2025年2月3日月曜日

新宮1 神倉神社、熊野速玉大社と八咫烏

1月16日の昼まる一日かけた瀬戸内海クルージングも、夕方明石海峡大橋を抜けて終わった。飛鳥IIは日付の変わる前に大阪湾を出て、紀伊半島の西を南下した。

大阪湾から新宮まではかなりの距離である。古代の船なら大変だっただろう(後述)。
2025₋01₋17 0:15の飛鳥の位置

スマホGPSも沖合だと使えない。
Marine Traficというサイトで船名をasukaといれると船の位置が出る。日本近海に拡大すれば、南紀白浜の沖にいた。
ちなみに図のJP HIJ、JP SHNはそれぞれ広島、新宮のAIS港コードである。
このサイトの優れているのは自船だけでなく、他船の位置もわかることだ。

数時間後の1月17日の明け方、何やら窓の外で音がした気がして、ベッドの中でカーテンを開けると小さな船が並行して走っていた。
2025-01-17 6:28
新宮丸と書いてある。
船腹にタイヤをくっつけてタグボートのようだが、飛鳥を押すでも引くでもなく、すぐ離れていった。
6:30
6:51
空もだんだん明るくなり新宮港に入る。
この日は10泊のクルーズ(途中2回横浜に帰港)の最終日、最後の上陸地である。

紀伊半島南部は、黒潮や多雨、また捕鯨、林業などと関連し、学校の社会、地理で習うせいか、他の地域よりも知られた地名が多い。しかし自分の頭の中での位置関係があやふやになっている。
東から紀伊長島、尾鷲、九鬼、熊野市(ここまで三重県)、新宮(ここから和歌山)、那智勝浦、太地(たいじ)、古座、串本(潮岬)、南紀白浜、田辺、と並ぶ。

熊野というのはこれら全体である。すなわち、三重県北牟婁(むろ)郡・南牟婁郡、和歌山県東牟婁郡・西牟婁郡、の4郡を指す。(牟婁4郡はすべて紀伊の国に属した)。現在の行政区ではこの4郡に尾鷲市、熊野市、新宮市、田辺市を加えた4市4郡(4市10町1村)となる。

鳥羽、尾鷲などは大型船は入れないが(錨泊して通船で上陸)、新宮は着岸できる。
二度と来ることはないので朝食後上陸した。

熊野と言えば熊野大社。
全国にある熊野大社、熊野神社の総本社は3つあり、熊野三山という。
3つは、熊野本宮大社、熊野那智大社、熊野速玉大社(くまのはやたまたいしゃ)であり、前二者が遠く山中にあって行きづらいのに対し、熊野速玉大社はJR新宮駅から1.3キロ、歩ける。
新宮駅は、飛鳥の着岸した新宮港・佐野第3号岸壁の近く、JR紀勢線紀伊佐野駅から2駅、9分、200円。
8:38
飛鳥から下船する。
埠頭には地元観光業者が歓迎「ようこそ」の幟にテントを張り椅子を並べていた。土産物売り場、フードコーナーなど作るのかな?
飛鳥IIが用意した無料バスは勝浦港にいくらしい。
マグロ解体ショー、買い物が目的のようだが、私は一人すどおりした。
8:40
この大きな箱は後で12階から見るとベルトコンベアで岸壁とつながる砂の置き場のようだった。
8:50 紀伊佐野駅
岸壁から950メートル。
9:08 紀勢本線は単線。
電車が少ないせいもあり、ダンス講習会に出られていた乗客夫妻と一緒になった。
9:19
鯨山見跡という小さな山をトンネルでくぐると、砂浜が広がり熊野灘が光っていた。

新宮駅に着いた。
9:25
駅前の地図
さきに神倉神社に行くことにした。
歩き始めるとスマホの地図GPSがとても便利なことをつくづく感じる。
9:37
山の上にご神体のゴトビキ岩がみえた。
9:40
橋を渡り神域に入る。
(現在の)主祭神は高倉下命(たかくらじのみこと)と天照大神の2神。
高倉下命は、尾張連(国造)の遠祖であるが、熊野三党(宇井、鈴木、榎本)の始祖ともいわれる。それがなぜ祭神か、後で述べる。
9:41
鳥居をくぐって始まる参道は石段である。
「鎌倉積み」といって源頼朝が寄進したらしい。

かなり急で、胸付き坂、手つき坂である。
これは信心深い老人にはきつい。
ふもとから拝殿まで538段あるという。
金刀比羅宮ではなだらかな参道でも431段でギブアップしたが、今回は大丈夫かな。
熊野古道というのもこういう感じなのだろうか?


9:50
神倉神社の拝殿とご神体・ゴトビキ岩に到着。
ゴトビキというのは何かを引っ張るという意味かと思ったら、地元の方言でガマガエルのことだという。神話などとは関係なく、ただ形が似ているというだけの名前のようだ。

まだ熊野三山などなかったころ、この岩に熊野の神々が降臨したらしい。

記紀によれば、神武天皇が東征の際に登った天磐盾(あまのいわたて)の山がこの神倉山(=ゴトビキ岩)だという。このとき、天照大神の子孫の高倉下命が神武に神剣を奉げ、八咫烏の道案内で軍を進め、熊野・大和を制圧したとされている。

これは沖合を航行する船からよく見えたであろう。
古代から良い目印になったと思われる。
神々が下りたというのは、人間が降ってくるわけないから、この岩を目印に海から上陸したということだろう。
9:52
拝殿から新宮市街、熊野川河口を望む

下りは上りより怖い。
手すりでもあれば楽だろうが、ないほうが良い。
ちょうどゆるゆると登り始めた老婦人がいて、頂上はどのくらいでしょうかと聞かれ、行かないほうが良いと伝えた。

10:02
「告!橋から中へ(境内)犬を入れないでください」
文章より書体が良い。

神倉神社から熊野速玉神社に向かう。
10:06
家は古く、つっかい棒をしているところもある。

10:14
熊野速玉神社 正門
石柱に熊野大権現とある。
熊野権現とは熊野三社に祀られる神々のことで、神仏習合の本地垂迹説により、仏教の仏たちが権に(かりに)現れたものとしてこう呼ばれた。

先ほどの神倉山に祀られた神々は、第12代・景行天皇の58年にこの地に遷座させられた。
そのときから神倉山を元宮、新しいこの地を新宮とした。新宮という現地名の由来である。

新しい宮は、熊野速玉大神(くまのはやたまのおおかみ、伊邪那岐神)と熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ、伊邪那美神)を主祭神としたため、熊野速玉大神から速玉神社と呼ばれるようになった。また元宮である神倉山は神倉神社となり、速玉神社の摂社となった。

鳥居をくぐってすぐ右に小さな社があった。
八咫烏神社

八咫烏は熊野三山でカラスの姿の神として祀られている。
また、日本サッカー協会のシンボルマークにもなっているが、すでに1931年大日本蹴球協会のころから採用されているらしい。神武天皇の故事から、よくボールをゴールに導くようにとの願いが込められているという。しかし私などは八咫烏は三本足だからサッカーに有利ということなんだと思っている。(ハンドと同じ反則だが)

この八咫烏神社の説明板によれば祭神は建角見命(たけつぬみのみこと)。

帰宅後調べると、賀茂建角身命とも呼ばれ、日向国高千穂の峯に天下って神武天皇を導き、熊野では大きな烏となって飛翔、先導したとされる。その後、葛城山を経て山城国に入った神で、賀茂氏の祖となったとされる。八咫の咫(あた)は長さの単位で、親指と中指を広げた長さ(約18センチ)のことであり、八咫は単に「大きい」という意味である。
ここではカラスではなく、ちゃんとした人間(神)として扱われている。

司馬遼太郎の小説で一番心に残ったものの一つに「八咫烏」(1961)がある。初期の短編であるからあまり知られていないが、目からうろこが落ちた記憶がある。

イワレヒコ(のちの神武天皇)が日向から東征し、大阪湾から上陸するもナガスネヒコに撃退される。その後、紀伊半島のほうにまわって吉野を越えて大和に攻め入るのだが、なぜ上陸も進軍も楽な紀ノ川あたりでなく、わざわざ遠く離れた熊野に上陸し、険阻、困難な大山塊を越えたのか? また、八咫烏を道案内にしたといってもカラスと話ができるわけがない。さらに、遠征・上陸するには守備側をはるかに超える兵力を必要とするが、日向からそれほどの人数が移動できるわけがない。そうしたもろもろの疑問に答える物語である。

小説によれば、イワレヒコが率いるのは薩摩、日向を根拠とする海(わだつみ)属。背は低く、黒い肌と彫りの深い顔立ちをして漁を業としていた。大和盆地にはナガスネヒコが率いる出雲族がいた。出雲族は体毛薄く長身、大陸から来て出雲、吉備を経て大和に入り、稲作をしていた。また農耕民族に追いやられた大和の先住民は一言主を長とし、大和南部の山間部に穴居する土蜘蛛になった。

大阪湾で撃退された海族は、紀伊半島南部の海族植民地・牟婁(ゴトビキ岩が目印だっただろう)にすむ同族の助けを借りるのである。海族は黒潮の洗う土佐、紀伊などの海岸部に植民地を持っていた。遠征軍は牟婁で補給し、植民地で新たに兵も集め、体勢をたてなおした。しかし海族は大和までの道が分からない。ここに「八咫烏」と呼ばれた孤独な男が登場する。かれは出雲族と海族との混血で、その風貌から牟婁の海族の中で生まれてからずっと差別、迫害を受けてきたが、出雲族の言葉が分かるというので道案内にされるのである。

1992年に読んで忘れているので再び取り出して読んだ。
海族の剽悍さとともに、八咫烏と一言主(土蜘蛛族)によるナガスネヒコの謀殺、そして首領を失った出雲族の弱さが、数に劣る海族が征服できた要因だった。海族は戦闘と首狩りで出雲族の男をことごとく殺し、それまで稀であった異民族の混血がすすんでいったという物語である。

境内を歩いていく。
速玉大社参詣曼荼羅 
一見古そうに見えるが、世界遺産登録を記念に作られた。「熊野権現縁起絵巻」などを参考にしたか?
左にゴトビキ岩の神倉神社、右の熊野川河口近くに阿須賀神社(主祭神は速玉大社と同じで、より古いとされる)が描かれている。

ご神木・梛(なぎ)
樹齢千年というが、ケヤキやクスノキならもっと大きくなるだろう。
「世界平和を祈る梛木のご神木」という石柱が建つ。この木は「世界平和」など大それたものに結び付けないほうが良いと思った。
神門
「未来につなぐ」「日本の祈り」も個人的には好きではない。
神社はなるべく静かで無言なほうが良い。

10:18 
拝殿(中央)の奥に、第一殿、第二殿が並び、その右(東)に上三殿、八社殿がある。
第一殿は熊野夫須美大神を、第二殿は熊野速玉大神を祀る。

拝殿
大きな注連縄はあるが、朱塗りなど寺院のよう。
熊野三山の「山」、熊野権現、などといった言葉からわかるように、神仏習合、仏教的な色彩が濃いのだろう。
上三殿とその前の3つの鈴門
上三殿とは左から第三殿(証誠殿)に家津美御子大神(ケツミミコノオオカミ、スサノオのこと)を祀り、第四殿の若宮に天照大神を、神倉宮に高倉下命を祀る。第四殿までを上四社という。

その右にある八社殿は、前に2つの鈴門がある。これは第五殿から第十二殿までが、中四社と下四社に分かれているためである。各社の祀る神々については省略する。
熊野御幸、すなわち熊野を参詣した天皇、皇族。
23人、のべ141回。
宇多上皇(867- 931)に始まり、鳥羽上皇(23回)、後白河上皇(33回)、後鳥羽上皇(29回)が目立つ。
10:21
「世界遺産 熊野速玉大社」と大書した巨石。
こういう文言はパンフレットにでも書けばいいのであり、神社というのはもっと清らかで静謐なものだと思う。
もっとも何人もこの前で記念写真を撮っていたから、世間的には受け入れられているようだ。

境内には新宮出身の佐藤春夫記念館があった。東京・文京区にあった邸宅を移築したものだが、しかし新宮城近くの市有地に移築するということで閉鎖されていた。(来年度オープン)

速玉大社のすぐ東に熊野川があり、堤防にあがってみた。
10:29 海の方向
ちなみに、この熊野川が三重、和歌山の県境。
三重県側の小山に貴祢谷社(きねがだにしゃ)がある。神倉山に下りた神々が新宮にうつるまえにここに祀られたという。江戸時代までは両岸とも紀伊の国、いや、両岸とも熊野、新宮であった。

川原が初詣客の臨時駐車場になっていた。
熊野川上流方向
これを40キロ近く遡れば熊野本宮大社にいく。

延長183km、日本で15位。
流域面積では26位だが流域人口は相当少ないだろう。

熊野川は1970年に一級河川の指定を受けた時は、河口の地名をとって新宮川とされた。しかし地元は本宮大社から下流を熊野川と呼んでいたため1998年、法定名称が熊野川と変更された。地元名称は、上流の奈良県では天ノ川(てんのかわ)、十津川とも呼ばれる。

(行政は合流前後の川を区別するためもあり、千曲川を犀川と合わさる川中島で信濃川に変えたように、合流地点で下流の名前に変えたがる。しかし地元民が下流の名前を使うことはあり得ない。街道が行き先を名にするのと違い、川は下流の名前にしたら重なってしまう)

平安時代、熊野三山を詣でる人々は本宮大社を詣でた後、船で下り速玉大社に来た。「川の熊野古道」といわれ、現在中間点の道の駅「瀞峡街道熊野川」下から熊野速玉大社横の川原まで16kmを下る川船が運航されている(冬季はナシ、1時間半、4300円)。

新宮は、神倉山のゴトビキ岩が海からよく見え、そのまま船で内陸まで入って行ける。
この平地が、神代から(海族により)開けた理由が分かる気がする。
降りてきた神々というのは、(陸路がなかったから)海から来た人間であることは言うまでもない。

(続く)

2025年2月1日土曜日

クルーズ5 瀬戸内海と船内の食事

クルーズ船飛鳥IIは、1月15日、広島港(宇品)を定刻20:00より少し早く、19:45に出航した。一晩で横浜から名古屋まで航海する船が、明日は昼一日かけて、ゆったりと瀬戸内海をクルージングする。朝出ても十分なのだが、港湾使用料とか何か理由があるのだろう。

夜、船内を歩いていて、名前が書かれたプレートに気づいた。

2025₋01₋15 21:55
CRUISE MILESTONEとして、飛鳥で1000泊、2000泊した人が顕彰されていた。
2000泊の人は二人。お二人は当然1000泊のところにも名前があり、年月を引き算すると、それぞれ5年半、6年半で1000泊されていた。5.5X365=2007日である。半分も飛鳥で王様のように暮らすというのは、この方の資産とか地上での暮らしぶりとか、想像つかない。

私は数泊ですでに、夢のような旅が終わるのが怖くなっている。家に帰ったら部屋は寒いし、散らかっているし、いろいろ面倒なこともあるし・・・現実逃避というのはこういうことかと思った。
2025₋01₋16 7:01
翌16日朝、目が覚めてベッド(左舷)のカーテンを開けるとあちこちに島があった。

瀬戸内海のどこだか全く分からない。

前日、2枚の航路予定図が部屋に届けられた。
1枚には飛鳥の標準航路(青)と法定航路(赤)。
今回のクルーズは広島から出たので、左下の松山沖から来る飛鳥標準航路ではなく、広島港から江田島・能美島の西を通り、柱島の東を過ぎ、鹿島と怒和島の間から安芸灘に出ている。
(赤の法定航路というのは、特に交通が頻繁な個所について、海上交通安全法で指定されたもので、全国に11あり、うち8つは瀬戸内海にある。そこでは定められた「航路」を12ノット以下で通過しなくてはならない。)

もう一枚は今回のクルーズでの橋などの通過時刻が書いてある。
7:20に大下瀬戸(おおげのせと)、
8:45 因島大橋、
12:00 瀬戸大橋、
18:00 明石海峡大橋
となっている。
瀬戸というのは海峡の特に狭まったところを指し、だから瀬戸内海は「瀬戸に挟まれた内なる海」ということになる。

2枚の航路図と島の形を見ていても瀬戸内海は初めてなので現在地は分からない。
(スマホのGPSを使えばいいのに気付かなかった)

眠くもないので服を着てレセプションホールに行ってみた。
今日のクルージングに備えて大きな瀬戸内海の海路図が張ってあった。
7:07
定価 13,440円にはびっくり。
乗客も「普通の紙ですよね?」と触っていた。
7:08
横のモニターを見ると、飛鳥は広島港を出た後、柱島の横を通って真っ暗な瀬戸内海をゆっくり行きつ戻りつ、時間をつぶし、いま大崎下島を過ぎようとしていた。
(柱島は海軍の艦艇停泊地があったところで陸奥が謎の爆沈をした場所として知られる。)

朝食はいつも4人で8時から5階レストランでとることになっているので、その前に12階に上がり、瀬戸内海の島々を見ようと思った。
しかしエレベーターで上がる途中の11階でおりた。
無数にある島よりも、まだ見ていなかったリドカフェ、リドガーデンの朝食を覗いてみたかった。
ここはフルサービス(和定食)の5階と違ってブッフェスタイルだが、種類が豊富。
7:12
和食コーナー
7:12
11階 リドガーデンからの景色
窓の外は大崎上島の佐々木造船か。
ということは、すでに大下瀬戸は通過している。大下の瀬戸は広島湾や松山から竹原、三原に行く大型船が通るところで、交通は頻繁である。

野菜
枝豆は皮をむいてある。
7:13
チーズ各種とハム・サラミ
デニッシュなどパン類
焼き立てができるとウェイターがテーブルの間を周って配ってくれる。

ソーセージ、ベーコンなど

7:14 和食のおかず
朝からカレーもある。

7:15
リドカフェのドアからデッキに出て瀬戸内海を眺めたが、どこがどこだか分からない。
島は急峻で「瀬戸の花嫁」にあるような「段々畑」はなかった。

再びリドカフェ、リドガーデンに戻る。
7:17
日中、焼き立てハンバーガーを出しているリドグリルは、この時間フレンチトースト、パンケーキなどを提供している。

プール側のデッキに出て階段で12階に上がった。
7:18
12階から右舷前方をみる。
7:19 右舷後方
7:22
7:23
大崎上島と大横島の間を通過
7:24
大横島、小横島の向こう、大三島から朝日が昇る。
大三島は愛媛県の最北端、同県で最大の島である。人口4900人、平成の大合併で今治市となった。近年人口減少がはなはだしいが、島内にある大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)は伊予国一之宮である。旧社格は国幣大社で、全国に存在する三島神社は、ここと伊豆国一宮・三島大社を総本社とする。

それにしても○○島というのは、○○が地名なり単語として成立するものだが、大三島の大三はそうではない。たぶん島に御がついて次に大がつき、大御島が本来の文字ではないか?隣の大横島とも対応する。本州と四国の間の小さな島として考えてしまう現代と違い、地図もなく行動範囲の狭かった古代は十分広い陸地だったのだろう。

瀬戸内海は大島、上島、下島、横島、豊島、向島、本島、中島、など、いかにも地元民が古くに名付けた普通名詞のような島名が多い。

ここで部屋に戻った。

朝食は5階で、座るときウェイターが椅子を引いてくれるレストラン(フォーシーズンダイニングルーム)で優雅にとるはずだった。ところが若いN君が前回のクルーズで食べた11階のフレンチトーストを食べたいという。朝の和定食を食べたあと11階に一人で行って食べればいいのだが、空腹状態で食べたいのだろう。

それでは、と4人で11階に上がった。
私にとっては初めての飛鳥ブッフェ朝食。
8:05
オムレツをつくっているコーナー。
出来上がったお皿にケチャップで船、ペンギン、アヒルなどを描いてくれる。
8:11
この日の朝食。見るとどれも食べたくなってしまい、食べ過ぎ。
フレンチトースト(右上)やオムレツ(右下、ケチャップはアヒルの絵)は、焼いているところに自分のテーブルの小さな木札を置いてくると、出来上がり次第、ウェイターが持ってきてくれる。
8:35
顔を上げるとすぐ近くの島が緑の屏風のように窓一杯になっていた。
因島大橋の手前の岩子島か、あるいはその手前の三原の糸碕か。

8:41
因島大橋が近づく。
因島は広島県尾道市に属す。本土の尾道と対岸の向島のあいだの尾道水道は200メートルほどしかなく(飛鳥の全長は241メートル)、フェリーと橋が2本ある。
因島大橋は、その向島と南の因島の間にある。西瀬戸自動車道「しまなみ海道」のために1977年起工、1983年供用開始した。
8:42
右舷から橋をみる。対岸が因島。
この海峡は、幅約800mの布刈瀬戸と呼ばれ、橋の長さは1270メートル。布刈(めかり)瀬戸は、瀬戸内海の主要航路である来島海峡(法定航路)の副航路・三原瀬戸航路を構成しており、1日あたり400隻の大型船舶が通行する。そのため、支間長770m、桁下は50mと設定された。
完成当時としては日本最長の吊橋であり、ここで培った技術がのちの大鳴門橋や瀬戸大橋・来島海峡大橋・明石海峡大橋などの吊橋に活かされた。

朝食後、風呂に入ることにした。
12階に大浴場がある。
9:07
12階からの眺め
9:08
9:09
風呂へ行く途中の廊下にプレートが何枚も貼ってあった。
見ると今までの飛鳥の国内外の寄港地から贈呈されたものだった。
送り主は自治体だったり、観光協会だったり。

風呂は好きでないが、頭を洗ったり髭をそったりするのに入らないわけにいかない。
初回は部屋の風呂だったが、
2回目は12階の大浴場。
今回、朝の大浴場は3回目。
9:13
朝のせいか、ほとんど人はいない。奥に露天風呂へ出るドアがあり、営業時間でOPENとも書いてあるので行ってみようとしたがドアがあかない。あまりじたばたしているのもみっともないので諦めた。あとで聞くと非常に重いそうだ。

この日は上陸観光がなく一日クルージングなので11時から45分の初級ダンス講習会があった。

講習会が終わると、瀬戸大橋が近づいてきた。
11:53
波の近さからして6階のデッキから見たのだろうか?
右舷には讃岐富士など香川県の独立峰がいくつもみえる。
駿河湾の富士山と同じで、陸地からでは建物などに隠れてしまうが、海上からだと(信じられないほど)よくみえる。
右側は善通寺、金刀比羅あたりの山々か。
瀬戸大橋は児島(1967年倉敷市と合併)と香川県坂出市を結ぶ。1978年着工1988年供用開始。初めて四国と本州が陸路で結ばれた。
香川県にぞくする塩飽諸島の東部の5つを結ぶので、橋梁6つ(一番南の沙弥島は埋めたてられ坂出と陸続きになった)、それらを結ぶ高架橋4つを合わせ、10の橋がかけられ、全部合わせて瀬戸大橋という。全部の長さは12,300 m (海峡部 9,367 m)。自動車、鉄道共用橋としては世界最長らしい。
11:56 こちらは岡山県側
11:58 通過直前 岡山側
11:59 通過 香川県側
瀬戸大橋を通過、香川県側にまだ讃岐富士などがみえる。

昼食は4人で12:30から5階で食べることになっている。
海と島を見飽きたので11階、リドカフェのブッフェ昼食を覗きにいった。
12:12
左の山塊は昨年夏に訪ねた讃岐国分寺の裏山に当たる五色台のようだ。
12:12
11階、リドガーデンの昼のブッフェ

スイーツ各種
最初のころは喜んで食べていたが、このころは飽きた。
どれもきれいで可愛らしい。色んなものが食べられるように一つ一つが小さく作ってある。
12:13
ハンバーガーはうまい。
グリルコーナーで席札を渡せば、出来上がるともってきてくれる。

ランチブッフェは11:30~13:30で、それを過ぎると片付けられてしまうが、ハンバーガーなど6種の軽食とスイーツ、ドリンクなどはそれ以外の時間でも食べられる。
12:14

12:14
ふと、音楽が聞こえてきた。
12:17
フィリピンのバンド「ラグーナトリオ」が演奏していた。
彼らは下船のときの演奏も担当する。

飛鳥には「アスカオーケストラ」(ポーランド・ウクライナの7人組)、「ラグーナトリオ」(フィリピン)、「ナマナ」(女性ボーカルのいるフィリピン5人組)、「ヒミグデュオ」(フィリピン)の4バンドがいて、それぞれ交代でパームコートなどのラウンジやクラブ、ピアノバーなどで演奏している。ダンスパーティにはアスカオーケストラとナマナが1日交替で来てくれた。

フィリピン人は歌唱、演奏などに優れている。日本のように受験とか真剣すぎるスポーツクラブ活動などがないと、単純に音楽好きで少しばかり才能のある子どもは伸びるのかもしれない。

何も食べずに部屋に戻った。
12:23
ベッドの脇の窓(左舷)から円錐形の島が見えた。
大槌島か。
讃岐富士が海没したかのよう。讃岐平野のビュート、メサ地形の成立が瀬戸内の島々と同じであることがよく分かる。

12時半になったので、4人そろって5階のレストラン(フォーシーズンダイニングルーム)に行く。
12:45
この日は海老カツ、ヒレカツ重
ここは定食だけだが、ブッフェのようにとりに行かなくていいので楽だ。

この日は18:00ころ明石海峡大橋をくぐったのだが、もう見に行かなかった。

今回、飛鳥では10泊したから夕食、朝食は10回食べた。
しかし10泊は連続した3つのクルーズであり、それぞれの横浜出航日は昼食がないため、船で提供される昼食は7回。
名古屋、広島で上陸した日は帰船して11階でハンバーガーなど食べた。新宮に上陸した日は11階のランチブッフェに間に合ってそこで初めて食べた。
残る4回は5階のここで食べた。

その4回の昼食とは、この日のカツ重と、海鮮丼2回と鴨ソバだった。
カモというのは、強靭な筋肉と海を渡るためのエネルギー源の脂肪の両方がたっぷりあるから旨いんだろうな、と思いながら今までで多分一番高級な鴨ソバを食べた。

海鮮丼の写真が撮ってあった。
2025₋01₋14 12:34 
5階の海鮮丼。他の小鉢、椀物も絶品だった。
この日は足摺岬を目指し太平洋沖を一日航海していた日である。

11階のランチブッフェの写真も1枚だけあった。
2025₋01₋17 13:32
リドガーデンでの昼食
この日はひとりで上陸したが、新宮からの紀勢線の電車が少なくて早めに船に帰って来た。そのおかげで13:30までのブッフェにぎりぎり間に合った。相変わらずいっぱいとってしまったが、美味しそうに見えて無料ならばこうなる。
しかし、一番おいしいと思ったのは右のパンだった。

夕食は、飛鳥だから当たり前だが、毎回豪華だった。
乗船初日は初春会席。
初春会席
祝箸を包むきれいな和紙を開くと金粉が入っていて、これを前菜の「青唐辛子のせ炙り金目鯛寿司」にかけて食べた。我々は3つのクルーズに乗ったので初春会席を2回食べた(内容は少し違った)。二回目のときKさんが「この箸をお土産にしたいので普通の割りばしをもらえないか」とウェイターに尋ねると、彼はそのまま使ってよい、と空いている隣の席の祝箸を渡してくれた。ちなみに、金粉はもちろんAuだから何の味もしなかった。

何の味もしなかったといえば、ある夜の料理にたっぷりトリュフのスライスが乗せてあった。今まで食べたトリュフはいつも少量だったから実は味がよく分かっていなかった。今回ほど大量に食べられることはないので期待して口にしたのだが、やはり味も香りも分からなかった。他のものも一緒に口に入れてしまったからだ。トリュフのあるなしで比較できないなら、せめてトリュフ単独で口に入れるべきだった。

初春会席以外のディナーも4回分メニューがとってあった。
夕食4回(和食、フレンチ2,イタリアン)と朝食3回のメニュー
和食は縦書き、洋食は横書き。

飛鳥では3か月半の世界一周であっても1回のクルーズでは同じメニューは出ないという。

ディナーの最後に出るデザートも豪華なことは言うまでもない。例えばアイスクリーム、ケーキ、モンブランが一皿に盛られて供される。
この時一緒に出た紅茶の受け皿に小さなチョコレートが乗っていた。飛鳥のロゴがデザインされていてオリジナルのようだった。しかし後でお土産として3個、税込み2268円で船内ショップで売られているのにびっくり。あんな小さなものが700円! 「Chocolat de 吉祥」とのコラボのようだが、この店の公式サイトをみると3個入り2700円、8個6804円で、普通のチョコではなかった。

また、19:30から23:30まで11階のリドガーデンでは、ブッフェスタイルで麺類やお茶漬け、串揚げ(酒のつまみ)、スイーツなど夜食が用意されている。お茶漬けといっても普通ではない。鯛の刺身、いくら、鮭、うなぎ、明太子、アサリ佃煮、その他もろもろ(思い出せない)、全部トッピングすると(お茶をかけなければ)豪華な海鮮丼と同じである。ダンスが終わって寝る前に何回か食べた。

クルーズも終盤になると、御馳走の喜びが薄れてきて冷静になる。毎日、胃袋の能力以上のものを目と脳が口を通して送り込んだ。これは体に悪いのではないか? 空腹状態が一度もないというのは幸せではないのではないか? いくら金持ちになってもお腹が空いたときのおにぎりほど旨いものはないだろう。カレーライスを腹いっぱい食べるのも幸せだ。
と言いながら、初めての豪華クルーズから帰宅して2週間たった本日、これを書いていて、また「全部」食べたくなってしまった。

(続く)