2019年3月18日月曜日

関が原4 西軍諸将の陣地あと

笹尾山の石田三成陣跡を出て、田んぼ道を歩くと車道に出た。
近江長浜にいく国道365号だが、車はあまりいない。
かつての北国街道である。

北国街道というと中山道で分岐し善光寺、直江津へ行った道と、近江の米原あたりから琵琶湖沿いを通って長浜、越前へ行った道、2つある。江戸時代は越前の大名が参勤交代するのに、琵琶湖沿いに米原付近に出るよりも直接関が原に入った方が早いため、この北国脇往還が利用された。
その道沿いの、公民館だろうか?
看板の字は消えて読めず。

公民館?の向かいに案内の標柱。
あと二丁というが。

現代の標柱。550メートルか

過疎なのか、壊れたままの民家

かつての街道筋だろうか。
誰もいない。

郵便屋さんのバイクとすれ違う。
目があってあいさつした。
石垣をみれば、もとは宅地だったのではないか?


何もないところよりも、神社のような場所を陣地にした。

良い神社だ。
この裏に陣の石碑がある。

島津義弘陣跡
兵1700
すぐそばで激戦の中じっと動かなかったのは、前日大垣での夜襲提案が容れられず、ふてくされたから、と、さっきの電柱案内板にあったが、本当だろうか。

この日、正午過ぎに大勢決して、東軍に囲まれる中、決死の敵中突破を敢行した。

その苦労を偲ぼうと、鹿児島の青少年が昭和35年から毎年、ここから大阪までの脱出ルートを歩いたという。

目黒区が西郷山公園を作るとき、鹿児島県の20を越える市町村が記念樹木と桜島の溶岩を贈ったという話を思い出した(→千駄木菜園)。

下は13歳から十代が多く、各回とも20代から40代の大人が二人くらい付き添ったようだ。
薩摩の郷中組織の教育が、昭和まで続いていたかのようである。

島津陣地から南方を見る。右が小西行長の陣。

切り株を見ると、少し前までは鬱蒼とした場所だったようだ。

左、島津、右、小西
見渡す限り、車も人もいない。
400年前を偲ぶには箱ものは作ってはいけない。

開戦地
井伊隊が島津、小西を攻撃したとしても、あまりに小西の陣に近すぎないか?

小西行長 兵6000


誰もいないと思ったら、鎌の音が聞こえ、見ると年配の人が農作業していた。


建物も何もない場合、案内標識に過ぎない石柱が名所となる。
それを大切に保護している。
石柱は「明治三十九年八月建之 不破郡關原村」
囲いの4つの柱は、「平成十六年一月建設 関ヶ原町」

前は休耕田。
農民の高齢化で農業は終わり。
道をうんと広げて駐車場にするのは簡単である。
そして町起こしという名前の現金収入を望んでいる。
しかし、この景色こそ最大の財産なのだ。

関ヶ原ウォーランドが西の端の何もないところで良かった。

小西の陣をあとに案内板通り進むと山の中へ。
まるで、落ち武者が逃げるときに脇から竹やりで突かれそうな道。
関ヶ原は今でも再現映画のロケができそうだ。


靴は泥だらけになってきた。

林を抜けると一面、梅が咲いていた。
観光目的とは思えないから、二色あるのは所有者の趣味か。

父ががんになったとき、だんだん農作業できなくなることを想定して、一部の畑に梅を植えたことを思い出した。梅はほとんど手がかからない。結局、放置して一つも収穫しなかったようだが。
梅は天神さんの関係だったか。
天満神社の参道
本当にこの奥に陣跡があるのだろうか。

宇喜多秀家はこの神社に陣を敷いた。
西軍の主力、兵1万7千、勇敢に戦ったとされる。


関ヶ原は人の往来が盛んだったせいか、神社が多く、そのどれもが良い。
商業主義に毒されていない。

都会の神社は周辺ギリギリまでマンション、駐車場が迫り、わずかばかりの境内も七五三だのおみくじだの、案内看板がうるさい。
ここは一切ない。


再び山中に入る。この辺りはだいぶ降ったようだ。

ここでスマホの電池が10%しかないことに気が付く。
これから一番見たい大谷吉継の旧跡に行くのに写真が撮れるだろうか。

道が下り坂になったと思ったら、ダムがあった。
 天下の東海道本線の駅から歩けるところに、渓谷とダムがあるとは思わなかった。
写真を撮ろうと思ったが寒さで手がかじかんでいて、スマホを落としそう。
手すりの手前のなのに、しっかり握っているのに、手から滑り落ちそうで怖かった。

ほんとにこの道でいいのだろうか?
リュックにパソコンを入れてきたからだろうか。肩が痛くなってきた。

舗装道路に出たが、案内標識と地図が違う。
道を聞きたくも誰もいない。
行ったり来たりして、地図の方を信用して再び山中へ。
この紐は何だろう?
倒木防止にはならないし、害獣脅しと言っても山中に作物などないし。

ようやくついた大谷吉継陣跡。
彼はらい病だったという。
捉えられて醜い顔を見られるのは嫌だと、切腹したあと部下の湯浅五助に首を埋めさせた。
だから石田三成、小西行長、安国寺恵瓊などが逃亡して京都で処刑されたのと違い、彼の墓は戦場にある。
墓所

顕彰碑は「大谷刑部少輔吉隆碑」
他の石碑もすべて吉嗣ではなく吉隆であった。

墓から南のほうにいくと陣跡がある。
大谷一族や戸田勝成・平塚為広の諸隊、合わせて5,700人で布陣した。 

陣から少し離れたところから小早川秀秋の松尾山が見えた。
かねてから寝返るかもしれない不穏な動きをしていたため、吉嗣はこの場所に陣を置いて見張っていたという。

午前中は藤堂高虎・京極高知両隊を相手に奮戦したが、正午ころ兵1万5千の小早川軍が寝返る。圧倒的大軍を押し返すほど奮闘したが、小早川の寝返りに備えていた脇坂・朽木・小川・赤座の4隊4200人までも東軍に寝返り、大谷隊は壊滅した。
松尾山の手前に名神を走る車、通過する新幹線が見えた。
その手前に黒血川、国道21号、旧中山道、JR東海道線、
なるほど関ヶ原というのは狭い。

子供のころみた大河ドラマ、何かの会合で酒の回し飲みのとき、吉嗣の膿のかさぶたが盃に落ち、あとの武将が気味悪がって口をつけなかったのに、三成は飲んだ。それで勝ち目のない西軍についたという話だった。

本当だろうか。
今まで書いたことも含め、我々の知識は江戸時代以降に書かれた物語、下手すると昭和の小説によっている。

テレビでらい病の吉嗣が顔を頭巾で覆い、足が悪かったため、兵の担ぐ輿の上で刀を振るっていたのも、映像として出来すぎている。

しかし、歴史というのは、本来一次資料がないものが多く、のちのちの物語で作られるのかもしれない。

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