2018年3月30日金曜日

長野電鉄木島線の廃線跡

3月25日、金沢へ行く前、信州中野の実家に立ち寄った。

2ヶ月前に急逝した従兄の彼岸参り。
日曜だったので弟が運転してくれて母と3人で市内柳沢の従兄の家にいった。

かつて中野の北部は、りんご畑の中にいくつかの集落と、それらを結ぶ狭い道しかなかった。しかし今や新幹線が横断、畑はどんどんなくなり、車社会で木島線が廃線となり、バイパス沿いには大型店などの建物がいくつもできている。
風景の悪化を残念がっているうちに柳沢についた。
(長野県埋蔵文化センター『柳沢遺跡』から無断拝借)
見えるのは千曲川。夜間瀬川は右から写真中央で合流している。

柳沢は高社山の西側斜面。下のほうを夜間瀬川が流れる。
ここに母の実家と母の妹の家がある。
1956年7月、私と従兄は3日違いで生まれた。
二人は柳沢で双子のように遊んだ。

従兄は結婚して敷地内に新居を建て親と別居した。
しかし2010年、叔父がなくなる。
目も足も不自由な叔母は大きな家に独りになったが、気の強い彼女は息子夫婦と同居しなかった。しかしお嫁さんと彼女の間に立っていた従兄が急逝した。
この日、頭は明晰なだけに嫁に対する愚痴も鋭く、今後を心配させる。

連れて行った母は、昨秋の脳梗塞以来(いや、それ以前からも)ぼけたことを言っているが、自分の妹の前だと不思議と威厳があってしっかり振舞う。

イナゴの佃煮や漬物などお茶うけを盛んに勧められ、帰るときにはたいそうお菓子を持たされた。
叔母は不自由な足を引きずりながら車の見えるところまで来て手を振ってくれた。
こちらも手を振ったが目の不自由な彼女に見えたかどうか。
見えない人がどう見えるかは、決してわからない。

弟に頼んで、子供のころ従兄と一緒に遊んだ場所に立ち寄ってもらった。
二人で小遣いをもらってお菓子を買いに行くとき、手をついて這うように上がっていた石段。
当時はコンクリートでなく石段だった。両側から木の枝が迫り、いつも湿っていて、苔の生えた石の間からユキノシタが出ていた。

この上にあった駄菓子屋?よろずや?は跡形もなかった。
駄菓子屋跡

従兄と2人してレールに耳をつけ、電車の音を聞こうとした踏切。
廃線から16年、踏切のところだけレールを残しているのはなぜか?
記念に残した?

「絶対にレールの間に足を入れるな、挟まったら取れなくなって電車にひかれて死んでしまう」
ときつく言われた。
一度ドキドキしながら足を入れてみて、あわてて抜いた。

その母の実家は上の写真、左上の林である。
巨石を配した立派な庭の上、植木の向こうを電車が通っていた。本数が少なかったせいか騒音は気にならなかった。
「電車が通るようになって湧き水が濁ってしまった」と柳沢の祖父が言っていたが、これだけ近ければ当然だろう。当時は補償という概念などなかった。

長野電鉄は、現在長野から湯田中までが本線だが、かつては屋代ー松代ー須坂ー小布施ー中野ー柳沢ー木島という河東線が本線だった。

1922(大11)6月10日 屋代 - 須坂が開業
1923(大12)3月26日 須坂 - 信州中野が開業
1925(大14)7月12日 信州中野 - 木島が開業(屋代 - 木島間全通)
1926(大15)1月29日 全線電化
1926(大15)6月28日 権堂 - 須坂が開業
1927(昭 2) 4月28日 信州中野 - 湯田中が開業

・・・・・父母が生まれ、我々が生まれ、子が育ち、

2002(平14)4月 1日 信州中野 - 木島 廃止
2012(平24)4月 1日 屋代 - 須坂 廃止

なるほど、木島線の開通は大正14年か。祖父はよく覚えているはずだ。
水の濁りと引き換えに雪深い柳沢から中野、長野、東京への道が開かれた。

この先が柳沢駅。
駅に向かう細い道は消えていた。
すれ違いも出来ないほどのリンゴ畑の下の細道だった。

このレールはずっと同じものだろうか。
もちろん今の靴は大きくてはまらない。

古町鉄男「はかなき情景」http://www.hakanaki-jokei.com/kijima.html
に懐かしい柳沢駅がある。


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