米原行き各駅停車。
遠くに採石場の山。
新幹線でよく見ていた山。
あれから切れ目は大きくなったのだろうか。
関ヶ原に近づくにつれ、西に雲。在来線だと民家の近くを通り、瓦葺、板壁の家がいい感じ。
不破郡関ヶ原町はマチではなくチョウと読む。
ここまでは東日本だと思っていたけど、西日本なんだ・・・。
と思って調べたら愛知県もチョウだった。
名古屋のエスカレーターは東日本と同じに右を空けていたが。
関ヶ原駅 寒い!
東西、7人ずつの武将がお出迎え。
駅は小さい。券売機一つ。
左側に座布団つきの椅子が3連4つの12席。
ここでは電車を待つ人のでなく、降りた人が迎えの車を待つのに座る。
駅前に土産物店兼案内所があった。
看板はウォーキングのプラン。
石田三成コースとか、小早川秀秋コースとか。
駅には決戦コース(初心者、3㎞、1時間)と行軍コース(健脚、16㎞、6時間)の2コースの地図があったが、各武将の関係地を結ぶコースも用意されている。
各ロッカーの人気度に差があるだろうか?
客はだれもおらず、店員も暇そうだった。
地図をもらう。
線路わきの看板には、大谷吉継コースなどウォーキングコースの説明パネルが並ぶ。戦国ゲームのパッケージのような武将の絵が気に入らない。
4枚一組の武将ウォーキングコースのパネルが7組も続いたその向こう、遠くに工事現場の遮蔽パネルのようなものが切れ目なしに続いていた。
しかし近づいてびっくり。
両軍布陣から各武将の動きを時系列で並べたパネルだった。
風も寒いし、読む気にならない。
ただの塚でなく、門とお堂がついている。
工事中と思いきや木を切っていた。
トラックにはかなりの丸太が積んである。
聞けば「まだ3本しか切っていない」という。
たしかに木は大きくなると厄介だが、ないと寂しい。
首塚の本体
戦が終わって、床几に座った家康が首実検をしたあと、首は東西二か所に埋めたという。その後、家康の命により当時この地の領主であった竹中重門が、戦死した兵たちをも埋葬した。両軍15万人のうち、何人が埋まっているか。
すこし掘ったら大変なものが出てきそう。
東首塚に松平忠吉、井伊直政の案内板があった。
忠吉は家康の4男。直政の娘婿だった。戦後、清州に52万石を与えられた。秀忠の同母弟であったから生きていたら歴史が変わったかもしれないが28歳で病没。子はなかったから清州藩は弟の義直がつぎ、尾張藩初代となる。
二人の陣はここから200メートル東の駅の構内あたり。
東軍先鋒はもっと西にいた福島正則だったが、関ヶ原の戦いは二人が抜け駆けして西軍に発砲したことで始まったとされる。
正則は外様だが、直政は常に先陣を務めた徳川軍の事実上の総大将、また初陣でもある婿に手柄を立てさせたい気持ちもあっただろう。
このあたり、古戦場に不似合いなほどの立派な道路。
大きな建物は町役場。
いままでパネルで見てきた兜のマークは古戦場の印かと思ったら1971年制定の町章だった。
ここに新しい記念館を作るらしい。
右に役場、左に歴史民俗資料館。
建物、道、すべて新しいから少し前まで一面田んぼだったのだろう。
家康最後の陣あと。
ここで首実検をした。
ここは陣場野公園というが、余計なモニュメントはいらないと思う。
この向こうには大きな平和記念の観音立像、右に1980年建立の御霊神社。
亡くなった兵の鎮魂というが、400年もたってからするのは他の理由のような気がする。第一、隣に観光施設がある。
歴史民俗資料館
南となりに建設中の新施設はかなり大きい。
しかし、さらに必要だろうか?
入場料350円は高くはないが入らず。
外にこれだけ見るものがあるのに、狭い中で何を見るのか?
ふるさと納税をしようと思ったが、こういうものを作るのには使ってほしくないな。
天気が悪いので先を急ぐ。
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