2019年8月15日木曜日

戸山公園、軍医学校、人骨

8/11 新宿コスミックスポーツセンターでダンス競技会があった。
ラテン一回戦負けで午後のスタンダードまでぽっかり空いたので猛暑の中、明治通りを渡り、マクドナルドの横を下る。

尾張徳川家の戸山屋敷
 下屋敷 8万5千坪
 抱え地 5万1千坪
あわせて 13万6千坪
東に徒歩25分、市ヶ谷の上屋敷7万5千坪より広い。
復元江戸情報地図(1994)
南は新大久保駅から伸びる大久保通、
北は女子学習院、西は明治通り、東は感染研など国立研究所の敷地まで。
尾張や版 江戸切絵図

穴八幡、放生寺の南も尾張屋敷だったから今の早大戸山キャンパスも含まれる。
明治後、陸軍省用地。
戦後は都営団地の戸山ハイツ、国立研究所、グランド(公園)、学校などになる。
都立戸山公園箱根山地区
いまや公園として残っているのはその1割もないのではないか?

日陰でも35度の猛暑日、まず箱根山に登る。
東京23区の最高峰。標高44.6m。
我が家も本郷台地の上にあるが海抜21m(千駄木小学校)だから、それよりだいぶ高い。

初めて知ったのは1995年、「江戸東京百名山を行く」(手島宗太郎)をみてから。
当時は今のような散歩ブームはなかったしネットもなかった。


このあたりの石は江戸時代、作庭のために集められたものだろう。

箱根山頂上 
初めて来たのは2001年5月。国のゲノムプロジェクトにボランチアで血液を提供した。東京女子医大膠原病リウマチセンターで採血された帰りに立ち寄った。2005年以降もダンスの練習などの帰りに秋と冬2回ほど登っている。
あるときは、早稲田の学生だろうか、ここで劇の読み合わせをしていた。

池の琥珀橋の右に和田戸明神がある。
その山を和田戸山といった。戸山の語源とされる。


明治時代は陸軍用地となり、練兵場、射撃場、戸山学校、軍医学校などが置かれた。
以前来たときは陸軍軍楽学校の記念碑?なども見た気がしたのだが、見つからず。
あえて探さず。
都営戸山ハイツは、戦後の住宅難を解消すべく1949年完成し、1970年代には鉄筋コンクリート、さらには高層化された。現在35棟。
団地というけれど、起伏ある緑の中にゆったり広がり、ずいぶん贅沢な環境である。
現在地図をみるだけでも尾張家の屋敷地内にこども園が5つ、 区立東戸山小学校、区立西早稲田中学、戸山高校、女子学習院、早大、さらにはシニア活動館、生涯学習センター、病院まで何でもあり、一生ここで過ごせる。
昔の江戸絵図だと池があったところ。
今フェンスに囲まれた空き地になっている。
公務員宿舎の跡地?

 坂を上がり敷地の東側、医療系の国立研究所のほうへ行ってみる。
国立感染症研究所
1947 東大伝染病研究所(白金)の一部を独立させ国立予防衛生研究所(厚生省所管)
1955  白金近くの海軍大学校跡地(目黒駅東、品川区上大崎)に移転。
1961  国立村山療養所の敷地にワクチン検定庁舎(後の村山分室)
1992 上大崎から戸山の厚生省戸山研究庁舎に移転
1997  国立多摩研究所を統合しハンセン病研究センターを設置、
1997 3つを合わせて国立感染症研究所に改名

近未来SF小説「ブルータワー」石田衣良で、この研究所と戸山公園が出てくる。

感染研はいきなり玄関、目につくところには何もなし。

感染研向かいは国立国際医療研究センター
名前がよくない。
感染研とかがんセンターとか内容が分かる名前にするべき。
専門分野がないなら地名でもつけておけばいいのに。
珍しいほど意味のない名前。

かつての陸軍病院だが、南は大久保通まで広がっているから相当広い。

1989年12月から毎月、海馬LTP研究会という勉強会に出た。33歳だった。
東京女子医大関野さん、日本医大丸先生ほか若手中心の7,8人、多くても10人くらいの会だった。新大久保駅からまっすぐ東へ河田町の東京女子医大まで歩いた。
まだフジテレビがあったころ。

このとき東に向かう左手にこの病院、研究所があった。
しかし箱根山も尾張下屋敷も知らず、戸山公園も知らず、ただ黙々と歩いていた。

裏口は門が空いていて誰もいなかったので入ってみた。
入っても誰もいない。
宿舎はほとんど空き家のようだ。
ここは最初の陸軍病院で、1903年に世田谷分院ができてからは陸軍第一衛戍病院といった。

1929年には病院の北東に陸軍軍医学校が麹町から移転してくる。
敷地見取り図が以下にある。
https://jinkotsu731.web.fc2.com/zinkotuhp/kousei/koseimap.htm
https://jinkotsu731.web.fc2.com/zinkotuhp/kouseiprog.htm


ところで、私が大久保通を歩き始める少し前の1989年7月、
ここに移転してくる国立予防衛生研究所の建設中、頭蓋骨、大腿骨など100体以上と見られる人骨が見つかった。(頭骨は62体分)
人体実験で有名な石井731部隊の本拠もここにあったことから、人骨は捕虜ではないか、などと騒がれた.

2001年6月
厚生労働省、「戸山研究庁舎建設時に発見された人骨の由来調査について」を公表。人骨が軍医学校の標本類の可能性が高いことを認め、人骨の保存を決定。さらなる発掘については現状では取り組む必要がないと述べる。
2002年3月
遺骨は、戸山研究庁舎内の人骨発見現場近くに建てられた納骨施設に安置され、一見落着かに見えた。

ところが2007年、当時看護師を務めていた女性が証言。
他にも二か所、遺体を埋めたという。
・戸山5号宿舎
・口腔外科技工室前
https://kojitaken.hatenablog.com/entry/20070414/1176506395


5号官舎の発掘では人骨が出なかった。

国立国際医療研究センターのほうは奥が大分あったが、疲れたので退出。

早稲田戸山キャンパスを右に、戸山公園のグランドを左に見て坂を下りる。
上が南
おそらくこのあたり、尾張屋敷の池泉から発した川が神田川に向かっていただろう。
地図の場所から早稲田キャンパスを見る

 暑い中ひたすら明治通りに向かって坂を上る。
左は延々と学習院女子大
中には近衛騎兵連隊の兵舎が残っているという話だが入らず。
ひょっとしてこの塀も陸軍時代のものだったりして。

1918年学習院から女子学習院として分離独立。
青山秩父宮ラグビー場あたりにあったが、戦災で焼失、陸軍がなくなったこの地に移転した。
学習院女子短大は2001年廃止されたが
学習院女子中学、高校がある。
明治通りにも校門がある。
北側から区立中学、南から都立戸山高校が迫り、通路のような細長い敷地が奥のキャンパスまで続いている。

都立戸山高校
もと府立四中。1888年(明治21)創立。
1878本郷で設立された東京府一番中学(のち日比谷)の補助的学校として設立されたから、1901年の府立二中(立川)より古い。
中学校令で一府県一尋常中学となったから、いったんは私立となるが1894府立に戻り、1901年府立四中と改称。
1903年飯田橋から牛込区市ヶ谷台に移転、戦災焼失、
1949年、陸軍が消えたこの地に移転してきた。

・・・・・
暑さの中、上り下りですっかり疲れ、午後のスタンダードも1回戦敗退(72組中68位)。

ダンス会場の新宿コスミックスポーツセンター、隣の早大理工学部、都立戸山公園大久保地区など明治通りと山手線に挟まれた一帯は、御家人の給地手作場。
明治以降は陸軍射撃練習場だった。

さらに言えば、山手線の西側、西戸山公園、東京山手メディカルセンター(社会保険中央病院)一帯は、百人組同心大繩地。
戦前は陸軍演習場、陸軍技術研究所などがあった。


2 件のコメント:

  1. 戸山1丁目の国立国際医療研究センターの近くの若松住宅
    2010年から誰も住んで無くて 3年前に行って見たら
    一階は、ベニヤ板で塞がれてました。壊さずに耐震補強して欲しいです。

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  2. もう10年ですね。公務員住宅から何かに転用しようとしても、ヘタに建て替えると人骨が出るかもしれないから工事できないのかもしれませんね。いまは柵で立入禁止になっているだけだけど、そのうち荒廃が目立ってくると皆が騒ぎだす。担当者は何とか自分の任期が終わることだけ願っているのかも。

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