
しかし米沢の見物が思ったより時間かかり、上ノ山は割愛することにした。

上山の地名は蔵王連峰のふもとにあることから山方(やまがた)と呼ばれ、それが上の山方、下の山方(のちの山形市周辺)に分かれたことによるとされる。

上山の町は、上山義忠(上山氏は、斯波氏から分かれた天童頼直が子の満長を上山に配したことから始まる)が、1535年高楯城から月岡(現上山城付近)に城を移したことで作られた。
江戸時代、上山城は、能見松平家2代(4万石)、蒲生家1代(4万石)、土岐家2代(2.5万石、後3.5万石)、金森家1代(3.8万石)と目まぐるしく藩主が入れ替わった後、藤井松平家が10代(3万石)で明治維新を迎えた。

上山は城下町であるがその雰囲気がない。おそらく温泉が出たために温泉旅館やホテルができてしまい、武家屋敷や古い町並みが消えてしまったのだろう。駅名まで「かみのやま温泉」だし(1901年開業のときは上ノ山駅)。もう城下町であることを捨てている。
途中下車しなかったのは、時間がなかったせいもあるが、城下町の雰囲気がないことが分かっていたからである。
8:41
かみのやま温泉駅を発車するとすぐ、上山城の天守がみえた。
1994年、貸し切りバスで村尾旅館に着いて周辺地図を見たらすぐ近所に上山城があった。夕食までの空き時間に後輩の田村浩司君を誘って散歩に行った。城跡には1982年に建てられたコンクリート製の模擬天守があった。ちなみに上山城は江戸時代初期には天守があったようだが、藤井松平家のころからは天守がない。

田村君とは研究所の人事やプロジェクトの進め方などについて不満、愚痴を交えて話に熱中したせいか、いかにも観光の目玉にしようと作った天守については、ちゃんと見なかった気がする。
8:43
次は8茂吉記念館前駅
1952年、北上ノ山駅として開業。
1992年駅名改称。
バス停ならともかくJRの駅名として個人名はどうなんだろう? 駅名、路線名はパッと見てどこか分かるのが良いと思う。その点で、北上ノ山は良かった。
ちなみに、斎藤茂吉は駅の北800メートルほどの金瓶部落で生まれ、記念館は1968年、駅のすぐそば、明治天皇が休まれた「みゆき公園」にオープンした。

50年近く前、私が大学に入ったころ、彼の「万葉秀歌 上下」は大学生の必読書(岩波新書で安かったからとりあえず買っただけの人が多い)であったが、今の学生は茂吉の名前すら知らないのではなかろうか。
8:47
9.蔵王駅
駅名と周辺の景色のギャップ。
開業時は金井駅だったが、1951年に蔵王駅に改称。
(前年の1950年、堀田村が蔵王村に改称したのに連動したかもしれないが、駅は区域外の金井村で、金井村民は反対しなかったのかな?)
蔵王温泉方面へのアクセス交通も皆無であり、この名前にしなくてもよかったのでは?
8:55
山形駅到着

(続く)
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