2024年10月2日水曜日

山形5 奥羽本線。天童、東根など


9月19日、夜行バスで米沢に来て、早朝見物した後、通勤通学者と一緒に電車で山形まで来た。(前のブログ)
山形城を見たあと再び奥羽本線に乗る。

奥羽本線は、東北本線の福島から板谷峠の難所を越え米沢に入る。山形県を縦断して新庄から山間部に入り真室川を抜け、県境を越えてから湯沢、横手、秋田を通って弘前、青森まで達する。

工事、開業は北と南から始まり、青森―弘前が1894年、福島―米沢は1899年に開通、以後順次、北と南から線路を伸ばし、明治38年(1905)に秋田県南部の横手でつながった。

奥羽とは陸奥と出羽である。
出羽は陸奥から分かれたものかと思っていたら、越後が北に伸びて708年設置された出羽郡が始まりらしい。712年に出羽郡は出羽国に昇格し、同年陸奥国から置賜郡と最上郡(のちの村山郡も含んだ)を譲られて国としての体制が整った。
以後はどんどん北に延びる。つまり大和政権が蝦夷を圧迫していく。733年には雄勝郡が置かれ今の秋田県まで進んだ。なお、羽前、羽後に分かれたのは明治元年(1868)である。

今回はその羽前をできるだけ見てみようということだ。
山形駅を10:20に出発。
狭軌と標準軌の奥羽本線
左は山形城二の丸堀

奥羽本線に話を戻すと、本路線の福島から新庄までは山形新幹線が通っている。
正確には東北新幹線の線路を走ることのできる車両が在来線の線路を通っている。
そのため、線路は標準軌の1435 mmである。(この付け替え工事は運行営業と同時には無理だから順次、バス代行輸送をしたのだろうか。)
いっぽう、山形駅から次の北山形までは左沢線、羽前千歳までは仙山線の列車も通るから、並行して在来線用の狭軌1067 mmの線路がなくてはならない。つまり山形から羽前千歳までの踏切では標準軌と狭軌が両方見られる。ちなみに、これらは新幹線用も含めすべて単線である。


電車は山形盆地(村山盆地)を北に走る。
山は遠く、信州のどの盆地よりも広い。豊かな農業県であることを思わせる。

1 10:23 北山形 
2 10:27 羽前千歳 
3 10:30 南出羽
この不思議な駅名は、山形市に編入された「出羽村」による。

4 10:32 漆山
5 10:35 高擶(たかたま)
珍しい地名だが、山寺・立石寺が扇央となる扇状地の末端に位置する。

6 10:37 天童南
何もないような駅で大勢人が下りたと思ったら、駅西側にイオンモールがあった。

7 10:40 天童
10:41
天童駅
将棋で有名。有名な大会があるというわけでもなく、全国の95%の将棋の駒を生産することで知られる。江戸時代に財政悪化した天童藩が藩士に内職で始めさせたのが始まりとされる。
私は昔、テレビの水戸黄門で、桜の木の下で人間将棋をやっている場面を見た記憶がある。しかし天童の人間将棋イベントは1956年に始まったらしい。

天童藩は織田信雄の流れを汲む織田家が南の高畠に封じられていたが、幕末に近い1830年に陣屋を高畠から領地の集中する天童に移した。2万石。織田家の墓は千駄木の家から歩いて7分の高林寺にあることは以前ブログに書いた。

天童は、陣屋跡、人間将棋が行われる舞鶴山、織田家の健勲(たけいさお)神社などが駅から歩けるが、朝からここまで米沢城、山形城を見ただけで時間が無くなり、先は長いので、途中下車しなかった。

なお、天童は南北朝時代、北畠天童丸が居を構えたことに始まるという。その後、清和源氏新田氏流の里見氏が入り天童氏を名乗った。その後、天童氏は足利氏流斯波氏一門の最上氏から養子を迎えたが、戦国時代1584年に最上義光に滅ぼされた。その後、最上義光は寒河江氏・白鳥氏を下して村山郡・最上郡を掌中にし、大宝寺義氏亡き後の庄内地方を巡って上杉氏と争うことになる。

8 10:44 乱川
9 10:47 神町

のどかな平地が続く。
車窓にしばしば、初めて見る果樹があった。
10:44
葉っぱは桜、桃などのバラ科に似ている。
雨除けかビニールハウスの下で丁寧に作られていることから、さくらんぼではなかろうか。
信州、甲州なら扇状地斜面につくるのだが、ここはおそらく元水田だろう。

隣の乗客に聞けばいいのだが、躊躇している間に次の駅についた。
「さくらんぼ東根駅」だった。
元は蟹沢駅だったが、1999年の山形新幹線新庄延伸に伴い改名された。
しかし「さくらんぼ東根」とは駅名に思えない。発音するのもちょっと恥ずかしい。
10:49
さくらんぼ東根駅
「さくらんぼ生産量日本一・東根市、雛と紅花の里・かほく」
かほくというのは、ここが最寄り駅の西村山郡河北町のことである。人口1万7千。雛というのはひな人形のことで、江戸時代、最上地方の紅花交易により、上方から多くのひな人形がもたらされ、今も旧家に残る人形の展示を中心に毎年盛大なひな祭りイベントがあるらしい。
10:53 東根駅
ホームでなく、離れた駅舎の壁に駅名看板が貼ってある。

東根と言えば、小山田英人氏のふるさと。1987年東大薬理でともに研究生として細胞内Ca動態に関する実験を夜遅くまでした。言葉に山形弁がないのは、東根は自衛隊があるから外から人が来て標準語なのだと聞いた。それ以来、私の東根に関する知識はさくらんぼと自衛隊から増えていない。彼は翌年大学院に入り、リアノジン受容体の研究で成果をあげた。性格も真面目で優しくて志も高かったが、なぜか昇進は遅く、長い間助手、講師のままだった。今どうされているだろう。

東大薬理では飯野正光先生も山形だった。山形市でお生まれになり山形東、東北大医学部を卒業、東大に助手として来られた。1年間そばで拝見したが、これほど優秀な人は他にあまり知らない。本人は控えめであったが、周りが放っておかず、東大教授。 薬理、生理学の分野で知らない人はいない。数年前田端駅で偶然お見かけした。電車に乗られるところですれ違い、驚き気づいて振り返ったときはもう人込みの中で挨拶できなかった。

山形の人で初めて知ったのは1976年4月、駒場寮で同室となった斎藤実氏。
長井市生まれ、米沢興譲館でなく長井高校を出て上京、1年間新聞配達をして東大に入られた。彼は小山田、飯野氏と違い、山形らしい素朴な話し方だった。入学後ボクシングをやろうとしたが近眼だったのでレスリング部に入った。1年目の合宿で焼津に行く前夜、マグロの大きな塊に醤油をかけてかぶりつきたい、と話していたことを思い出す。彼は林学科に進んだ記憶があるがどうされているか。
10:53
東根駅
10 10:50 さくらんぼ東根
11 10:53 東根

書き忘れたが、1992年山形新幹線ができた時、福島―山形(1999年新庄まで延伸)は線路の幅が変わり、その先の奥羽本線と線路が分断された。地図上では同じでも、線路は独立したこともあり、この部分を山形線という愛称で呼ばれるようになった。
夏に行った四国の香川が古い駅舎ばかりだったのと対照的に、山形線の駅舎が新しいのはこの線路付け替え工事の機会に各駅が建て替えたからである。いくつかは駅名もその機会に(観光客向けに?)変えた。
10:56 村山駅
駅西口が広い駐車場になっている。
家からここまで乗ってきて電車に乗るのかな。Park-and-ride の言葉から、配偶者に送ってもらうアメリカのkiss₋and₋rideを連想した。
10:58
山形盆地(村山盆地)はどこまで行っても広い。
方角から月山かなと思うが上が雲で隠れている。

11:04
ソバの畑。
この日の早朝、まだ薄暗いときに西米沢に向かう米坂線の車窓から初めて置賜の田畑をみたとき、小雨に煙るソバがあり信じられず、異国に来た気がした。しかし、山形線に乗ってもふつうにソバ畑があった。
信州では元水田のような、こんな一等地にソバはない。平地は河川、道路、鉄道、人家、田畑でいっぱいで、ソバなど他に何も作れないような場所にあるから、まず人目につかない。

ひょっとして山形はソバ生産量が全国一かと思って調べた。作付面積は北海道に次いで2位。しかし生産量は僅差で長野に負け3位だった。
(日本蕎麦協会)
http://nihon-soba-kyokai.or.jp/uploads/1/2/3/9/123974412/2024productpref.pdf

米をやめてソバにするのは儲かるからか、手がかからないからか、私は分からない。

次の村山駅は、もちろん村山市から駅名を取った。
1901年(明治34年)、奥羽本線が山形から通じると同時に楯岡駅(たておかえき)として開業した。1999年山形新幹線の新庄延伸に併せ、駅舎を建て替え、村山駅に改称した。村山市は1954年、北村山郡の楯岡町を中心に周辺が合併してできた。

12 10:56 村山
13 11:03 袖崎 (村山市)
14 11:07 大石田 (北村山郡)
15 11:11 北大石田 (北村山郡)
16 11:15 芦沢 (尾花沢市)
ここをすぎると山間部に入る。トンネルが続き、村山郡から最上郡に入る。

17 11:21 舟形
18 11:28 新庄
終点、2番線着到着。
1時間8分、61.5km
乗車券を買えば、1,170円。
11:28 新庄駅到着
長崎、高松、京都嵯峨野線のように線路が行き止まりになっている。
ここまで新幹線標準軌道だが、この先の在来線は狭軌のためである。

11:29
分断されたホームの狭軌側は奥羽本線の続きと陸羽西線になっている。
新幹線から階段を使わずに在来線に乗れる唯一の駅らしい。

奥羽本線(山形線)は、米沢盆地、山形(村山)盆地、新庄盆地を結び、山形の大動脈と言える。ただ、山形盆地は広くて東の尾花沢市(西瓜と銀山温泉)、西の寒河江市は車窓からは見られなかった。長井市も米沢の奥で行く時間がなかった。しかし各駅停車に乗っておおよその地理的位置は実感できた。
ちなみに長井氏、寒河江氏ともに大江氏の流れを汲み、家紋は毛利と同じ一文字に三つ星である。前者は早い時代に置賜の伊達家に圧迫され衰退し、後者は最上義光に滅ぼされた。

(続く)

前のブログ

0 件のコメント:

コメントを投稿