2019年3月11日月曜日

駒込の植木屋と名主高木家

先日3月2日、モミジの根っこを抜こうと掘っているとき、瓦礫がいっぱい出てきた。
(→別ブログ
どうせ昭和のものだろうが、広く掘れば明治、江戸のものが出てきても不思議はない。

我が家は、下の地図中央上の「酒井安芸守」の下、「植木屋多シ」の「シ」のあたりである。

尾張屋版江戸切絵図(国会図書館)

確かに植木屋は多かった。
大名屋敷に出入りして作庭したり、岡むろ、唐むろで鉢物を作って売ったりしていた。
千駄木三丁目二番遺跡や東大追分国際寮発掘現場から、植木屋のむろ、多数の植木鉢の破片が出ている。

3月9日、シンポジウム「駒込の植木屋文化と名主屋敷」というのが本郷通りの駒込地域活動センターで開かれた。
出席者は近所のお年寄りが多いかんじ。
定員70席がほぼ埋まった。

今駒込といえば豊島区の駒込駅周辺を思うが、江戸時代の駒込村は、文京区本駒込はもちろん、もっと南の千駄木も含まれた。千駄木の漱石は本郷区になっていたとはいえ「駒込のいなか」と自称したし、東大農学部まえの高崎屋は駒込東片町(駒込追分町?)だったし、もちろん北のソメイヨシノの染井も駒込村であった。



基調講演で平野恵氏(台東区中央図書館)によれば

千駄木団子坂周辺は
楠田右平治が幕末の1852年、花やしき開園
同年、団子坂の森田六三郎も浅草奥山に花やしき開園。
明治に入って1874、団子坂北側の植木圃場が宅地となるも、浅井梅次郎は隣接地を圃場に確保。

明治中期、菊人形まつりと盆栽業者集積地として外国人含め有名になる。
このことは、鴎外漱石の青年、三四郎などでもわかる。

いっぽう、千駄木より北、駒込神明町あたりも植木屋が多かった。
「安政年代駒込富士神社周辺図」は本郷通り(岩槻街道)の吉祥寺から北をえがいたもの。


ただの地図ではなく、筆者の老父の談話も書いてある。


神明町、富士神社の北だけを拡大すれば、
赤い点が植木屋だから、ほとんどが植木屋ではないかと思うくらい。
絵図は各家の母屋だけでなくむろまで書いてある。

1923年、関東大震災で本郷区の植木屋も被災、その前から宅地化が進んでいたこともあり、
 清水利太郎(団子坂)
 加藤留吉(神明町)
 蔵石篤夫(団子坂)
 鈴木重太郎(神明町)
が話し合って、大宮に移転決定。
https://www.stib.jp/pdf/prpdf24/pr24_005_bonsai.pdf


1925(大正14)
4月 清水利太郎移住 「清大園」開園。
5月 蔵石篤夫移住 「薫風園」開園。
8月 加藤留吉移住 「蔓青園」開園。
ひきつづき,
「内海華園」(内海源之丞)
「好石園」(米津梅次郎)
「古松園」(石田新次郎)
「雲樹園」(有賀仙吉)
が開園し,お宮盆栽村が発足した。

区画整理には彼らのふるさと神明町のとなり、今の本駒込6丁目すなわち三菱が分譲した大和郷を参考にしたという。

面白かった話は、団子坂上に育った森於菟(鴎外長男1890-1967)と大宮盆栽町の関係。彼は40過ぎてから風光明媚で帝大(助教授時代)まで列車で30~40分のところを探し、大宮氷川神社あたりにきたとき、緑の多い盆栽町を気に入った。
1933年、新築し住んでみると、団子坂時代からなじみの植木屋が多く、驚いたとか。
(『解剖台に凭りて』昭和9年)
ちなみに、二人の息子は誠之小学校で、毎朝6時5分発、総武線(いまの野田線)大宮公園駅から本郷まで一緒に通ったようである。冬は大変だったらしい。

参考 「明日を待つ彼」(今郊外にしては遠すぎる大宮の町はづれ・・・)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1280596/75

さて、駒込村に戻る。
駒込村といえば、名主の高木家。
2013-06-02 高木家

東京都史跡・駒込名主屋敷の高木嘉平治家は、江戸の早い時期から高麗芝の育成に成功し、明治期まで高麗芝を生業としていた。高木家は植木屋を辞めたものの、現在も同地に住んでおられる。
この屋敷には何回も行っており、ブログにも書いた(→)

今回は植木屋としての高木家でなく、高木家の歴史についての話もあった。

シンポジウム後半は
1.多児貞子氏(たてもの応援団)
古地図と文書をみていると、今の高木家の場所とは違うところにもう一つ高木家があるという話から始まった。
名主高木家の祖先は、将監といい、元和元年(1615)大阪落城後、豊臣方の残党として
関西から当地に亡命、当時伝通院領であった駒込一帯の開拓を許されて、そのまま土着
したという。
将監に三子あり、その長子が相続して初代嘉平治となり、代々襲名とともに家産を受け
継ぎ、農産の傍ら、上駒込村(現・文京区駒込地区の北半)の名主役を勤めた。

多児氏はもうひとつ高木五平治家があり、こちらが伝通院領、嘉平治家が麟祥院領の百姓を束ねていて、6代五平治(~1832)の長男が本家の嘉平治家に入ったとした。

2.高木嘉久氏(15代目当主)
「駒込地域の変化と名主屋敷の保全」
ずっと、彼は現在も住まわれていることから、一番聞きたかった話である。

しかしこの日、用事があった。
多児氏の話の途中で退出せざるを得ず、高木氏のお顔を拝見できないまま、本郷通りを渡り、東洋文庫に急いだ。


千駄木菜園 総目次

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