2017年10月1日日曜日

国立近代美術館、無料開放日

護国寺で原田直次郎を見たとき、
「本物は近代美術館にある。今日は第一日曜だから無料だよ」
と弟がいう。
「でも、そういう日は混んでるんじゃないの?」
「いや、あそこはいつも空いている。月1の無料日なんでだれも知らないし、関心もない」

そこで雑司ケ谷霊園に行く予定はやめて、急きょ地下鉄に乗った。
護国寺に自転車で来なくてよかった。
竹橋でおりて地上に出ると、石垣と堀が目に入る。
やっぱり江戸城はいいな。
清水濠
牛が淵からつながっているのだが、清水門から竹橋までは清水濠というらしい。
淵はもと川だったところ、濠は人工的に掘ったところというが、それなら牛が淵の川は清水門のあたりで平川(日本橋川)に入っていたのだろうか。

国立近代美術館MOMAT

この前は何回も通っているが、入るのは初めて。
それにしても、明治以降の絵画は「美術館」で、江戸以前は「博物館」(上野)というのは面白い。

慣れた感じでさっさと行く弟のあとを追って、
エレベーターで4階まで上がる。
見始めるといきなり加山又造の千羽鶴、菱田春草の王昭君(重文)の大作。
ほんとうに有名な作品の本物がすぐそばで見られる。

原田直次郎、騎龍観音 (重文)
護国寺本堂にあった複製品の本物。
国内最大規模約13,000点の所蔵作品から約200点を厳選して紹介しているというのに、偶然これが展示されていた。一日2か所で見たことから、この絵はずっと忘れないだろう。

岸田劉生
土の質感が素晴らしかった。
父親の岸田吟香については以前書いた。

村山塊太、中村彝、石井柏亭ら、千駄木、谷中ゆかりの作家も多い。
荻原碌山、高村光太郎の塑像もある。

3階に降りるとまたまた有名人、有名作品がいっぱい。
藤田嗣治、国吉康雄、東山魁夷らは10作以上展示されていて、まるで有名企画展を一度に何回も見た気分。

サイパン島 同胞臣節 全うす(1945)

これは戦意を鼓舞するものだろうか? 
私には反戦画に見えてしまう。
彼は「血戦ガタルカナル』(1944)など戦争画を何枚も書いている。
とにかく藤田は戦争協力者と非難され、日本を去りフランスに渡った。

動物の宴
たしかに藤田は乳白色が多い。

「白い朝」

朝、窓をあけると、庭一面の雪であった。
きじばとが一羽、羽をふくらませて、じっと枝にとまっている。
寒さに耐えて、春を待っているのだろうか。
何かを祈り、沈思しているように感じられた。
白の中のその孤独な姿が、私の心に通った。
(東山魁夷)

東山魁夷は今回 17 枚も展示された。

初めて行ったけれど、さすが国立美術館。
あれだけのものをタダで見てしまい申し訳ないと思った。
また行こう。

今回のMOMAT展(11/5まで)の作品リスト
http://www.momat.go.jp/am/permanent20170527_list29-1/


護国寺・墓地 山県、大隈、三条、

本堂の東、北には墓地が広がる。
ほかの寺と比べ、一つが大きい。
公爵山県有朋
左隣は田中光顕
その左が
従一位大勲位侯爵大隈重信墓
憲政会の石塔もある。

内大臣、正一位大勲位公爵
三条実美

一般人のお墓も大きい。

地下に部屋がある。

伊達宗敦
伊予宇和島の宗城の二男。宗城は谷中の広大な墓地に眠る。

josiah conder 
岩崎邸、島津邸、古河邸などを設計。
辰野金吾などを育てた。

空いているところもあるが、一区画はこれが最低か。
近所の寺でも分乗しているが、広くてもこの4分の1である。
いったい、いくらだろう?

陸軍墓地。
砲弾のモニュメントがある。
かつては護国寺の西側部分、5000坪にもわたっていたというが、この場所に縮小されたとのこと。
昭和7年、確かに陸軍墓地がある。
一般墓地より広い。
この地図だと高等師範(東京教育大)はあるが、女子師範(お茶大)はまだ来ていない。

護国寺墓地のまとめ:
谷中と比べて有名人の比率が高い。
また、一区画も大きい。
高級墓地という感じ。

お彼岸から1週間たったが、品の良い墓参りの老婦人とすれちがう。
一体、どんな名家の人なのか、墓石までついていきたい気分だった。


千駄木菜園 総目次

護国寺・25年前の記憶

長野から来た弟が行ってみたいというので、出かけた。
家から3.5㎞。
ご近所カテゴリーには入らない。
自転車で不忍通りをまっすぐ行けばいいのだが、上り下りがあるのでバスにした。

バスは護国寺惣門前に止まる。
惣門に並んで何の案内もない大きな門がある。
京都の御所みたいな塀。
すべての瓦に菊の御紋。
(写真を拡大すれば見える)


護国寺は綱吉が母、桂昌院の願いを聞いて建立した祈願時で、檀家を持たなかった。そのため、幕府瓦解して経済的な苦境に陥いり、境内5万坪の多くを失った。東側の2万5千坪は皇族墓地になった。その入り口がこの門である。

昨年11月、三笠宮崇仁親王が101歳で亡くなられ、斂葬の儀が行われたのはここである。中に入れなくとも、記帳に来れば何か見えるかもしれないと思ったが、結局来なかった。

護国寺は、普通、地下鉄の駅がある仁王門から入るから、惣門前はあまり人がいない。
入るとすぐ音羽幼稚園。民家のように見えるのは僧坊か。


護国寺に初めてきたのは
1992年11月だから25年前だ。
田辺製薬、薬理研究所の顧問をされていた東大名誉教授、熊谷洋先生が亡くなられ、葬儀の手伝いに来たのである。

現在葬儀は、桂昌殿で行われるようだが、25年前はこんな建物はなかった気がする。
葬儀会場はもっと小さく、今日と同じ秋晴れ、西日を浴びた下駄箱だけ覚えている。
桂昌殿

建物名は、桂昌院からとったものだろう。
野球ユニフォームの生徒は、日大豊山の学生だろうか。

25年前、手伝う仕事が何もなかったのか、式典などの記憶が全くない。
覚えているのは、葬儀が終わり、本殿を見物したことくらい。
2001年8月、目白フォーシーズンホテルで学会のあと、鳩山邸から歩いてきた。
そのとき、石段を上がった右側に鳩山和夫?一郎?の銅像があった。
たしかに、音羽の自邸は近いけれど、私物が公的な境内にあって違和感を覚えた。
今日、探したけれど銅像はなかった。撤去したのだろうか。
本堂(観音堂)

明治16 年と大正15 年の火災で多くの堂宇が焼けたが、元禄時代に作られた本堂は残った。国重要文化財。
象頭、獅子頭。
さすが幕府が後ろにいただけあり、豪華である。

本堂内部。

25年前、松岡さんや奥山さんと大きな曼荼羅を見た気がしたのだが、今は小さいものが横にあるだけ。
あれは何を見たのだろう?

この写真を撮った後、撮影禁止という注意書きを見たので、写せなくなった。
本尊がある場所に鏡があった。
奥のほうには立派な仏像がたくさんある。
欄間には牡丹の彫刻。
伊藤若冲を思わせる群鶏図。
全て色が剥げているが、奉納された立派な額が多い。
天井は中央に竜、両側に天女が4枚ずつ。
人がほとんどおらず、十分鑑賞できる。

西側の壁には原田直次郎が奉納した「騎龍観音」
直次郎は鴎外のドイツ留学時代からの友人で、ステッキを持って気取った鴎外、岩佐新との三人の記念写真は有名である。

弟によると、これは複製で本物は国立近代美術館にあるらしい。
今日は第一日曜で無料だから、行ってみようかという。
長野の田舎にいてなんでそんなことまで知っているのだ!?


護国寺にも富士塚がある。
斜面にあるので、円錐型がよくわからない。


十分満足して、仁王門を後にした。


2017年9月30日土曜日

竹隆庵岡埜と岡埜栄泉

千駄木に引っ越して間もなく、谷中を越え、線路の向こう、根岸で陸奥宗光の家を探していたとき、御行の松(おぎょうのまつ)の碑に出くわした。
江戸時代からの大木で、大正時代に天然記念物に指定されて間もなく枯死、高さ約13.6m、周囲4.9mだったという。

その近く、柳通りに竹隆庵岡埜があった。周辺は住宅地で、なんでこんなところに店があるのだろう、と不思議だった。

それよりも不思議だったのは店名の竹隆庵岡埜である。
あの岡埜栄泉と関係があるのだろうか?
岡埜栄泉自体もあちこちに店があり、名前が同じでも独立しているようであり、相互の関係がよくわからない。分からないうちに、竹隆庵岡埜が出くわし、ますます分からなくなった。

あれから数年。
日暮里駅南口、紅葉橋の階段を下りるとすぐ、竹隆庵岡埜の日暮里店がある。
ダンスの練習場への途中なので最低週2回は通る。
今日初めて菓子を買った。
お客が誰もいなかったので、思い切って聞いてみた。

初代が谷中の岡埜栄泉で修業してのれん分けさせてもらったという。
のれん分けさせてもらった人は皆、岡埜栄泉を名乗るのだが、ここはデパートに入るのに、同じ名前ではまずいから竹隆庵を頭につけたらしい。
なぜ竹隆庵かというと初代の名前、竹田隆。
包み紙などから古い店の印象があるが、随分新しい名前である。




帰宅後調べたら、2013年の上越タイムズに記事があった。
竹田隆氏は、この時会長で80歳。
上越市の網元の家に生まれ、戦後、親戚のやっていた谷中岡野栄泉に弟子入り、修業されたという。
あの、谷中霊園から上野へ行く途中の、交番の向かいの古ぼけた小さな店である。

竹田氏は25歳で独立。
根岸、柳通りの現本店は、ご自宅だったのではないか?

根岸には、上野輪王寺の貫主に大変気に入られたという「こごめ餅」があった。
そこに餡をいれたこごめ大福が大ヒット、三越に出店するまでになった。このとき竹隆庵岡埜の名前が作られたのだろう。



店の紙袋は本店のそばにあった御行の松と、音無川の流れる根岸の里。
いずれも安藤広重である。

音無川は今の日暮里店の前を流れ、根岸は正岡子規や中村不折など、文化人が多く住んだ。
だいぶ前から、店の看板の字が落ちている。
しかも一番大事な会長の名前「隆」ではないか。
もう少し長い伝統の店ならすぐ直すのではなかろうか。
急拡大(現在9店)した割には、のんびりしている様だ。


性生活の頻度を数式で求める

たまたま癌について調べていたらyahoo知恵袋の病気、健康カテゴリーに入った。
ふと横に出た見出しをクリックしたら、性生活の頻度について、初老の人から真面目な質問があり、何人か答えていた。

その中である人が年代別の目安の計算式を教えていて、おもしろかった。
各年代の行為の頻度は、年代数を9倍した数字の10のけたと1のけたを見ればよいというのだ。つまり

 30代なら 3・9 = 27 だから 20日 に 7回、
 40代なら 4・9 = 36 だから 30日 に 6回
 60代なら 6・9 = 54 だから 50日 に 4回

というのである。

これを使って大学入試問題を作った。

問1 
上の例で、年齢大台(10のけたの数字)をx、頻度(間隔)をy日に一回とする。
 (2≦x≦9)
つまり、
   X  X・9   間隔Y      
30代 3  27   20/7 = 3(2.9)
40代 4  36   30/6 = 6
50代 5       45             40/5 = 8
60代 6    54          50/4 = 13(12.5)
70代 7    63          60/3 = 20  
30代は3日に一回、60代は13日に一回ということだ。

ここで、XとYの関係式を求めよ。

解答

 Y =(X・9の10のけたの10の倍数)/(X・9の1のけた)
ここで
 X・9 = 10X-X = 10(X-1) – X +10 だから
 Y = 10(X-1)/(10-x)となる。

問2 
XYをグラフにしたら、どのような曲線となるか?

解答

得られた式
  Y = 10(X-1)/(10-x)
をさらに変形すれば
  Y = -10 - 90/(x - 10)
つまり Y=-90/xの双曲線を(10,-10)に平行移動したものとなる。
漸近線はy = -10、x = 10 。

問3

yahoo知恵袋の文章では、50代なら50歳から59歳まで頻度は一定で、60歳になったとたんに、間隔がぽんと跳ね上がる。そして69歳までまた一定になる。
実際はそんなことはなく、連続的に変化する。
Yahooで示された年代別の値は、中央の年齢(50代なら55歳)における値として、現実的な式に変えよ。

解答

yahooの目安を中央の年齢にするには、双曲線を5歳分、右に平行移動すればよい。
5歳はXでは0.5に相当するので
   Y = -10 - 90/(X - 10.5) 
     =  (10X-15)/(10.5-x)
となる。
エクセルに入れれば

年齢  X  Y(日)
30  3.0 2.00 
35  3.5 2.86 
40  4.0 3.85 
49  4.9 6.07 
50  5.0 6.36 
51  5.1 6.67 
52  5.2 6.98 
53  5.3 7.31 
54  5.4 7.65 
55  5.5 8.00 
60  6.0 10.00 
70  7.0 15.71 

と、なんとなく正しい、現実的な公式ができた。

問4 
一般式にしたことのメリットは、年齢が連続した他に、何があるか?

解答
Yahooの式では10代が計算できないが、一般式にすれば16歳以上に適応できる。
しかし計算すると値が現実的でない。
19歳でY=0.47。つまり1日2回。

また、Yahooの90代の数字は、1年1年劇的に変わるはずなのに1種類しかないが、一般式にすれば、 90歳でY=50日、96歳でY=90日、99歳はY=140日となる。 
これでは、その一回が最後となっても仕方がない。

数学はあまり難しいものをやっても大学入試が終わったらほとんどの人は使わなくなる。この程度の初等数学を自由に使える人材のほうが(こういう高校教育をしたほうが)将来の仕事に役立つのではないか?

2017年9月24日日曜日

枝豆の二期作、結果

二期作、二期目の大豆が元気ない。

4月末に蒔いて
7月18日のヒョウの時に散らばっていた豆を拾って
7月20日蒔いたものである。

このところほとんど成長せず、
ひょろひょろして立っていない。
茎が細い。
鞘が小さく、また少ない。

テントウムシくらいの大きさの虫が固まってたかっている。

こちらはアブラムシだろうか。
でもアリはいないし、葉っぱも丸まっていない。

日当たりが悪いせいか、8月の記録的長雨のせいか、とにかくほとんど成長しないのですべて抜いた。
根粒が少ない。
根粒が少ないと、菌による窒素同化が不十分なため豆が育たないと教科書にはありそうだが、豆本体の株が日照不足などで育たないと根粒も育たないということはないだろうか。

とにかく収穫はこれだけ。
一回分である。
これでは農家だったら一家飢え死んでしまう。

今回の収穫は、春に蒔いて豆がなったら、すぐ(冬を越さず)その豆をまいても、秋にもう一度取れるということが分かったことだ。

豆を最初から二分しておいて、2回蒔けばいいだけの話だから、実用的にはあまり意味のない話だが。

アゲハの幼虫と鳥の糞

この春初めて植えた夏みかんの葉に鳥の糞、と思ったら何かの幼虫だった。
調べたらモンキアゲハ、クロアゲハ、ナミアゲハだか分からぬが、アゲハチョウの若齢幼虫は、みな鳥の糞に擬態しているらしい。
我々が知っている黄緑色の巨大なものは、もう少し成長した姿だという。
確かにあんなに大きいと鳥の糞では擬態にならないかもね。
 いかにも上から落ちてきたように、葉の表に張り付いて動かない。

こちらはもう少し大きいがまだ鳥の糞。

温州ミカンにもついている。

50年前、子どものころ、信州では(ミカンなどない)、ニンジンとセリに巨大なアゲハの幼虫がいた。セリとニンジンは似ており、子供心に、虫は食べる植物を決めているのだと、畑で学んだ(私は専業農家の長男として育った)。また、その時は鳥の糞のような幼虫は見なかった(まんまと擬態に騙されたということか)。

子どものころの経験に絶大な信頼を置いているので、60才過ぎても、柑橘類と鳥の糞からアゲハの幼虫とは思わなかった。

それにしても黒っぽい鶯色に白い模様は見事に糞そっくりである。
ちなみに哺乳類は窒素代謝ででるアンモニアを尿素の形で排出するが、鳥や爬虫類など卵で生まれるものは最終産物が尿素だと、水溶性だから浸透圧が高くなってしまったりして具合がよくない。そこでアンモニアは尿酸にする。尿酸は溶けないから白くなる。だから鳥の糞の白い部分は我々の尿の部分である。これは学校で習った。

さて、このままアゲハの幼虫らしい姿に変わるまで成長させてもいいのだが、葉っぱはどんどん食われるし、飼育する余裕もないので、殺すことにした。
割り箸でつかむと橙色の角を出す。
容器に移し、試しに青虫などに効くマラソンを噴霧してみたが、全く効かない。
結局水死させた。
スミレの葉を丸坊主にしたツマグロヒョウモンの幼虫も一緒に殺処分した。
ツマグロヒョウモンは容器の壁を這いあがてきたが、アゲハの幼虫はジタバタせず、すぐに沈んでしまった。

念のため今調べたらセリもニンジンもセリ科だった。
アゲハは芳香のする葉が好きらしい。



千駄木菜園 (庭・植物のみ)目次 (庭と野菜つくり)

千駄木菜園 (総合)目次 (お出かけなど)