2017年9月9日土曜日

命の大切さの教育、動物愛護と毛虫

「生命(いのち)の大切さを学ぶ」
というが、教師は何を教えて、生徒は何を学ぶのだろう?
そんなことは可能なのだろうか?

この1週間、冬野菜の準備を始めてから、血を吸う蚊をたたき潰しながら、コガネムシの幼虫やナメクジを駆除した。

今朝は農作業はしなかったが、スミレだけを狙って葉っぱを食い尽くす毛虫を殺した。
正確には毛ではなく棘だから毛虫でない。
ツマグロヒョウモンという美しい蝶の幼虫らしい。
もともと南方の種らしいが、1990年代から関東で見られるようになったとか。


キャベツやダイコンにたかった青虫は手でつぶしたことがあるが、どうしても慣れず、すぐやめた。足でつぶそうにも小さいと溝にはまりつぶれず、かといって大きいと靴底を通して感触が伝わり、気持ち悪い。
先日コガネムシ幼虫をつぶした時は、虫たちの怨念が数年かけて足に災いをもたらすのではないかと、およそ非科学的な恐れを抱いた。そこでバケツの水に沈めた。

今回の毛虫も水責めだが、毛があるものは沈まない。
(ナメクジは沈むが、死なず這い出して来る。)
そのうち這い上がってくる毛虫がいたので、割りばしで落として掻き回した。ひん死の彼らは脱糞し、黒緑の球が水底に沈んでいく。なかなか沈まないので、割りばしでバケツの壁に何回もこすりつけ、結局つぶした。
嫌な行為である。
こちらも必死に、鬼の形相でつぶした。
殺虫剤で消毒すればよかった、とつくづく思った。
ふと、白兵戦で人を殺すのと、ボタン一つ押して何十人、いや何万人を殺すのと、殺人に関する心の痛みはどちらが大きいだろう、と考えた。

我々人間が命の尊さをいう資格はあるのだろうか?

戦争はさておいて、(人類以外の)命の貴さというのは何だろう?
肉を食べる人に、これを言う資格はあるか?

頂きますという言葉がある。
「他の生き物の命を頂くのですから感謝しなくてはいけません」
と先生やお坊さんは言うけど、誰に感謝するのか?
命を提供してくれた動物の魂にか?

違うと思う。
感謝せよ、と偉そうに言う教師も坊さんも、食べるときは何も考えていないと思う。
罪のない動物の生きているときの姿を想像し、命の大切さを思うなら、その命を奪ってまで食べられないのではないか?
 
感謝すべきは、殺してくれた屠畜業者に対してだろう。
彼らのおかげで我々は「命を意識せず」、つまり命の大切さ、貴さなど考えずに、物体として肉を食べることができる。
いくらきれいごとを言っても人類は生物として、多くの他の命を平気で、大量に頂いてきたのだ。

ペット販売業者が売れ残った動物をエサ代など節約のため殺処分することを非難する文章があった。命をモノ扱いしている、と。
しかし同じことは製薬会社の研究室や実験動物供給会社でも行われているだろう。
これも否定すべきだろうか?
病気になっても薬は一切飲まず、自給自足の菜食主義者ならば否定してもいいと思う。
しかし無責任な我々にその資格はあるか?

現在、倫理的に、実験動物の殺処分は動物に苦痛を与えないように、と指導がある。しかし、これは動物福祉のためというより、仕方なく殺さねばならない人の心の安寧のためにあるような気がする。誰だって殺したくない。

毛虫は消毒で殺すに限る。
あるいは袋に集めてゴミに出すか。
命の収奪者になりたくない「逃げ」である。

家庭菜園は、菜食主義者であっても命を意識せざるを得ない。
やっぱり、野菜も(虫を殺してくれる)農家に感謝しながら、きれいなパック詰め製品を買った方がいいのかな。



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