2017年4月16日日曜日

第107 上野の山と明治の薬学会

千駄木菜園 総目次


薬学雑誌1892年度名簿(11月号)、1901年度 p1196


明治の薬誌を見ていると上野公園がよく出てくる。


徳川家の保護を受けてきた寛永寺が幕末の上野戦争で焼けて巨大な空間ができたとき、明治政府は医学校と病院を作ろうとした。しかし視察した蘭医ボードウィンが公園にするよう進言、東大は加賀屋敷に作られることになった。

明治6年には東京府公園に指定され、同9年に完成した。


開園と同時に築地の精養軒が現在地に支店を出した。
以後、上野精養軒は鹿鳴館時代の華やかな社交場として各界の名士が集い、西洋料理を楽しんだ。薬学会でも、例年総会の懇親会場になったほか(第8890話)、留学、出張で洋行する薬学会会員の送別会が、帰国したら歓迎会が開かれた。
大正6年、長井長義の東大在職25年祝賀会がここで開かれ、有名な庭での記念写真に木造の精養軒が写っている。
 
東京市及接続郡部地籍地図(大正元年)

106話で取り上げた慶松勝左衛門の卒業祝宴会は、明治341028日、下山丹波島田山田藤本曲淵ら18人が集まり、上野公園内の梅川楼で開かれた。

ここは江戸時代からの高級料亭、浅草八百善が明治9年、精養軒の一月遅れで出店したが、明治14年に閉店。以後桜雲台、梅川楼、常磐華壇と経営と名前が変わった。国会図書館の近代デジタルライブラリー『日本之名勝』(明治33年)に写真つきで解説がある。
二階建ての割烹は、左は遥かに房総常の青岳を望み、前面は大都の萬瓦に対し、右は不忍池の睡蓮が木々の間に隠見して、湯島台の影や依稀たり、という。場所は西郷像の北東、上野駅に面した崖上にあった。なお、今の公園にある鰻の梅川亭とは関係ないようだ。

韻松亭も忘れてはならない。
風情ある店構え、何度も前を通っていたが、とうとう2013年に入った。美味であった。ここは常盤花壇、精養軒のように近代デジタルライブラリー『東京市及接続郡部地籍地図』には載っていない。薬学雑誌の記事でも見つけられなかったが、明治25年、27年の薬学会会員名簿を見ると、平野一貫と伊藤修郎の住所は、「下谷区上野公園地韻松亭」なのである。平野は東京薬科大の前身の一つ、神田の薬学講習所(1886)の設立者である。彼は料亭に住みついていたのだろうか。 



0 件のコメント:

コメントを投稿