8月16日、渋谷駅は相変わらず工事中。
いつまで続くのだろう。
そういえば教養で同じクラスだった渡邊功氏が、文芸春秋2019年5月号「同級生交歓」に出ていた。そうそう、岡山県、井原高校だった。ちゃんと覚えている。
かれは理ニから工学部の都市工学に進学したが、それきり会っていない。東急の専務取締役として渋谷駅の再開発にも関わっているようで、東横線ホーム跡地に完成した駅ビル、渋谷ストリームでの写真だった。
寮生だったが43年も経って私のことをおぼえているだろうか。
やっとのことで迷路のような駅から出る。
宮益坂下交差点。
角のりそな銀行(旧協和銀行)は上京して入学手続するとき、納付金を振り込んだ。人生最初に入った銀行だろう。このときすでに寮に入っていたと思う。
最初にこの道を歩いたのは、大学入学して1か月後。
寮に寝ていたら同級生の松元隆がいきなり訪ねてきた。
上京後初めての友人の一人で、都会育ちだった。
神宮に野球を見に行こうという。
渋谷まで歩いたか井の頭線に乗ったか、青山通りを歩いたのは行きだったか帰りだったか往復だったか忘れたが、とにかくこの日、青山通りを歩いた。
宮益坂上で青山通り、国道246号に合流。
子どもの城がフェンスで閉鎖されていた。
厚生省によって1985年11月に開館。2015年閉館。
舛添知事が跡地に都立広尾病院を移設、新築しようとしたが、辞職、小池知事が計画撤回したままになっている。
東隣にみえる階段状の建物は国連大学。こちらのほうが「城」っぽい。
1991年3月、長女長男を連れ4人で葛西臨海公園、山田・ぞうさん一家と待ち合わせ。その夜は二子玉川の山田家の社宅に泊まった。(昭和電工の福利厚生は田辺製薬より良かった。)翌日、山田家と一緒に子どもの城に来ている。ビルの中だから森や土など自然はないが、無数のプラスチックボールの詰まった中を泳いで喜んでいた。
「子どもの城」跡の前は今や箱根で有名な青山学院大学。
高層ビル校舎が、少子化対策、相模原からの都心回帰を物語っている。
最初で最後に来たのは1975年か76年。
学園祭に来た。
もちろんナンパしようと来たのだろうが、たぶん一人で行った気がする。都会的な女子学生に田舎者はどうしていいか分からず、すぐ帰ったのではなかったか。
実測東京全図 明治11年
青学の敷地は松平左京太夫、伊予西条藩3万石
明治後、開拓使1号用地とある。
青学の前身、東京英和学校が開拓使農事試験場第二官園跡地に来たのは1883年。
1885年には渋谷駅が開業したが、市内ではなく南豊島郡中渋谷村。
渋谷町が千駄ヶ谷町、代々幡町とともに東京市に編入され渋谷区になったのは1932年。
両方合わせてAoビル(アオビル)というらしい。
さすがに青山通りはオシャレな建物が多い。
南青山の路地に入ると、二階建ての小さな建物が並ぶが、美容院、ブティック、レストランなどきれいな店が多い。こんな格好で歩く老人は場違い。
ギャラリー、サロンドフルール
この日は堀内M君の絵をみにきた。
学習院関係者のサークルによる「縁展」。
青山通りに戻ると、表参道との角に行列。
紅茶リプトンのフルーツインティー
自撮りが便利なのは、彼らにカメラを向けていると悟られないこと。
ただし構図が決めにくく、しばしば何を撮ったか分からないが。
表参道交差点。
渡った角には有名な山陽道書店
ポルシェの入った新青山東急ビル
そうだ、青山通りを自転車で走ったことがある。
1977年3月末、寮を出て本駒込の木造老朽アパートに移った。
長野の親がライトバンで上京し、布団、本、服を運んでくれた。自転車だけ入らず、後日、一人で運んだ道が青山通りだった。
上が青、下が緑というその後10年くらい使うジャージに身を包み、リックサックを背負い、天気は良かったが、上り下りが多くて難儀した。
青山御所の石垣は覚えている。
何処で曲がったか。
坂道を下って、高速道路が上を走る大交差点(赤坂見附)を通った記憶があるから、三宅坂まで登り、内堀通りを神保町に出て、水道橋をわたり、農学部前か白山上で本郷通りに入ったのではなかろうか。
高校時代から乗っていた自転車で、長野から父が運んでくれたものだったが、不思議と駒場周辺で走った記憶がない。下北沢、渋谷は歩いていた。
若いときは町の探検などに興味がなかった。
しかしその後、谷根千では通学で乗ることになる。
神宮外苑入り口の角。
60年の人生で二、三度しか来なかった青山通りでこの景色だけ記憶にある。
それは夜だったが、なぜここに来たか全く思い出せない。
伊藤忠青山アートスクエアというらしい。
地図を見たら隣が伊藤忠本社ビル。
神宮外苑は信濃町、千駄ヶ谷、絵画館など、北側はよく来る。
しかしこちらの青山方面はさっぱり。
その裏が神宮球場。
そういえば上京一か月後に行った六大学野球、
当時は学内にチアガールのチームがなかった。
この日、焦げ茶色のユニフォーム、実践女子大チアガールの可愛らしい笑顔を見た。
復元江戸情報地図(小学館)
外苑つまり戦前の青山練兵場は、江戸時代に大名屋敷でもあったかと思ったが、ほとんど旗本、御家人の居住地だった。明治維新で彼らがそっくり自主的に立ち退いたのは、現代から考えると驚きである。
ホンダの本社ビル。
ガラスが割れても下に落ちないようにか、階ごとベランダのようなものがある。
青山御所
紀州56万石の御住居屋敷。なお別に上屋敷が紀尾井町にあった。
不思議なのは明治11年の地図で青山御所と書かれていること。
青山は大名の名である。紀州御所、徳川御所と同じではないか。
赤坂御所とかあったろうに。
ああ青山はすでに地名になっていたのか。嘉永6年の江戸切絵図でタイトルが「東都青山絵図」になっている。
青山通りの北(赤坂御所と外苑の間)に丹波篠山6万石、青山宗家の中屋敷、
南の青山霊園のところに郡上八幡4万8千石、青山分家の下屋敷があった。
2019-02-11 渋谷駅1 東横線のホーム、ヒカリエ、埼京線
0 件のコメント:
コメントを投稿