2023年7月12日水曜日

和歌山5 高野口から九度山まで

高速夜行バスで和歌山にきた。
朝着いて、和歌山城と日前宮を見て、JR和歌山駅から紀ノ川沿いに走る和歌山線に乗って、途中の名手駅で降り、華岡青洲の里を歩いて、1時間後に再び電車に乗った。

つぎに目指すは高野山。
予定では、橋本駅で南海電鉄高野線に乗り換え、高野山のふもとの極楽橋駅まで行くつもりだった。

しかし地図を見たら紀ノ川の北岸をJR和歌山線で橋本まで東へ行った後、南海電車は橋本からヘアピンのように戻って川の南岸を西に戻ってくる。
これなら和歌山線の高野口駅で降りて、紀ノ川を渡り、南海電車の九度山駅まで歩けないことはない。
歩けば何かを発見できる。
九度山は時間があれば寄りたい場所だったし。
と、電車を降りた。
12:52
高野口の駅舎はそこそこ広い。2022年4月に無人化されたようだ。
普通は改札の場所にICカードのタッチ盤があるのだが、ここは何もない。
12:52
駅から出ると突然豪華な木造建築がありびっくり。
葛城館という。

乗ってきたJR和歌山線の紀ノ川沿い、すなわち和歌山―橋本間は、紀和鉄道として1900年に開通。ここには名倉駅が1901年開業した。高野山への玄関口として旅館が十数件建ち、駅前の2軒のうち一つが葛城館だった。正確な時期は不明ながら駅開業当時の建築とされる。

名倉駅は1903年に高野口駅と名を変え、明治後期から大正にかけては駅前に人力車が200台以上待機していたとされる。
しかし、1925年(大正14)、南海鉄道が南下していまの高野下駅まで開通させると、ここ高野口駅からの登山客はだんだん減少していった。

葛城館は旅館をやめた後1994年ころまでは宴会場として使われていたが、この年に営業を休止した。2001年に国登録文化財、2012年に保存修理が行われ、今は地元の橋本市が管理しているようだ。
13:04
高野口から炎天下を歩き始める。
登山道としての役割を終えて長年たち、賑わいはない。

13:11 紀ノ川に到達。
駅から1.4キロメートル、18分とあるところを19分で歩いたからまあまあか。

ところで標識を見て驚いた。
九度山橋はクドヤマバシだった。信号機を見てもクドヤマバシ。
小学生のころから老人の今まで、ずっと九度山をクドサンと読んでいた。
(確かにクドサンと入力しても変換されないがクドヤマなら一発)
13:11
13:14
対岸は九度山の集落。
九度山は山ではない。おそらく川から見た時に丘のように見えたのだろう。

歴史的には、高野山が不便な山奥の修行の場であるのに対し、そのふもとに位置し、中世以来、高野山領の行政や年貢の集積などは、ここ九度山の慈尊院に置かれた政所(まんどころ)が司った。このため九度山町は小さな城下町のようであったが、明治以降はその機能を失い、集落は古いまま残った。

もちろん私を含め大多数の人にとって九度山とは真田昌幸、幸村親子の蟄居地として知られる。
13:14
岩かと思ったら古い橋脚の残骸のようだ。
こういう写真を撮るときはいつもスマホが手から滑り落ちる気がする。
13:16
渡りきると左から来る丹生川との合流点が見えた。
標識がある。
「左丹生川、右紀ノ川」だと思ったら、和歌山県と国土交通省の河川管理の境界を示す板だった。こういう標識って必要だろうか?
13:18
橋を渡りきると右、慈尊院という案内板が見える。

慈尊院は、816年、空海が、高野山をひらいた時、高野山参詣のふもと、要所に当たる九度山に、表玄関として伽藍を建てたことに始まる。以後、高野山一山の庶務を司る政所、また、宿所、冬期避寒修行の場とされた。
834年、空海の母が訪ねてきた。彼は母をここに住まわせ、月に九度見舞ったことから九度山になったとか。彼女はその年に亡くなり、以降、慈尊院と呼ばれるようになった。
また、高野山は女人禁制であったから、女性はここまで来てお参りした。

慈尊院には行かず、南海電鉄九度山駅に向かう。
13:19
九度山の集落は、江戸時代と変わらないのではないかと思うほど道が狭い。
13:21
観光案内板はわざわざ「立て」なくともこのように道の脇に「置く」のがよい。
私も千駄木に来たとき、しばらく小さな板を表札代わりに下に置いていた。
13:22
真田ミュージアムは、もともと入るつもりもないが、定休日(火曜)で工事をしていた。
13:22
壁にあった地図で、来た道と、慈尊院の場所を確認する。
13:24
善名称院(真田庵)裏口。

1600年の関ヶ原の戦のあと、西軍に属した信州上田の真田昌幸、幸村親子は死罪とされたが、真田信之とその舅の本多忠勝の助命嘆願で、高野山への蟄居となった。
その後まもなく麓の九度山におり、この場所で過ごした。親子と家族、16人の従者の生活費は国許の信之、関係の深かった蓮華定院、和歌山藩主浅野幸長からの援助があった。

昌幸は11年後にここで病死、幸村(近年は信繁が正しいとされる。通称は左衛門佐)は1614年にここを脱出、大阪城に入り、大坂冬の陣、夏の陣で驚異的な活躍を見せ討ち死にした。
その後この屋敷(真田庵)あとに高野山真言宗の善名称院が建った。
13:25
中は寺院というより普通の屋敷のよう。
13:27
庭の真ん中に昌幸の墓があった。
真田昌幸は、7歳の時に人質として甲斐の武田に送られ、信玄の奥近習衆の一人となった。その知性知略は若いうちからすぐれ、曽根昌世とともに「信玄の両目のごとき者」と言われた。父の真田幸隆、兄の信綱、昌輝は武田二十四将に数えられ、家系的(遺伝的)に優れた知将であった。

兄二人が長篠で戦死した後、真田の家督を継いだ。武田家滅亡の後は信州で独立したが織田政権に組み込まれ、本能寺の後は、徳川、上杉、北条の間で生き残りをかけ画策した。1585年、2000の兵力で7000の徳川軍を迎え撃ち1300人を戦死させ大勝(第一次上田合戦)、以後、豊臣系大名の間で信州の独立勢力と認知される。

圧巻は、1600年の関ヶ原前夜、中山道を進んだ東軍別動隊、徳川秀忠率いる3万8千の大軍をわずか2000の兵で翻弄したことである。降伏すると見せかけながら挑発、抗戦し、結果的に秀忠軍は関ヶ原に間に合わなかった。

合戦というのは戦力の差が二乗で効いてくるだろう。
例えば、籠城攻めなど動かない標的を攻めるなら、単純に戦力に比例する。2倍の兵力で濠を埋めれば2倍の速さで進む。しかし、攻めてくるものが相手では防御に戦力を割かねばならず、攻められれば、こちらの攻撃力が減少する。だから2倍兵力あれば4倍の威力がある。
つまり合戦に至るまでの調略でいかに戦力差をこちらに有利にできるかが重要で、戦場での勇猛果敢さは意味がない。

その意味で、関ヶ原に布陣するはずだった3万8千もの軍勢を「ないもの」にしたというのは、かの地での宇喜田、小西、大谷、石田らの奮戦とは比べ物にならないくらいの功績(?)であった。勝っていたら真田は信濃、甲斐、上野、下野くらいもらえたかもしれない。
13:28
表門から出る。
私が真田を知ったのは小学生のころ、テレビである。記憶にあるのは屋敷を囲む生垣ごしに幸村が立っていたシーンであるが、いまは中が見えない土塀になっている。

13:33
再び丹生川を渡る。
丹とは「あおによし」の「に」で、赤い辰砂(硫化水銀HgS)のこと。
この名の川は全国にある。

未だ昼食を食べていなかった。
歩いてきた途中、飲食店はなく(ほとんど人もいなかった)、そのうち南海電鉄九度山駅に着いてしまった。
13:35
駅前にも何もなく、探しても良かったが、ちょうど電車が来るので先を急いだ。
10里を行くものは9里を半ばとす。
食べたら高野山に行くのが面倒になるかもしれないし。
13:36
ホームも真田の赤と六文銭だらけ。
信州の上田や松代より派手だ。
大河ドラマ「真田丸」以前はもう少し落ち着いた駅だったかもしれない。

真田昌幸ほどの知性があれば、豊臣恩顧の加藤、福島までついた徳川が勝つと見ていただろう。しかし西軍についた。長男の信之を東軍に行かせ、次男幸村を連れて三成の誘いに乗ったのは、大きな野心があったのではないか。

いったんは東軍についた黒田如水が天下の大乱は一回では終わらず、自分にもチャンスがあると九州で暴れていたように、昌幸も、二回戦は家康より人望も実力もない石田三成のほうが与しやすしと、いったんは西軍に勝たせ、不安定さを増して二回戦以降で天下をとろうとしたのではなかろうか。

2023年7月10日月曜日

和歌山4 紀ノ川と名手、青洲の里

7月4日、火曜日、高速夜行バスで和歌山にきた。
朝着いて、和歌山城と日前宮を見て、和歌山駅まで戻ってきてもまだ10時半。
十分時間があるので紀ノ川に沿って東にまっすぐ行き、高野山に登ることにした。

紀ノ川流域は平地の少ない和歌山県において唯一の平野である。
大和と海を結ぶ経路の途中であり、古墳時代から開けた。高野山にも近いから平安、戦国時代まで、根来寺など寺院も多かった。

この流域に沿ってJR和歌山線が東に伸びている。
和歌山駅を出て、高野山の入口である橋本まで19駅、62分、42キロメートル、860円である。
駅と通過時刻を列挙すると、

0 10:55 和歌山
1 11:01 田井ノ瀬
2 11:04 千旦
3 11:07 布施屋
4 11:10 紀伊小倉
5 11:13 船戸
6 11:16 岩出
7 11:19 下井阪
8 11:22 打田
9 11:25 紀伊長田
10 11:28 粉河
11 11:31 名手
12 11:34 西笠田
13 11:38 笠田
14 11:40 大谷
15 11:44 妙寺
16 11:47 中飯降
17 11:50 高野口
18 11:54 紀伊山田
19 11:57 橋本

どこかで途中下車して、紀ノ川沿いの、いかにも和歌山という田園を歩いてみたい。
どうせなら何か名所旧跡のある駅がよい。
1時間後に次の電車があるから、1時間見物できる。

2つ目の千旦は、松下幸之助生誕の地というが、和歌山市に近すぎる。
6つ目の岩出は、根来寺がある。ここは見てみたい。真義真言宗の豊山派、智山派の総本山である。
また、この寺は室町・戦国時代、寺領70万石もあり、対明貿易にも精を出した。この富があれば領地を守るための僧兵を多数抱え、戦国大名並みの軍事力を持てる。種子島に渡来した鉄砲2丁のうち、1丁を手に入れ、堺の鍛冶屋に複製品を大量に作らせ、関東の小田原氏など戦国大名に売った。また根来寺自体も、下流域の雑賀衆とともに、抜きんでた鉄砲集団として信長、秀吉をてこずらせた。最終的に秀吉に焼き払われ、残ったごく一部の遺構(大塔、大師堂など)が城郭ともいえる広大な敷地に散在しているらしい。
しかし地図を見ると、駅から北の山のほうへ4.6キロ、歩くと片道1時間もかかる。
諦めた。

さらに紀ノ川沿いに思いをはせれば、42年前の1981年4月、田辺製薬に入社したとき、紀北青年の家で研修合宿した。オリエンテーリングなどもあり、地図を手に里山の細道を歩き回った記憶もあるが、調べると16個目の、橋本に近い中飯降(なかいぶり)駅から徒歩30分で、これも無理。

11個目の名手駅から徒歩20分に華岡青洲の旧居跡、墓などがある。私の知識は有吉佐和子「華岡青洲の妻」で得たことくらいだが、往復40分、見物20分。これならちょうど良い。

とにかく和歌山駅10:55発、奈良県の王寺ゆき電車に乗った。
平日のこの時間だから当然ガラガラ、観光客もいない。
2023₋07₋04 11:23
和歌山市、岩出市をすぎ紀の川市にはいり、8つ目の打田駅を過ぎる。
JR和歌山線は国道24号線とともに、紀ノ川の北岸を走る。

北方に和泉山脈の山々がみえる。
この紀州と大阪南部を隔てている山並みは、生駒・金剛山脈が南部で曲がったもので、葛城山脈とも呼ばれる。

この山脈は、信州諏訪湖から伊那谷の東、豊橋、渥美半島、志摩半島を経て阿波吉野川、伊予佐田岬半島から阿蘇、八代に至る大断層、日本列島を縦断する中央構造線の縁であるから、壁のようにまっすぐである。当然、断層でできた谷の紀ノ川平地も細長く、川も道路も鉄道も東西にまっすぐ。
11:24
何の木だろう。
和歌山は果樹王国で、2021年の生産高(収穫重量)は、みかん(全国シェア20%、1位)、梅(65%、1位)、柿(21%、1位)、モモ(7%、5位)である。
11:27 
10個目の駅、粉河到着。
手書きの案内板がよい。
「こかわ」といえば、田辺製薬時代の後輩、岡幸蔵くんの出身地でなかったか。彼は生化学が専門だったから、顔を合わせる機会は少なかったが、根来寺と真義真言宗について話したことがある。好青年だった。こんな田舎から京都大学に入ったのか。

数学者の岡潔(1901- 1978)は、やはり紀ノ川沿いで育ち旧制粉河中学から三高、京大に進んだ。岡君の親戚だったりして。
岡潔の随筆「日本のこころ」を何十年か前に読んだが、嫌なことがあったとき、冬の朝、真っ黒な土に太陽が当たっているのを見たら不思議と元気が出た、という話が記憶にある。(数学的な業績は知らないし、この本でも他は全く覚えていないのだが、この話一つだけ覚えている)
11:34
11個目の名手駅で途中下車。
和歌山線はワンマンカーでほとんどが無人駅。
「なて」といえば、やはり田辺時代の名手博行さんを思い出す。1学年上の、関西弁が優しい方で誰からも愛されていたが、この地との関係は知らない。

歩いて20分ほどの華岡青洲ゆかりの地は、隣の西笠田駅との間にある。紀ノ川沿いの農村地帯を1時間ほど歩き回ってそこから次の電車に乗ればちょうど良い。
11:37
紀州の古びた農村地帯を期待して駅から歩き始めたら新しい道路と家が並んでいた。
こういう広い道は暑くていやだ。
11:39
と思ったら、旧大和街道にぶつかった。
右の蛭子大神宮の隣の、板壁の郵便局などは時代が止まったかのよう。
11:40
旧名手宿本陣・妹背家住宅
紀州藩主の参勤交代は、紀州街道で大阪に出て京都を経るルートと、大和街道で五条に入り、伊勢街道を通るルートがあった。この妹背家は参勤交代のほか藩主の鷹狩りなどでも使われたらしい。そういえば吉宗は鷹狩りが好きだったな。

また妹背家は、華岡青洲の妻、加恵の実家としても知られる。何も知らずにたまたまこの道を通りかかったのは儲けもの。
11:43
大和街道は、東海道本線、国道1号線という列島中央線から外れており、時代から取り残されたが、その分、いい雰囲気が残っている。

ちなみに「大和街道(奈良街道)」というと、京都あるいは大阪、伊勢亀山から奈良へ向かう道についても使われるが、つながっているのではなく、複数の道の総称である。

さて、大和街道から左折し北のほうに向かうと、山は遠いが道は上り坂。
11:46
イチジクがあった。千駄木菜園にも2本植えているが、今年はあまり生っていない。
キウリ、トウモロコシも見える。

11:46
登り坂は延々と続く。
名手駅から春林軒(青洲の住居兼診療所)まで1.7km22分というが、この坂が続いたらほんとに22分で着くのだろうか。というか体力が持つだろうか。
暑い。
疲れた。
たぶんここで倒れたら熱中症とされるだろう。年寄りなのに夜行バスで来て朝から和歌山城はじめ炎天下の各地を歩き回った。メディアは喜んでその関連を報ずるだろう。
11:48
このあたり全体的には南の紀ノ川に向かって緩やかな斜面だが、ところどころに川があり小さな谷を作っている。
11:51
道の脇に野生のイチジク発見。
写真を撮ろうとして足を滑らせ崖下の谷に落ちるところだった。

再び熱中症について。
今の日本でメディアは諸悪の根源だと思っている。
そういっても誰も納得しないだろうが。

しかし、コロナがあれだけ経済、財政をずたずたにしたのは(大多数が無邪気、無意識だが)とにかく大げさ、視聴者の健康に気を遣うふりをするメディアと、それを盲信、思考停止で洗脳され従ってしまう国民のせいだろう。報道番組が多すぎ、大したニュースでなくても時間を埋めるため何でも大げさに言う。専門家は責任を取りたくないから不必要なほど慎重安全なコメントをした。今は国民もメディアもようやくコロナに飽き、(感染者は昔より多いのに)毎日感染者数を発表していたコロナニュースもなくなり、それに続く国民の盲信がなくなったから社会は正常になってきた。最初からあれほど報道しなければ(すくなくとも諸外国のように1,2年で辞めておけば)もっと早く正常な世の中になったのである。

そしてコロナがなくなって今は熱中症である。
テレビを見るたびに(見なければいいのだが、つけるとアフタヌーンバラエティショウの報道番組ばかり)、天気予報とともにその大げさな報道に腹が立つ。
具合の悪くなる人はごく少数なら一年中いるだろう。それが今なら30度くらいの気温でも熱中症とされる。そりゃ暑さのせいで倒れた人もいるだろう。ところがテレビは、すべての国民が倒れるかのように危機をあおる。

環境省気象庁は今年から熱中症警報アラートの運用を始め、畑バイト先のタブレットに転送されるようになった。そのうち、この警報に基づき保育園の休校とかイベント中止とか始まるかもしれない。警報なんて余計なお世話だし、税金の無駄遣いだ。

この南国の炎天下、暑い坂道を登りながら、意地でも倒れないぞ、と思う。

道は北への上り坂から東に曲がると水平となった。
11:52
こちらはビワ。
これも深い断崖の下から生えている。手は届きそうで届かない。
11:53
これはガマかな。関東ではあまり見たことがないがとくに南方の植物というわけでもない。穂の花粉すなわち漢方の蒲黄(ほおう)には血管収斂、止血作用があり、因幡の白兎伝説で知られる。
11:54
この木は何だろうと近づくとミカンのようなものがついていた。柑橘類は温州ミカンからカボス、不知火までいろいろあるから、何だか分からない。人に聞こうにも暑いなか畑に出ている人はいない。
11:55
ずんぐりした、見慣れぬ白い幹があり、近づくと柿がなっていた。
柿は関東でも多くの家にあるが、もっと細くて、たいてい自家用の1本きりである。このように畑で商業用に栽培しているのは初めて見た。ずんぐりしているのは地上で作業しやすいように長年にわたって剪定した結果であろう。

11:57
突然、のどかな畑のまんなかに道の駅「青洲の里」があらわれた。
しかし店は閉まり、駐車場にも車はない。まあ、平日はこうだろう。

この周辺に、華岡青洲(1760 - 1835)の墓のほか、青洲顕彰記念公園、復元された春林軒もあるはずだ。春林軒は建坪220坪、住居をかねた診療所であったが、世界初の全身麻酔による外科手術を学ぶため全国から集まった医師のための塾でもあった。
11:59
道は下り始めた。こちらでいいのだろうか?と思いながら何も案内板がない。
先に行けば何かあるかもしれないと、どんどん進むが、こういうとき動けば傷は深くなる。
間違えたかな?
12:02
豊かな農村という景色。
青洲の家もこんな感じだったのだろうか。
12:02
よく見る蜜柑のかごや箱を運ぶ農業用モノレール

12:04
道はどんどん下り、完全に間違えたことが分かったが、もう坂を上って戻る元気はない。右は谷になっていて、華岡青洲関連史跡はこの谷の向こうのようだ。都会と違って道が少ないから、すぐ近くなのに行けない。
もう諦めて西笠田駅に向かうことにする。

坂を下りきると国道480号線に出た。国道と言ってもセンターラインもなくすれ違いが難しい農道という感じ。やがてJR和歌山線の下をくぐり、大和街道(国道24号の旧道)に出た。

この道を東に歩くと橋があった。
12:09 穴伏川とJR和歌山線
川の真ん中で、高さ2メートルくらいの人工の滝に向かってじっと座っている人がいた。顔にかかる水しぶきが涼しそう。釣り竿などは見えず、避暑を兼ねて瞑想でもしているかのようだった。

12:09
穴伏川はすぐ下流で紀ノ川に合流する。
新しい橋は国道24号線。

小さなガソリンスタンドがあり、駅はこの道でいいか尋ねた。
歯が欠けたおじいさんはにこにこしながら、私にどこから来たのか、どこに行くのか聞いた。高野山に行くというと嬉しそうに今夜はそこに泊まるのかと言われる。もっと話をされたいようだったが、疲れていたので礼を言って先を急いだ。
12:14
道は再び大和街道となる。
この曲がり具合が旧道らしい。
防火用水と書かれたコンクリートの石柱が途中で折れていた。
12:16
西笠田駅(にしかせだ)到着。
人家の数から小さな無人駅なのは予想通り。しかし利用者が道端に自転車バイクを無造作に止めているのが新鮮だった。電車と同時に到着して急いで鍵をかけ飛び乗る景色が目に浮かんだ。
12:16
こんな田舎の小さな駅だが1時間に1本電車があるから信州の飯山線より本数が多い。
12:17
ホームの真ん前が紀ノ川。
写真左の森は船岡山という中洲になっていて厳島神社がある。

ここまで上流に来ても川幅が広く、水も岸もきれいなのは、雨の多い紀州の川だからか。
名前からして紀州そのものという川だ。

紀ノ川と言えば有吉佐和子。
「恍惚の人」、「複合汚染」、「華岡青洲の妻」、「和宮様御留」、「針女」を読んだことがあるが、代表作である「紀ノ川」って読んだことがなかった。帰ったら読んでみるか。

それにしても、わざわざ暑い中1時間近くも歩き回って、華岡青洲の旧跡にほんの目の先、数十メートルまで迫りながら現物を見られなかった。
人生とはこんなもの。
待合室に一人すわり、こんなことを思っていたら12:33発の電車がきた。

(続く)

2023年7月9日日曜日

和歌山3 原生林の日前宮と紀氏

夜行の高速バスで和歌山市に来た。

朝ついて、一番行きたかった和歌山城を見て、和歌山駅まで歩いてきたがまだ10時前だ。
さてどこに行こう?


駅の東方800メートルほどのところに日前(ひのくま)神社、国懸神社がある。
古代の先進地域であった紀伊の国の一之宮である。
同じ境内に二つの大社が並んでいる。地元の人は両方呼ぶのは面倒なのか、またひのくまという読み方を忘れてしまうのか、両社を合わせて日前宮(ニチゼングウ)と呼び、近くのわかやま電鉄貴志川線の駅名もこれである。
2023₋07₋04 9:50
炎天下の広い道路(宮街道)を歩く途中、歩道で発見。
さすが木の国、樹勢が保護柵の鉄パイプを飲み込んでいる。
しかしクスノキではなく、葉はカナダの国旗のように三つ又だったからカエデかな。私は野菜しか分からず、植物の名前に疎い。
9:53
日前宮の北西の隅に到着。
森に近づくと涼しくてびっくり。
この日、7月4日の和歌山市は32.0度。これは日影の百葉箱で測ったものから、実際のアスファルト道路の表面は焼けつくような暑さだった。それがここでは日影以上の涼しさがある。

9:54
たいてい大きな寺社は入口がいくつかあるが、ここは正面以外からは入れない。
まだ涼しさに感動しながら四方をめぐる濠に沿って歩く。右は和歌山県立向陽中学・高校。
全く手の入っていない原生林に見える。クスノキの他、コウヤマキもある。
おそらく数千年の間、種が落ち発芽し、伸び、老いては、次の若木に場所を渡し朽ち、現代まで来たのだろう。県庁所在地の駅から数百メートルにこういう場所があることが奇跡のようである。
まさに紀の国、いや、木の国である。
9:58
南に回るとひのくま幼稚園があった。
門の中に先生たちと園児がいたが、写真ははばかれ、外で撮った。

ところで日前とかく「ひのくま」のこと。
これで思い出すのは檜隈(ひのくま)である。大和国高市郡明日香村あたりの古代地名。高松塚古墳、キトラ古墳などがあり、渡来人の多かった地域である。両者が関係あるのかないのか、調べる元気はない。
9:59
官幣大社日前神宮 官幣大社国懸神宮
明治のころ定められた近代社格での格式は高い。最高位の官幣大社も65しかないが、そのうち神宮と呼ばれる神社は全国で25しかなかった。(埼玉大宮の氷川神社や赤坂の日枝神社は官幣大社だが神宮ではない)もちろん同じ境内に二つあるというのはここだけである。

二社の祭神は鏡。天照大神が岩戸に隠れたとき石凝姥命が鋳造した八咫鏡が伊勢神宮に奉納安置されているが、それに先立って造られた二体の鏡、日像鏡・日矛鏡(ひがたのかがみ・ひぼこのかがみ)がそれである。

二つの鏡は天孫降臨の際、三種の神器(八咫鏡・草薙剣・八尺瓊勾玉)とともに地上に降りた。神武天皇東征のあと、天道根命(あめのみちねのみこと)を紀伊国造(きいのくにのみやつこ)に任命し、二つの神鏡を以て紀伊國名草郡毛見郷の地に奉祀せられたのが2社の起源という。

ちなみに、天道根命は紀氏の初代となり、代々、日前宮の宮司を務めている。天皇家、千家氏(出雲大社の宮司、現当主・千家国麿氏は2014年高円宮の典子女王と結婚)とともに現在の日本で一番長く続く家系である。

古墳時代の大和朝廷は国内を統一するにあたり、各地の豪族を国造に任命した。のちに国造は朝廷が任命する国司にとって代わり、地方豪族は霧のように消えてしまったが、紀伊と出雲だけは特別で、国造が祭祀を司るものとして残ったのである。

第78代の紀俊秀氏は宮司のかたわら和歌山市長、貴族院議員であったが、ウィキペデイアでは81代の俊明氏が当主となっている。その子息は82代の俊寿氏と書いてある。

しかし宮司職は79代が78代の弟の俊氏、80代が俊嗣氏、81代が現宮司の俊武氏(1939年生まれ)である。
ネットには最近の禰宜(宮司の補佐)として紀俊崇氏の名もあった。

アテンションプリーズの紀比呂子は関係ない。ちなみに土佐日記の紀貫之、紀比呂子(芸名)の「紀」は「きの」と読むが、代々宮司を務められている「紀」氏は「きい」とよむ。

いずれにしろ、81代の家系、一代25年とすれば2000年か。239年フミくれた(魏志倭人伝)卑弥呼が1800年前だからまさに神話の時代である。

ちなみに境内の一角にあるひのくま幼稚園は、昭和26年に80代宮司の紀俊嗣理事長が始められ、現理事長は紀俊武(きいとしたけ)氏である。ご高齢だが幼稚園の公式サイトにあるのでご存命であろう。
10:08 短時間で退出
中にはひっそりと森の中に二つの本殿と摂社、末社がいくつかあった。
説明版などはほとんどなく、写真撮影も禁止。
原生林は柵などはないが、獣道すらなくて物理的に入れない。

外に出て地図を見れば日前宮の1.5キロメートルほど東の丘陵には、67ヘクタールに500基の古墳が散在する「和歌山県立 紀伊風土記の丘」がある。
勉強して来なかったので、ぜひ行きたいという気持ちもわかず、暑かったこともあり行かなかった。

神宮の東隣りは和歌山市立日進中学。
ぐるっと神宮のまわりを一周して宮街道に戻る。
10:18
帰り道に国懸神宮がクニガケではなく、クニカカスと読むことを初めて知った。
そういえば天王寺の高層の駅ビル・阿倍野「ハルカス」も古語だったな。

神宮から離れたとたん、猛暑。
広い道路は車には便利だが、日影がないため歩行者はつらい。
10:27
鳥居のある小さな柵。
作った人はどんな人だろうと想像した。

10:31
和歌山駅東口到着
お城や県庁のある西口と違って何もない。

これから紀ノ川に沿って橋本まで行き、高野山に登る。
行くことよりも、暑くて疲れたので、電車にのんびり座って景色を見たいのが第一。
(続く)