2000城余りある城の一覧表を作ったことは書いた。
「日本100名城」には42城に、「続100名城」には12城に行った。天守現存12城に関しても8城をみてきた。
しかし、2000余城を分母にすればまだ90城くらいしか行っておらず、5%にも満たない。
少しでも率を上げるべく、一番近い石神井城と練馬城を訪ねることにした。
6月22日、西武池袋線大泉学園駅から南の牧野富太郎記念館を見たあと、そのまま歩いて石神井公園に来た。
2025₋06₋22 11:03
公園には着いたけれど、よくあるように入口がなかなか見つからない。
北西の隅から東に芝生広場などを見ながら西縁を南下すると西にも森が出てきた。
芝生広場などは区立、森や池などは都立の石神井公園のようだ。
11:05
三宝寺池
この池の南に石神井城の鎮守として豊島氏が大宮の氷川神社から勧請し石神井氷川神社、さらにその南にこの池の名にもなった三宝寺がある。1394年、豊島氏の祈願寺として、石神井城とともに創建されたとされる。
三宝寺には家光が鷹狩りで立ち寄ったことにちなむ御成門、勝海舟邸から練馬兎月園をへて移築された長屋門などもあるらしい。それらは帰宅後に知った。
ぼんやり、ゆっくり何度も散策するなら別だが、パッと行ってパッと帰ってくる私の訪問では、ちゃんと調べていくべきであった。北側の練馬区立石神井松の風文化公園(日銀の運動場跡地) にあるふるさと文化館も練馬の歴史を展示しているというし。
11:07
園内は都心の公園と違い自然が良く残されている。
井の頭公園と同じくらい知名度はあるが、訪問する人はあちらが圧倒的に多いのではないか?井の頭はアクセスがよく若者に人気の吉祥寺と隣接するのに対し、こちらはやはり近隣の人がゆったり訪れている感じがした。
私も井の頭は何度か行ったが、こちらはずっと気になっていたまま今回初めてだった。
11:08
水がこんこんと湧き出ている。
神田川の井の頭池、善福寺川の善福寺池、妙正寺川の妙正寺池のように、石神井川の水源かと思ったが、よく考えると南のほうにすでに石神井川は流れている。この川は小平の小金井カントリー倶楽部敷地内の湧水を水源とし、練馬区、板橋区を流れ北区王子駅をくぐって隅田川に入る。
それにしても、忍野八海とはいかずとも見事な湧き水だと思ったが、調べたら湧いているのではなかった。三宝寺池は井の頭池や善福寺池とならぶ武蔵野台地の3大湧水池として知られ、かつては石神井川の主水源であった。しかし湧水が減少したため、1971年に190mの深井戸が掘られ、いまは地下水をポンプで揚水しているらしい。
11:09
23区内の公園とは思えない。
11:10
城は南の石神井川と北の三宝寺池の間の高台に築かれたはずだから、城址は池の南である。
しかし、池が大きくなかなか南に渡れない。
11:11
ようやく渡れた。
11:12
石神井城址の記念碑
この城は豊島氏の居城の一つだったが、1477年太田道灌に攻められ落城、廃城となった。
豊島氏というのは、桓武平氏良文流の秩父氏から分かれた。すなわち、三浦、千葉、大庭、梶原、長尾などに並ぶ坂東八平氏のひとつ、秩父氏を祖とする。秩父氏は畠山、河越、豊島、江戸、葛西、稲毛などの諸氏に分かれた。
武家というのはすべて地方の開墾地主が始まりである。諸氏の領地を見ると、斜面が多い秩父から、湿地帯の多かった関東平野に進出していくのがわかる。稲作は雨季と乾季を人工的に作らねばならないから、はじめは給水排水が容易な山裾で発達し、のち大規模土木工事が可能になってから湿地帯を含む平地で新田が開発されていった。
豊島氏は前九年の役(1050)のころ秩父氏から分かれたようである。
北区豊島という武蔵野台地が東に尽きたところが発祥の地とされ、上中里の平塚神社あたりに館があったらしい。
鎌倉時代は幕府の御家人として家は続き、南北朝時代(1349)に石神井郷一帯の支配をはじめ、石神井城を築き、本拠を移したのは14世紀終わりとされる。
室町時代になって古河公方の足利成氏と鎌倉の関東管領上杉家が対立したとき、扇ガ谷上杉家の家宰だった太田道灌が岩槻城、河越城、江戸城を築き、平塚、練馬、石神井を根拠地とする豊島氏と対立するようになる。1476年長尾景春の乱で豊島氏が長尾方についたことから道灌が攻め、1477年、両者は江古田原・沼袋の合戦でぶつかり、豊島氏は滅んだ。
1477年というのは応仁の乱が終わった年で戦国時代の始まりと言われる年である。
東京都というのは太田道灌が大好きで、あちこちに銅像やら山吹やらの歌碑がある。しかし太田道灌は江戸の発展にまったく貢献しなかった。これが他の都市だったら徳川家康か慶喜を建てるであろう。
おそらく明治政府が徳川を嫌ったのであろう。家康が立つべき江戸城前の広場に楠木正成というのは明らかに尊王攘夷・維新政府の意向である。
太田道灌に滅ぼされた豊島氏は、しかし名を残した。
北区豊島、豊島園、豊島区などである。
(もちろん大田区は道灌と関係ない)
かつて豊島はもっと大きな地名だった。
墨田川から西つまり東京23区都心部の大部分は豊島郡だった。湯島や麻布、赤坂、芝も、日本橋のあたりも豊島郡だった。
明治11年の郡区町村法により、豊島郡の南東部は東京の中心として東京15区となり、残った周辺は南北二つの郡となった。明治22年15区が東京市になったとき、南豊島郡は、内藤新宿町、淀橋町、渋谷村、千駄ヶ谷村など2町6村。北豊島郡は巣鴨町、高田町、日暮里村から石神井村、下練馬村など4町15村。
(江戸周辺の郡は川で分けられ短冊のように長い。明治になって郡が南北に分かれるとき戸数の少ない北の郡が広くなるのは足立、葛飾などと同じである)
ちなみに南豊島郡のほうは明治29年(1896)すぐ西の東多摩郡(いまの中野、杉並)と合併し豊多摩郡となり、消滅した。北豊島郡のほうは昭和7年の東京市拡大で荒川、滝野川、王子、豊島、板橋(練馬含む)の区となるまで存続した。
さて、石神井城に戻る。
石神井城は南の石神井川と北の三法寺池(かつては川?)の間の台地に築かれた。南北の水系は東で合流するから東に向かった舌状台地である。普通は3方向が崖となる先端部に築城するが、中央部で東西を空堀でくぎって、築城してある。東は出丸とすればいいだろうし、北の三法寺池の広いところが防御の点で良いと思ったのであろう。
11:15
内郭西側の空堀址。
左側が内郭跡で、フェンスによって立入禁止、保護されている。
東京23区の城址とは思えない景色である。練馬の田舎さというか偉大さというか。
このあたりは、もともとは三法寺池から石神井川に流れる三法寺川と水田だったが、地元の資産家であった豊田銀右衛門が、大正5年(1916)に川の北と南に「第一豊田園」「第二豊田園」を造成した。折しも西武池袋線の前身・武蔵野鉄道の池袋―飯能間が開通した翌年である。
1934年には川をせき止め石神井池が作られ、公園の体裁が整った。
その後、第一豊田園は宅地化され、第二豊田園の方は都が土地を取得し、昭和53年(1978)に「記念庭園」と名をあらため、都立石神井公園の一部となった。
石神井池の北は高級住宅地である。