2020年7月14日火曜日

第六天町の谷を挟んだ徳川慶喜邸と会津松平邸

7月12日、梅雨の中休み、巻石通りを歩いた。
別ブログ


金富小学校の西に、新坂を挟んで国際仏教学大学院大学がある。

2020-07-12
ここは過去2005年11月、2014年10月と、少なくとも2回来ている。
この大学は2011年に虎ノ門からこの地に移転してきたというが、2014年はどうだったか、徳川慶喜公屋敷跡の標柱とこの大学正門は記憶がない。

新坂
途中に残した石垣は慶喜公のころのものだろうか。

都内、区内に新坂は多いが、たいてい明治以降である。正徳(1711~16)に開けたから新坂というのは珍しい。
今井坂とは今回初めて聞いた。地図を見てもたいてい新坂である。
坂上に兼平桜(今井兼平から)の大木があったからというが、それでは兼平坂というべきではないか? そもそも兼平桜とは何か? 桜の品種か? さまざまな疑問が残るが、あちこちある新坂では紛らわしいから今井坂は今後普及するかもしれない。

幕末、シンザカの西は大久保長門守下屋敷である。

新坂を上がっていく。
2005年の景色は覚えている。ひと気のない古い官舎(大蔵省?)に、夕日を浴びた大きな銀杏の木、黄色く光る葉っぱがフェンスの向こうに見えた。

国際仏教学大学院大学は1996年に霊友会の国際仏教学研究所が母体となって設立された。博士課程のみ。入学定員4人、5学年で20人という日本で一番小さい大学。2019年度の在学生は日本人5人、中国8人、韓国2人、など全部で18人。経営はどうなっているのだろう? 
慶喜公のいた時はなかった丸ノ内線
慶喜は駿府から明治30年に東京に戻り、巣鴨に屋敷を構えた。
しかしすぐ北を山手線が開通し、うるさいというので34年、ここ第六天町に来た。第六天というのはかつて神仏混交時代、大六天王(第六天魔王)をまつった神社があったことから付けられた。
自分の生まれた小石川上屋敷が近いので気に入っていたという。敷地3000坪。
しかしここでもすぐ北を、使用人の長屋のあった部分を削って線路が通ることになる。もちろん彼が死んで何十年もたってからだが。

「徳川慶喜家の子ども部屋」榊原喜佐子という本を段ボールに探したがない。
図書館にある本なので引っ越しで捨てたのだろう。
本駒込図書館に行って借りてきたら、昔読んだ時より面白かった。

私は15代将軍をヨシノブでなくケイキと呼んでいるのだが、これは昔、司馬遼太郎のエッセイに出てきた八王子の年配女性に倣った。彼女は女学生のころから慶喜が大好きで水戸に行ったり書物を集めたりして、ケイキ、ケイキと呼んでいたのだ。

今日、何十年ぶりかでこの本(1996)を開いたら、この屋敷にいた50人ほどの人々も慶喜のことをケイキ様あるいは一位様と呼んでいたそうだ。

榊原喜佐子(1921 - 2013)は慶喜の七男、徳川慶久(1884- 1922)の三女。つまり孫である。

慶喜(1837- 1913)の子は三男までと六男が早世した。
四男厚は明治15年、9歳で徳川宗家(家達)の分家として男爵家を起こし
五男博は因幡鳥取藩当主池田家をついだ。
このあと明治35年慶喜が復権して受爵し、
そこで残っていた七男慶久が公爵家をつぐことになった。
喜佐子はここで生まれ育ち、越後高田藩当主榊原家に嫁いだ。

24年前に読んだ、その喜佐子の本で覚えていたのは、たった一つだけ。
第六天町の慶喜家から谷を挟んで向こうの高台に会津松平家があったということである。

昭和7年
子ども部屋のあったところから西を見ると崖下の小さな家々の向こうの丘に松平様のお屋敷、富士山や秩父の山が見えたという。
(明治42年の地図では塚原邸とあるが、塚原氏が誰であるか調べきれなかった。ご存じの方は教えてください)

実は、今回の散歩の一番の目的は、間の谷とその松平家の場所を見ることだった。
14:51 荒木坂
慶喜邸跡の西南角の交番をすぎ、巻石通りを西に歩いて稱名寺手前の坂が荒木坂。
坂上に荒木志摩守の屋敷があったからという。
1928年、会津松平家から、容保の孫、節子(勢津子)が秩父宮に嫁ぎ、
1930年、徳川慶久家からは喜佐子の姉の喜久子が高松宮に嫁ぎ、
第六天町から二人の妃が出たと話題になったという。
(節子は10代容保の六男松平恒雄の娘だったが、父が平民籍だったので松平保男(七男、12代当主)の第六天の家に養子に入ってここから嫁入りした)

当時、荒木坂を上がると道は稱名寺を回り込むように西に折れており、松平邸は坂の東と坂の上一帯だった。
現在、荒木坂からまっすぐ北上する道路ができている。
この豪邸も古そうだが、一帯は松平邸だったはずである。

なお1938年、会津松平家の子爵松平保男の四女・和子は、徳川慶光(喜久子の弟、喜佐子の兄)のもとに嫁ぎ、手が届くほど狭い谷を挟んだ第六天町の両家は親戚となった。

2020-07-12
東の方を見たくて道を戻り坂を少し降りた。
松平邸敷地跡に建つマンションはコーシャハイム小日向。

国際仏教大学院大学が早稲田や東大のような開かれた大学でないため、向こうから松平邸は見られない。ここから東の徳川邸を見ようとした。

木々の間にビルが見えた。
徳川邸のあの大学かな?と思ったが、丸ノ内線の車両基地、修理工場の建物だった。




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