薬学雑誌1905年度(明治38年)4月号
第88話で緒方惟孝のことを書いたが、彼の娘たちと結婚し緒方の養子になった大國六治、山本鷺雄はそれぞれ緒方病院の歯科長、内科医長となった。
緒方惟準、惟孝兄弟、六治、鷺雄をはじめ優れた医師たち、多数の緒方一族が集結した緒方病院はどこにあったのだろう?
2013年6月14日、講演で大阪に行く機会があった。
ちょうどファルマシア「薬学昔々」に第88話を書いた後だった。
前夜着いて午前中そっくり空いていたので、地下鉄御堂筋線、淀屋橋でおりて、緒方ビルを訪ねた。
緒方ビルは、明治38年緒方正清が開いた緒方婦人科病院の後身、くりにっくおがたの他に、医院が9つ、薬局が一つ入ったクリニックセンターとなっている。4階に除痘館記念資料室がある。すなわちこのビルは洪庵が同志とともに種痘を西日本に広めるときの拠点となった除痘館の跡地に建っている。
緒方正清は旧姓中村、緒方拙斎(洪庵4女の八千代と結婚した吉雄拙斎)の娘、千重と結婚した。正清もはじめ緒方病院に勤めたが、明治35年独立、明治37(38?)年に今橋に来たという。(緒方惟準伝)
いずれにしろ、ここは緒方病院の場所ではなかった。
そのあたりを調べると
明治20年、惟準らが今の今橋4丁目にあった回春病院(山本信仰経営)を買収、改築、緒方病院設立。
明治26年、西区立売堀、南通4丁目に分院設立。
明治30年、今橋の本院廃止、三菱銀行に売却
明治35年、売堀の病院拡張、1200坪。正清氏独立。
昭和4年、諸般の事情から緒方病院閉鎖。
緒方病院とは関係ないが、ビル4階、除痘館記念資料室にはいってみた。
係員も見学者も誰もいなかった。
すぐ近くの適塾も訪ねた。
1942年緒方家から阪大に寄付されている。
なぜ阪大か?
維新の翌年、1869年、浪華仮病院と仮医学校が設立され、院長は緒方惟準、学校のほうの主席教授としてオランダ軍医ボードウィンを招いた。
適塾の塾生も移籍し、これらが改組・改称を経て現在の大阪大学医学部となっているから、緒方家、適塾と阪大医学部はつながるという。
当時の炊事場は、乱雑であっただろう。
二階の部屋をみて福翁自伝を思い出した。
夏はみんな裸でごろごろしていたと書いてあった気がする。
さて。
このあたり、町は南北に短い短冊のようになっていて、今橋のすぐ南は平野町、道修町。
32年間務め、つい3か月前まで在籍していた田辺製薬の道修町本社にいってみた。
私の職業人生は、ここでの入社式と1週間の集合研修で始まった。ずっと埼玉の研究所だったから再訪する機会もほとんどなかった。
それでも懐かしい。記憶に引っかかる景色(ほかの製薬メーカー)を探したが、数十年ぶりの道修町と平野町は新しいビルが増えたせいもあり、夏の日差しが真上から来ると東西南北が分からなくなった。
田辺製薬の本社は工事中で、近くに移転していた。
そちらに行くと、受付ロビーで胡散臭そうに見られた。誰に面会か尋ねられ、親しかったものの名前を出したがいないという。大阪といっても彼らは研究所や企画室などのある加島事業所かもしれない。はっきり本社にいるとわかっている知人は偉い人しか知らず、呼ぶのもはばかれ、そのまま退出した。
受付の対応は正当なものであったが、美人なだけに、汚い老人を見るような、ひどく冷たいものに感じた。
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