2018年4月15日日曜日

製薬会社 売上ランキング2018 武田とシャイアー

今年も2017年の売り上げが出そろったのでまとめておく。
国内は3月決算だが、海外に合わせて2017年1-12月の数字。

自分で各社の決算を集計してもいいのだが面倒だし、為替レートをいくつにするか(ドル、ポンド)でも売上は違ってしまう。
ある程度権威ある数字の方がいいと思い、国際医薬品情報の数字を借り、過去の数字も併せて表にしてみた。

1位から3位は変わらない。
6位だったJonson&Jonsonが4位になって上位のメルク、サノフィが1つずつ落ち、7位のギリアドが9位に落ちて、下位のGSK、アッヴィが1つずつ上がった。

ギリアドは1987年創業、99年のタミフル承認など、抗ウィルス薬でヒットを飛ばした。とくにC型肝炎治療薬ソバルディ、ハーボニーで、ビッグファーマの中にすい星のように現れ、2013年から19位、9位、6位と躍進してきたが、2016年7位、2017は9位である。
病気が完治し患者が少なくなってしまうからか。

注目すべきは27,24、19位と躍進してきたアイルランドのシャイアーである。
医療機器でも有名なバクスター社から血液製剤関連事業がスピンアウトしてできたバクスアルタを2016年6月に買収、その半年分の寄与で27から24位に、2017年は年間フルに寄与したため19位となった。

ここは希少疾患の薬を持っていて、今武田が買収しようとしている。
つい2年前まではゆうに倍以上の開きがあったが、2017年はほとんど差がなくなったことがわかる。それどころか勢いが違う。時価総額も武田は3.9兆円だが(先週金曜終値)シャイアーは5兆円という。
武田はかつて潤沢にあった現金もミレニアム、ナイコメッド、アリアドと買収につかい、いまや有利子負債が1.2兆円という。買収などできるのであろうか。
先月末にうわさが出てから、さらに財務を悪化させるとして、武田の株価は下落している。

三井住友など主力銀行に買収用借金の相談をしたというが、公式アナウンスはない。
買収するならシャイアーが上場しているロンドン証券取引所に今月25日までに届けなくてはならないらしいから、じきに明らかになるだろう。

ここまではどこも書いていることだが、私はもっと嫌なことを予想(心配)している。

武田はなくなるのではないか?
既に巨額の負債を抱える武田が、時価総額で自分より大きくなったシャイアーを買収するなど無茶だとして、銀行は貸さないかもしれない。また先方が簡単には買収を承諾せず、値を吊り上げるかもしれない。ここまでは考えられる。
普通はここであきらめる。
しかし、武田のCEOはGSK出身のクリストファー・ウェバーである。
二社が一緒になれば売上で3兆円。アストラゼネカ、ブリストルマイヤーズ、リリーはもちろん、アッヴィ、GSKなども抜いて7位に躍り出る。
ウェバーは、GSKより大きくなったメガファーマのCEOになりたいだろう。
しかし買収資金がないとするとどうするか? 
かれはシャイアーに対等合併を提案するのではないか?

Takeda-Shireとなった新会社は欧米企業のように、税金の安いアイルランドに本社をおく。日本の会社でなくなった数年後に業績が好調ならファイザーあたりが買収して、武田は影も形もなくなるだろう。

かつて国内製薬メーカーの再編で規模拡大をすすめた厚労省も、日本の企業を大きくしたかったのであり、国内筆頭メーカーが消滅するなど考えても見なかっただろう。

CEOウェバーの周りも彼が連れてきた外国人が固め、日本のために、などと考える人はいない。
彼らが何をするかもう我々には分からない。
大きな湘南研究所を作ってやっと引越ししたと思ったら、研究所を切り捨てた。新薬は他社から導入するか、会社ごと買ってしまえばいい、というのはメガファーマの得意とするところで、自分のところに研究所がある必要はない。

彼を呼んできた長谷川閑史氏の責任は重い。
私は日本が好きだから、田辺製薬にいたときから日本の横綱、武田を応援してきたが、数年前から嫌になった。

アステラスはほぼ横ばいだが5ランク落ちた。この辺りは差がない。
アステラスとエーザイ、第一三共が合併すれば(仮名:日の出製薬)、2.5兆円近く。アムジェン、アストラゼネカ、BMS、リリーを越え、10位以内がみえる。
武田も大日本住友、塩野義と合併すれば(大阪製薬)同じような規模となり、ブロックバスター一つで簡単にベストテンに入る。

ふつうの製造業では中韓はじめ新興国に勝てないから、国策として、2社をメガファーマにしてもらいたい。

2017 2016 2015 2017 2016 2015
1 1 1   ファイザー 米 48,977 48,259 44,950
2 2 3 ノバルティ 瑞 43,085 42,706 39,602
3 3 4 ロシュ 瑞 41,880 39,689 38,824
4 6 7 J &J 米 36,256 33,464 31,430
5 4 5   メルク 米 35,390 35,151 34,782
6 5 2 サノフィ 仏 34,122 33,753 41,265
7 8 8 GSK 英 28,898 28,793 27,251
8 9 10 アッヴィ 米 28,216 25,638 22,859
9 7 6 ギリアド・S米 26,107 30,390 32,639
10 11 11 アムジェン 米 22,849 22,991 21,662
11 10 9   Astr・Z 英 22,465 23,002 23,641
12 13 14 BMS 米 20,776 19,427 16,560
13 12 12 テバ製薬 以 20,171 22,664 17,884
14 15 13 E・リリー 米 19,785 18,064 16,788
15 14 16   バイエル 独 19,020 18,177 15,257
16 16 15 ノボ・ノル 丁 16,978 16,655 16,081
17 18 19 アラガン愛 15,941 12,885 11,321
18 17 17   武田  日 15,022 14,450 14,456
19 24 27 シャイアー 愛 14,898 10,886 6,100
20 20 18 ベリンガ・I 独 13,589 11,877 13,424
21 21 23   セルジーン 米 12,973 11,185 9,256
22 22 21 バイオジェン 米 12,274 11,133 10,764
23 23 22 マイラン  オ 11,760 10,967 9,363
24 19 20   アステラス 日 11,600 12,102 11,235
25 25 25   第一三共 日 7,941 8,261 7,706
26 28 28 CSLベー 豪 7,062 6,651 5,733
27 27 24   大塚  日 6,911 6,943 8,027
28 26 26 メルク 独 6,873 7,588 7,697
29 29 29   エーザイ 日 4,984 4,634 4,343
30 30 30   セルヴィエ 仏 4,688 4,329 4,329

単位は百万ドル。億円とみていい。
ファイザーの売り上げは5兆円近く。武田は1兆5000億円。


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2018年4月9日月曜日

忘れられない人(2) K島郁夫

録風機の発明者

先日金沢に行って「忘れられない人(1)」を書いたことで、また別の男を思い出した。

1969年、私は平野小学校を出て中野平中学に入学した。3クラスあって1年2組。
ちょうど半分は平野小学校、半分は隣の高丘小学校から来た。
K島は高丘小学校の出身で、初めて会った。

名簿はアイウエオ順で浅沼、安部、蟻川、勝山、K島、小林克、小林力の順だった。
席はこの7人が窓側で、たてに一列に並んでいた。右隣は女の列。私は一番後ろの教室の隅、ごみ箱の前だった。3年間のうちに席替えしても定期試験などはこの順だったせいか、いまでも彼の後姿と振り向いた顔が思い浮かぶ。

まじめで、正直で、数学ができた。
顔は鼻が大きく、笑うと前歯が2本目立ち、色が黒くて、手足が何となく短く(動作のせい?)、それらが天然のひょうきんさにぴったり合って誰からも愛されていた。(こう書くと不細工な男に思えるが、決してそうではない)

家は反対方向だったが、いつのころか、一緒に帰ろうと誘われた。
学校の前の、だれも使わない(すなわち誰も来ない)歩道橋の上で車を見下ろしながら、「どうもチハルはツトムのことを好きな気がする」という。
チハルというのは、K島が好きな女だと誰かがいい、はやし立てるたびに彼が赤くなって否定した女生徒だ。なんだ本当だったのか。
チハルは私にいつも笑顔で話しかけてきて、こちらもかわいいと思っていたけど、私との間には何もなかった。

その後、中間、期末試験のたびに
「ツトム、数学何点だった?」と歩道橋の上で聞かれた。
彼は92点とって喜んで聞いたのに、私が96点だというと、
「さすがだな」とがっかりした。
皆、農家の子供で、誰も勉強しないから問題も簡単。試験直前、休み時間に廊下に座り教科書を見るくらいだった。
将来の進路など何も考えず、ただ毎日学校を楽しんでいた。
喫茶店などもちろんなく、二人を含む数人は、秋になるとプールの横の、水が抜けたコンクリートの消毒槽の中に座り、暗くなるまで話したりした。

そういえば、技術家庭科も二人はライバルだった。
製図もきれいだったし、木工で作った本立て、金属加工で作った塵取りなどは、お互い教科書を逸脱した独創的デザイン、仕事の丁寧さで競い、クラスの手本だった。

しかし趣味は正反対。
私は盆栽、サボテン、錦鯉の飼育など生き物に向かったのに対し、彼はラジオ製作、アマチュア無線に夢中になった。彼の部屋は農家の物置の二階だったから皆が集まりやすく、コタツの横には石鹸箱をケースにした試作ラジオと電気関係の雑誌が散らかっていた。

中学を卒業するに当たり、私は十代目となる農家の長男なので須坂園芸高校に行こうとした。すると担任が「勉強ができるからもったいない、長野高校へ行ったほうがいい」と親に話し、成り行きで進学した。

一方彼は、好きな電気工作が毎日毎日学べるということで、予定通り長野工業高校に進学した。長野工業でも、優秀だが少し抜けている彼は人気者だったようだ。
しかし彼は高校を終えるにあたり、大学進学したくなった。国立で(当時学費は月3000円、年間3万6千円)、家から通える信州大学を狙った。しかし大学など誰もいかない工業高校から、急に思い立って受かるほど世の中甘くない。それでも1年、宅浪して見事合格した。
(そういえば高3の秋か冬、中野実高にいった勝山隆夫に中野の金井書店で偶然会った。大学に行きたいと受験参考書を探しに来たという。しかし初めて見るその種類の多さに圧倒され、彼は進学を断念した。のどかな同級生たちだった)

実は中学卒業後、K島のことは友人から聞いても、お互い連絡取ることはなかった。
何がきっかけだったか忘れたが、40代のいつか、東京・調布で(一時的に?)仕事をしている話を聞き、同じ大俣出身、熊谷在住の浅沼を呼んで中間地点、赤羽で飲んだ。

そこで我々の中学高校時代のアイドル、アグネスチャンの話になる。
K島は「おれ、握手したことあるぞ」という。
何かの発明コンテストに応募したら、特賞になった。
そのときのゲスト審査員がアグネスチャンだった。賞金も100万円でた。新聞にも載ったらしい。

その発明こそ録風機だった。
扇風機とラジカセを一緒にしたような機械で、旅行に行ったら風を羽で受ける。その時の回転数を電圧に変え、カセットテープに記録する。録音機ならぬ録風機である。
旅から帰って、ラジカセのスイッチを入れると、磁気テープに記録された電圧変化のパターンが風の強弱に戻り、志賀高原や美ヶ原と同じ風のゆらぎを感じることができる。
原理は簡単だが、誰も思いつかなかったのではないか?

ほとんど役に立たず商品にもならないだろう。
しかし、恋人や家族と登った山、美しい人と言葉を交わしたが名前も聞かずに別れた高原・・・・風があれば、甘い記憶の思い出し方も変わるかもしれない。
もっとも、武骨な機械をもってデートするのも変だから、墓参りや一人旅だな。

録風機。
彼らしいな、と思った。
優しくて、夢がある。
素朴で、使った技術も発想も、中学生の時のままだ。

彼は特賞の装置を自慢することもなく、ただアグネスの手の感触を熱く語って、話題はうつった。

私は、田舎の中学を卒業して、有名大学から大企業へ入った。世間から見ると成功したと思われている。
しかし私には彼のようなセンスと(天然の)ユーモアがない。
やはりかなわないな、と思う。
彼は自分の才能にずっと気づかずに来たのではないか。

その後、互いに連絡とっていない。
今、何をしているか検索したら
長野県創業支援センターの2016年度支援の研究開発テーマに選ばれていた。

有限会社マイクロキット 倉島郁夫
「自走式インクジェットプリンタの開発」

紙の上を動くマウスみたいなプリンター?
世間では既に作られているらしい。しかし彼なら突拍子もない、ロマンとユーモアあふれた新しい使い方を考えているのではないか?
還暦過ぎても頭は柔軟、相変わらず元気でやっているようだ。

蛇行する千曲川と山に挟まれた中野市大俣地区は、中学の通学区域の中で唯一自転車通学が許されたほど遠かった(4キロ離れた立ヶ花や牛出地区は徒歩だった)。大雨で千曲の旧河床が水没したときは、自転車を押して七瀬から山越えする道しかなく、田舎の我々の中でも田舎とされた。

妹がいたけど長男だったから、実家にいるのかな。
今は車があるから、長野への通勤も問題ない。
大俣が生んだ天才は、私のことなど忘れて幸せに暮らしているだろう。

関連ブログ
2018-04-08 忘れられない人(1)O田切健自さん


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2018年4月8日日曜日

忘れられない人(1)  O田切健自さん

今回、34年ぶりに薬学会で金沢に来て、ある人物を思い出した。

1985年、私は28歳。
学会は、まだ城内にあった金沢大学の教室で行われた。
プログラムで小田切健自という名前を確認、発表を聞きに行った。

彼は、私の母方の祖母の実家の親戚で、以前、私の妹の結婚相手にどうだ、という話があった。双方にまだその気がなかったのか、結局見合いまで行かなかったが、名前だけ聞いていた。
私より少し年上で、北大薬学部を出て、製薬会社に就職したのだが、中野にある北信総合病院の薬剤部に転職したという。当時、北大と言えば旧帝国大学というより国立一期校として、われわれ受験高校生のあこがれの的だった。奥信濃の田舎からそこに入れる人はめったにいない。

どんな人なのか、顔を見たくて発表会場に行った。
彼は、エノキダケの抗がん作用という自分の発表が終わると部屋を出ていった。話をしたかったので私も慌てて廊下に出ると、隣の空いている教室に他の人と入っていく。どうも食品ががんに効くという一般受けする話題なのでメディアの取材だったようだ。私は少し離れたところでずっと聞いていた。

当時は、今はやりの抗体医薬やキナーゼ阻害の分子標的薬も、概念すらなかった。
第一、はじめての発がん遺伝子rasが1984年に見つかったばかり。医薬への応用などまだ誰も考えなかった。
抗がん剤というのはアルキル化剤のような細胞毒しか考えられなかった時代である。
がん細胞は死ぬが個体も死んでしまうという代物だった。

彼は副作用のない抗がん剤をめざし、革命を起こそうとしていた。
それはがんの予防薬である。
予防薬といっても普通の医薬品では、病気になってもいない健康な時に飲むわけにいかない。しかしありふれた食品ならどうか? エノキダケなら安いし毎日食べらえる。

インタビューが終わったので近づいて自己紹介した。遠く離れた金沢の地で、同じ信州中野出身、しかも互いに柳沢の家の親戚ということで、喜んでくださった。妹のことは話題に出さなかった。
ぜひ、中野に帰省した時は来てくれ、と言われ別れた。

2週間後の4月13日、ちょうど祖母の一周忌で帰省したので約束通り北信病院に行った。
彼は午前中は病院内の薬局で皆と同じように働き、午後と夜を研究にあてていた。この病院は560床(H24厚労省)の拠点病院で、JA長野県厚生連つまり農協が運営している。エノキダケの消費につながるということで、彼の研究を特別に許していたのかもしれない。それにしても上層部を説得したのは大したものだ。

しかし創薬研究というのは金がかかる。とくに抗がん剤の研究はマウスを大量に使うから、半端でない。個人でやるのは不可能である。

彼の実験室はプレハブ小屋の一室だった。
エバポレーターがあり、ここでエノキダケの抽出、濃縮液を作っていた。
驚いたのは、私を病院の裏に連れて行ったときだ。

得意顔で見せたのは、木の下にあった汚いレントゲン車だった。長年農村部を回って廃車となった検診車だ。入ると内壁に断熱目的で発泡スチロールが吹きつけてある。棚を設け、マウスのケージがびっしり並んでいた。

本来は安定した薬剤師だから、わざわざ苦労して研究する必要はない。
人間的な摩擦もあるだろう。
しかも施設も資金もなく、指導してくれる人も仲間もいない。ひとたび始めたら休日もなく、人並みの遊びもできない。それなのに、こんな田舎で動物舎と実験室を自らの工夫で用意し、一人で研究し、データを出している。
こんな人が日本にいるだろうか? 
研究というものは、大学や大企業の研究所で行うーーー常識である。
尋常でない彼の志の高さとエネルギーにただただ驚き、感心した。

私は4月末から中国の自由旅行に行く予定だった。団体旅行しか許されない時代だったが、香港で華僑用のビザをとれば北京、上海など20都市だけ個人で動けるようになったばかりだった。とはいえ、かなり危ない旅行で、キノコの抗がん作用の講演で何回か中国に招待されていた小田切さんは、緊急時のために要人の連絡先を書いてくれた。

夏には中国旅行の報告をかねて中野で一番の中華料理屋、三好屋で食事した。妻も入れて3人分の食事代を彼は全て払ってくださった。

エノキダケの医薬品化は簡単でない。
その後、もう北信病院で研究することに限界を感じたのか、須坂の長野県農村工業研究所にうつられた。1987年8月、さっそく妻と1歳になる長女を抱いて訪ねると、彼は結婚されていた。彼女は妻と同じ大学の出身で、新婚夫婦仲良く実験していらした。
ここも農協が出資する社団法人で、作ったばかりというエノキダケ煎餅の試作品をいただいた。

いつの間にか音信途絶えて30年。

金沢の薬学会にいったことで何十年ぶりかで思い出した。
彼は、今何しているだろう、とグーグル検索した。すると、

第15回歴史浪漫文学賞 創作部門優秀賞
『高梨大乱ー上杉家を狂わせた親子の物語』小田切健自 

というのがヒットした。
健自という名前も珍しいし、タイトルに高梨とあるから間違いない。
高梨氏というのは平安末期から続く北信濃の名族で、最盛期の本拠地は、われわれの故郷、中野だった。戦国時代、武田の侵攻を受け、越後上杉についた。その後は中野を去り、会津、米沢へ転封した上杉氏に従った。土塁に囲まれた館跡は今も中野にある。ただし、それ以上高梨氏のことは、私を含め中野市民でさえ知らない。

郁朋社という小出版社だが、応募104作品から選ばれたのだから大したものだ。

もう60代半ば。
しかし、やはり普通の人ではなかった。
もう一度会いたいものだ。


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2018年4月5日木曜日

富山城と市立図書館、反魂丹

金沢の薬学会では何十年ぶりかで発表した。
最終日の午後で聴衆少なく、私も終わると皆と同じように帰路についた。
しかしまだ明るい。
富山で途中下車することにした。
どうせ早く帰ってもテレビを見て寝るだけ。
2時間帰宅を遅らせれば2時間見物できる。
もう二度と来ることもないだろうから。
富山駅の中にも入り込んでいる路面電車。
セントラム、ライトレールというハイカラな名前にふさわしい現代的な車両のほかに懐かしい形のものも走っている。
こういうものが残っている都市というのは民度が高い気がする。

レンタル自転車は30分以内に所定の各所に返せば無料だが、登録が必要。
二棟をつなげる三角の屋根。富山市役所。

おしゃれな市役所内部。
中央の三角屋根の下は吹き抜けで、三角の中庭のようになっている。
展望台に上がると、東に立山連峰。

西南の真下は富山城址(中央)。右は県民会館と県庁。
遠くに光るのは神通川。



南の堀に立つ看板地図。
これを見れば、いま富山市役所の南を流れている松川(桜はまだだった)は、かつての左から右へ蛇行して流れる神通川の川床で、城北の外堀であったことが分かる。

今調べたら、水害対策のために神通川の川道をまっすぐに変えたのは、1901年(明34)以降らしい。
最初は分流路を西側に作ったのだが、だんだん本流(今の松川)に流れなくなったので埋め立て、県庁や町ができたようだ。
県庁、市役所と城址の間に標高差はほとんどないから、城は大河に浮かぶような景色であっただろう。
唯一残る本丸南の堀。
模擬天守は郷土博物館



前田正甫(まさとし、1649-1706)
初代の利次ではなく、彼が銅像になっている。
江戸城腹痛事件で反魂丹をすすめ、これがきっかけで全国に評判が広まり、薬王国富山が生まれたという話は以前、薬学昔々(→クリック)で書いた。

ちなみに、
利家1ー✛利長2
    ✛利常3ーー✛光高(利高)4--綱記(綱利)5
          ✛利次(富山藩初代)--正甫
          ✛利治(大聖寺藩初代)
である。
富山藩江戸上屋敷は、前田本家のとなり、本郷の東大病院のあたりである。


美しい庭園には柵がなく、池に突き出た岬の芝生にカップルが座っている。
佐藤美術館は模擬天守より城っぽい。

復元した城門かと思ったら、城址公園の地下に作った駐車場の入り口。

富山市は道が広い。
大空襲にあったからか。
富山市立図書館にびっくり。
この木の使い方は、やはり隈研吾だった。
エスカレーターもデパートのようにフロア内のある場所に行儀よくコンパクトに収まっているのではない。建物に対して斜めの方向にあり、一階上がるごとに、天然木の床を歩いて、また違う斜めの方向に上がるエレベーターに乗る。
富山市はいいものを作った。
北陸というのは保守的、家が広い、とくに富山は教育熱心と聞くが、その通りだと思う。それにおしゃれ、ということを付け加える。

富山で途中下車した目的の一つ。越中反魂丹の店を見ること。
池田屋安兵衛老舗
中に展示物があり、店の人もいらしたが、閉店時間も過ぎていたので見学断念。
もっとも、漢方薬は買う気がないので、見学だけでは入りにくい。


車のスモールランプも付き、薄暗くなってきた。
富山市売薬資料館、廣貫堂、金岡邸、なども見たかったが、もともと時間はなかった。

なお金岡邸というのは、江戸時代から300年の歴史を持つ薬種商で、豪壮な母屋などは国の登録文化財、資料館となっている。
日本薬学会会頭であられた北大名誉教授、金岡祐一先生のご実家である。かつて私もイオンチャネルを研究していたので、生物物理の対象であったNaイオンチャネルを有機化学の面からアプローチされた合成化学者の大先生として、深く記憶している。

2018年4月4日水曜日

ウルイと奥信濃の常慶院

今年も庭にウルイ(オオバギボウシ)が出てきた。
茹でて食べると苦くて美味しい。
2018-04-04
信州で子どものころから見てきた草だが、実は、食べられるとはつい最近まで知らなかった。
食べるきっかけになったのは、3年前、信越国境の豪雪で有名な栄村に行ったこと。
2015-05-05
弟の車で、飯山、野沢を越え、千曲川に沿って下水内郡栄村まで行った。

5月は二人でよく奥信濃の山をドライブする。
車窓から中野よりもだいぶ遅いコゴミの群落を見ながら、さらに奥に行くと突然人家があったりする。日陰には雪が残るも、菜の花が咲き、田仕事が始まっている。道中何キロも走ってきて商店も何もなかった過疎の中でも、こいのぼりが高く上がっているとなぜか、嬉しい気持ちになる。

この年の目的地は曹洞宗金華山常慶院。
栄村箕作にある古刹。NHKテレビ大晦日「ゆく年くる年」に何回も登場しているらしい。
この写真だけ栄村HPから拝借

2015-05-05
山門の細工もみごと。
こんな雪深い、家も少ない田舎になぜかくも立派な寺があるのか?

野沢温泉村の奥の市川地区という地名に残る市川氏が鎌倉時代に開いたという。市川氏は越後の上杉氏に従い会津に移り、いまは地元の信者たちが守っている。
昔は平野よりも斜面の方が稲作が容易だったし、この辺りは米どころ南魚沼郡と隣接していて同じ気候である。さらにかつては千曲の水運も盛んだった。今よりずっと豊かな土地だったのかもしれない。


本堂も大きい。5月というのに、雪が残っていた。

中野に帰る途中、飯山で弟の義父(妻の父親)の実家に寄った。
過疎地の中の過疎地である。
彼らは若いころ豊野に出てしまい、残った彼らの親たちが亡くなった後は無人になっている。
積もった雪の横からの圧力で窓ガラスが割れないように、横に板を渡してあるが、その板も冬を越すたび朽ちていく。
2015-05-05

土蔵の土台は立派な石垣。
こんな山のほうで、どうやって石を運び、積んだのだろう?
ここらの家はみな、石垣で囲まれた湧き水の池が周囲にある。
魚を飼うのでなく、もちろん堀でもない。
冬の間、屋根から降ろした雪を溶かすためである。

さて、ウルイである。
その義妹の父の親戚の家も近くにあるのだが、弟は結婚式の時に挨拶しただけで、名前が思い出せなかった。それでも西大滝のエノキの家と覚えていて、人に聞くと分かった。

その人は横浜に住んでいたのだが、定年退職して実家に戻ったようだ。
奥さん含め家族は横浜から動かないらしい。
読書と畑仕事で暮らしている。

2015-05-05
その彼が「何もあげるものがないなぁ。ウルイでも持っていくかい?」
と石垣の上に自生していた緑の葉っぱを鎌で取ってくれた。

これは岩船あたりでもゲーロッパ(蛙の葉っぱという意味)といってよく生えている。
食べられるとは私も弟も初めて知った。
茹でると苦く適度にぬめりもあって旨い。

千駄木に戻ると、ほぼ同じものが庭にも生えていた。
有毒のバイケイソウと似ているから慎重に観察。
http://www.tokyo-eiken.go.jp/assets/plant/oobagibousi.htm
夏の花も確認して、95%オオバギボウシだろうと、翌年の春、恐る恐る食べた。
大丈夫だった。

2018-04-04
ウルイは野草だから病害虫に強く、しかも日陰でも育つ。
冬の間に株分けしたから、あちこちに生えている。
しかし白菜・野沢菜・大根と、春先は野菜が一杯とれるから、食べたのは2016年だけである。
今年はどうしようかな。



2018年4月1日日曜日

桜満開の下、コゴミとドジョウ鍋の記憶

幹の太さに比べて枝の少なさ!
6年間剪定の努力である。
2018-03-29
桜の下、コゴミが出ている。
いつの間にか葉が開いてしまい食べる時期を逸した。
2018-04-01

しかし、日陰のほうの芽は遅い。
周りの白いものは桜の花びら

コゴミはワラビほど太くはないからぬめりが少ない。しかし調理にあく抜きの必要がなく、クセがなくて好きである。

初めて食べたのはいつだろう?
ワラビよりも遅い。

信州中野では、コゴミはそれほど人気がなく、皆が山へ取りに行ったのは、ワラビ、ウド、タケノコ(根曲がり竹)であろうか。
一面草原となるスキー場に生えるワラビ。
雪の残る急斜面を滑り転びながらとるウド。
鯖缶と煮ると旨いが、大量にとってくると皮むきが大変なネマガリダケ。
忙しい野良仕事の合間に山へ行くのは娯楽だった。

コゴミは屈みというように、曲がって出てきた芽しか可食部がなく、また時期も短いから、ワラビが取れるところではあまり食べない。

コゴミに関して最も古い記憶は、我が家の台所がまだ土間で、かまどで煮炊きしていたころだから、私が小学校低学年であろうか。
東京から叔父叔母が来て、結婚したばかりの一番年少の叔母(父の末妹)の相手の実家へこぞって遊びに行った。
山ノ内町須賀川という、今は北志賀竜王スキー場近くの、冬は雪深い集落である。

田んぼのすぐそばまで山が迫っていて、その杉林の谷にコゴミが群生していた。食べられると聞いて皆でとった。
村の子供が蛇を捕まえて焼いていた。蛇を食べたのはこの時が初めて。黒く焦げていて固かった。

田んぼにはドジョウがいて、大きなものが簡単にとれた。
岩船に帰ってきて、コゴミは茹でたが、ドジョウの処理に困った。皆、後のことを考えずに面白がって取ったから大量にあった。

ある叔父が知ったかぶりに、豆腐と一緒に水から煮ると、熱くてドジョウが豆腐の中に潜り込み、ドジョウ入り豆腐の煮物ができる、といった。そこで母だか祖母だか調理したのだが、迷惑に思ったのではないか?
本来は白魚のような小さなものを少量入れるのだろう。ところが巨大なドジョウが大量に入ったものだから、中で暴れて、豆腐はバラバラになり、丸ごとの大型ドジョウの死体が浮かぶ(沈む)グロテスクな鍋料理ができた。出汁をとった大きな煮干しのように、味がなく骨っぽいだけで、誰も食べなかった。もったいないので豆腐だけ少し食べて捨てたのではなかったか。

このとき、茹でられたコゴミは鮮やかな緑の上に鰹節をかけられ、大皿に盛られていた。
こちらは旨い旨いと、きれいになくなった。

これ以降、5月の連休など山に行くと(車で通過すると)コゴミが目に入るようになる。


いつからか実家では、山にしかなかったウド、コゴミを畑に植えるようになった。
父が老いて、弟はサラリーマン、田畑が遊ぶようになり、雑草対策に何かを植えなくてはならなくなったからだ。
山菜は病害虫にめっぽう強く、何十年も放っておかれている。
たまに行った私が摘んでくるくらい。
全く収穫しなくても、秋になると枯れ、春に芽を出す。

千駄木に越してから、昔を思い出すためにコゴミとフキの苗をもらってきた。
フキも順調に増えている。
こちらも長野と同じように、収穫もせず、毎年枯れて毎年芽が出てくる。


イチジクと柿も芽を出した。
イチジクには何も思い出がない。しかし初めてというのもまた楽しい。