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丹羽藤吉郎、渋沢正雄、癌研、養育院、廃兵院、家庭学校、
福祉、教育機関が集まった巣鴨の一角
6月23日。
梅雨の晴れ間、北大塚三丁目交差点
家から3.8km。
王子の石神井川が3.7㎞、自転車でよくいくのでご近所に含めたが、こちらは電車で来るので近所という感じにならない。しかし2013年以来近くに用事があって毎年来る。
さて、この交差点に宮仲公園がある。新道(宮仲公園通り、都道436号)ができたせいか、道路に囲まれた島のようになっている。
この新道はかつて、がん研通りといわれたが、2009年に改名されたらしい。通りや坂の名前ってなかなか変わらないんだけどね。
めまぐるしく変遷した跡が公園に碑として残されている。
まず、明治34年に開校した大谷大学(旧真宗大学)。
場所はこの公園ではなく、少し南へ坂を上がったところ。
真宗中学はここからすぐ北の今の都立文京高校の場所にあった。
碑は平成12年建立
1911年(明治44)、京都に移り大谷大学と改称。その後、渋沢邸となった。
昭和13年、渋沢正雄氏が二百余坪を東京市に寄付、この公園となった。その碑は昭和16年である。
でもこの公園は渋沢邸敷地から離れている。
古地図では一般民家があったような感じ。地主として貸していたのかな?
昭和18年皇后行啓、防空訓練視察の歌碑もあるが、全く読めない。万葉仮名のせいでもない。
がん研はこの公園の西にあった。
癌研附属病院が新道に面してあったが、2005年有明に移転し(ちなみに築地の国立がんセンターとは別)、いまはレジディアタワー上池袋という大きなマンションになっている。4棟あり、一つの下にはピーコックストアが入っている。
このマンションに隣接する南には上池袋東公園がある。
ここは癌研の化学療法センターだった。
薬学の同級生M君が以前いた。
この公園に家庭学校跡という案内板があった。
設置したばかりで映りもきれい。
以前から古地図を見るたびに家庭学校って洋裁なんかを教えていたのかと思っていたが、不良少年の感化教育施設だったとは、この日初めて知った。
この公園の南に隣接して巣鴨中学・高校がみえる。
ここ数年で校舎がすっかり新しくなった。以前と比べてだいぶ進学実績が落ちているところへ少子化の波が襲った。進学校としてかつての位置に戻るには、志願者を増やさねばならない。学校見学の時のお母さま方に受けがいいよう設備を充実させ、ライバル校に勝たねばならないのだが、苦戦しているようだ。
さて、家に帰って古地図を確認した。
1957(昭和32)建設省地理調査所
左の巣鴨学園と中央の文京高校、都電などが目印になる。
左上の斜め広い道が明治通り。
宮仲公園があって、癌研附属病院がある。
文京高校は学校が二つあるかのように二分されている。校舎の形も違う。
さて、ぐっと遡り、真宗大学があったころ。
1909(明治42)大日本帝国陸地測量部
折戸通りのもとになった折戸という地名がある。
右下に見える廃兵院は、日露戦争後に重度負傷兵の収容施設として渋谷に開設され、1908年この地に移転してきた。今は住宅地になっている。
地図中央、文京高校の場所は養育院分院。
養育院は明治5年、困窮者、病者、孤児、老人、障害者の保護施設として本郷加賀屋敷跡に設立された。神田、本所など各地を移転した後、大塚(小石川区、今の大塚病院のところ)に移った。
1909(明治42)大日本帝国陸地測量部
中ほど上部に養育院(本院)がみえる。
この地図には左上に巣鴨監獄、左中ほどに陸軍埋葬地と護国寺、その下に盲学校と永楽病院、音羽の谷を越えて東に兵器支廠(お茶大は1932(昭7)年に来た)、高等師範学校(1903年移転)、その北に伊達邸(たぶん宇和島)などもみえる。
さて巣鴨に戻る。
その養育院の分院が明治42(1909)年、ここに建てられた。本院が大正12年9月(震災の月)に板橋大山に移転したあとも分院はここに残った(下の地図)。
養育院は名前が老人医療センターとなって、今は東京都健康長寿医療センターという。一方収容されていた子供たちの方は1942石神井に移転、石神井学園となった。
東京都老人医療センターに付属していた都立老人研には思い出がある。
学生時代(1980年ころ)、NMRのサンプルを持って板橋大山まで行ったことがある。
当時60MHzのNMRしかなかった薬学にもようやく100MHzのFT-NMRが入り、C13のNMRが取れるようになっていた。しかし私の研究テーマは非常に高い分解能の装置を必要とし、当時関東で最も高性能だった220MHzをもつ先生との共同研究となり、頼みに来たのである。
電車賃がもったいなくて成増から本郷まで通っていた先輩から定期券を借りて出かけたところ、池袋駅で丸ノ内線から東上線に入るべきところを間違えて国鉄の改札口に入ってしまった。当時は自動改札でなかった。何もやましさを感じず堂々と入ったから、駅員も気が付かなかったのである。こちらは間違いにすぐ気が付いたが、さて、今度は怖くなって出られなくなってしまった。もちろん定期で入ったことは絶対隠さねばならない。
どうやって出たか、落ちている切符を拾ったのか、切符をなくしたと嘘をついたのか、老人研に時間通りついたのか、先生の名前は誰だったか、NMRの装置はどうだったかの記憶は全くない。ただ、改札口の風景だけ覚えている。
下に昭和の地図がある。
1932(昭和7)大日本帝国陸地測量部
1929(昭和4)東京逓信局、小林又七
大谷大学跡地が渋沢邸になっている。渋沢栄一の三男、正雄氏である。
昭和4年の地図にはあるが、昭和7年発行の陸地測量部には書いてない。
この地はのちにJR大塚アパートとなった。
現在、この跡地にはJRドルミエール大塚とグランフォート青淵閣がある。青淵とあるのは栄一もここにいた時期があったのだろうか? 養育院の院長を56年も務めたというから、飛鳥山にいても、すぐ近くの分院に立ち寄ることもあったかもしれない。
正雄氏は夭逝した男子を除くと、渋沢栄一の三男である。帝大法科経済をでて実業家として活躍した。長男の放蕩で渋沢栄一の家督を継ぐかと思われたが、長男篤二の子、敬三氏が祖父・栄一の後継者となった。
学校がずいぶんある。
巣鴨中学の北東、上池袋東公園は家庭学校ではなく、豊島女学校とある。これが分からない。豊島岡女子高校は、牛込から直接現在地に来ているし、都立豊島高校はもと女学校とはいえ、府立第十高女であって、この名前ではない。豊島高等女学校は確かにこの地にあったのだが、廃校になったのだろうか?
今の公園、つまり豊島高等女学校の前に家庭学校の農園であった地図もある。しかし家庭学校跡地は、がん研病院になったのだから、案内板はレジディアタワーマンションのところに作るべきであろう。
家庭学校の北西には帝国小学校、幼稚園がある。教育勅語に反発した西山哲治が子供の自主性を尊重して開学した。
その北東、谷端川のそばの巣鴨高等商業学校は、戦災で焼け、千葉国府台に移って千葉商科大学と名前を変えた。
昭和家政女学校というのもある。(不明)
地図にはないが、明治女学校も飯田橋から明治30年にこの地に移って41年廃校となった。跡地は東大運動場となり、いまの東大の豊島学生宿舎のあたりである。
大正大学長谷川良信が1919年開いた、マハヤナ学園もあった。その子供たちが多く住んでいた二百軒長屋は、1932年の地図の一番上、端に見える。
芥川製菓工場というのはチョコレートの芥川だろうか? でもHPでは日本橋から駒込に来たとある。
それにしても、ずいぶん学校が集まっている場所だったようだ。
さて、上部中央、川の東側に丹羽邸とある。
東大薬学の第一期生で卒業後に助手に採用された3人の一人、丹羽藤吉郎である。年長の下山順一郎、丹波敬三が留学中に薬学科が廃止になりそうになって、一人で頑張った話、また薬学のために自分がポストを辞退して、長井長義を招いた話などが有名である。
丹羽邸の敷地はふつうの住宅地になっていて、何の面影もなかった。
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