12月14日、宮代に仕事で行った帰り、乗り換えで北千住駅に降りた。
ほぼ初めての町なので歩いてみた。
江戸以来の骨接ぎ、名倉医院をみたあと、古い家々を見ながら旧日光街道を南に歩いて戻ってきた。(別ブログ)
2020-12-14 12:28
左、絵馬屋(吉田屋)、右、横山家
千住の宿場町はもともと隅田川北岸であったが、千住大橋の南岸、小塚原にも拡大し、万治3年(1660年)南宿として加えられ、北から北組、中組、南組となった。
JRの駅名に南千住、北千住があるが、北千住駅のまわりの住所は千住である。
12:41
宿場町通り(日光街道、サンロード)と西口駅前通りの交差点。
アーケードが北方の地方都市を思わせる。
向こうが駅。
いま立っている、この交差点の北西一帯が本陣のあったところ。
千住宿本陣跡
津軽、南部、伊達、佐竹、酒井、上杉、会津、相馬、水戸、堀田など東北、関東常総で64家も通ったというから、当時の賑わいは相当なものだっただろう。
写真を撮らなかったが、通りに沿って街灯の柱に千住宿を通った諸侯の家紋と説明が貼ってある。しかしこの本陣跡には石柱も何もなく、この看板だけ。
本陣中心に向かって路地の奥に入ったが民家が密集しているだけだった。
旧日光街道はサンロードから本町センター通りと名前が変わる。
街道から奥行き二十間といわれる路地を通って、駅のほう、東の裏道に出る。
北千住らしい飲食店街。
北千住はほとんど初めてと書いたが、40年前、小学生の家庭教師のアルバイトをした。
このあたりかどうか不明だが、とんかつ屋さんだった。
最初の日、1階のカウンターでとんかつ定食をごちそうになった。
教えるときは二階の大広間の端、宴会用の細長い座卓。
あるとき、終わって出た食事が魚の煮凝り。なんでも食べる私の数少ない苦手なもので、無理して食べたら具合悪くなってしまった。
覚えているのはこの2回の食事だけで、店の名前も外観も、生徒、親の顔も名前も、全く思い出せないから、ごく短期間だったのだろうか。
一度、熱のある時に出かけ、貧血を起こし目の前が暗くなった。北千住に着くと慌てて降りてベンチで休み、電話で謝って帰宅したことがある。JRの冬のホームだったから千駄木でなく日暮里駅から行ったのだろう。私の人生で唯一の貧血である。
当時、店のまわりを一度だけ歩いたら広い道に出た。
多分国道4号だろう。
私の知っている北千住は、40年前のこれらの記憶で全て。
あまりに少なくて懐かしさもない。
・・・・・
北千住で見たかったのは、名倉医院のほかに、鴎外森林太郎の旧居、橘井堂(きっせいどう)森医院の跡。
街道と並行する東の裏道を南にすすみ、金蔵寺を過ぎると目的地。
行ってみたら地上30階の千住ザ・タワーの建設現場になっていた。
2020-12-14
このマンションは三菱地所レジデンスが販売、今月竣工予定だが先月完売。
全184戸。人気駅から歩いて3分、足立区で初めて100メートルを超えるビルという。
鴎外の父、静男は津和野藩の御典医で、一家で上京した後、藩主亀井家の向島屋敷のそばに住んでいたが、明治12年南足立郡医となり千住に転居、後に橘井堂医院を開業した。
この頃、林太郎は東大在学中で無縁坂上の上条に下宿していたが、卒業した明治14年(1881)には下宿を引き払って千住に住み、医師として父とともに医療活動に従事した。この頃の様子は小説「カズイスチカ」に描写されている。
その後、三宅坂の東京陸軍病院に勤めることになり、千住から人力車で通勤した。新しく車夫を雇い、雨の日も雪の日も12キロの道を通った。
明治17(1884)年8月にドイツへ留学。
明治21(1888)年9月に帰国すると千住の実家に戻る。
翌年結婚して根岸、池之端花園町、千駄木57番地と移り、明治26(1893)年には両親とともに観潮楼・千駄木21番地に居を構えた。
鴎外が千住にいたのは3,4年ということになる。
・・・・・・
さて、千住の旧居跡はまだ工事中で、あるはずの鴎外旧居の記念碑、案内板も何もない。
名著「鴎外の坂」(森まゆみ)によれば千住北組14番地、のち千住一丁目19番地である。
一家が千駄木団子坂上に移った後、農具砂糖商の手に移り、ほどなく医師斉木林策が買って再び医院とした。さらに明治33年地続きの河合酒店に売られ、昭和15年協和発酵の工場となった。戦後、工場移転により都税事務所となる。
トポスはダイエー系のディスカウントストア。2016年11月に閉店した。
両者を合わせた敷地に、千住ザ・タワーが立ちつつある。
旧森邸跡の記念碑は見つからなかったが、すぐ南に古い歯科医院があった。
歯科醫市川欣二
歯学博士市川公一
歯学博士市川敬一
という表札
「診療中」という木札が本当か?と思うほど古くて小さい家だった。
さらに南下すると
東京芸術大学千住キャンパス
芸大が上野に近い北千住にキャンパスを作った話は聞いていたが、もっと川のほうだと思っていた。1995年の地図では千寿小学校になっている。
北千住は西の方、墨田川と荒川に挟まれた細い部分に帝京科学大学が千住キャンパスを開いたが(2010年)、そこも元宿小学校だった。北千住は子どもが減っているのだろうか?
ちなみに北千住駅東口すぐそばにできた東京電機大は、1995年の地図では日本たばこ千住住宅である。
足立区は67万もの人口を擁しながら長い間一つも大学がなかった。
しかし北千住に1993年、放送大学の東京足立学習センターができて、その後も区は積極的に大学を誘致した。
2006年東京藝術大学の千住キャンパス
2007年東京未来大学、
2010年帝京科学大学、
2012年東京電機大学
今や北千住は足立区の玄関、飲み屋の集積地というだけでなく、5つの大学を有する学園都市になった。
芸大の前の道を西に行くと街道筋に戻る。
渡った交差点の角に千住高札場跡。向こう(東南の角)に一里塚跡の石柱がある。
2017年5月に日本橋から自転車に乗ってきてここを通過しているが、ほとんど周りを見なかった。見物は歩かなければ駄目である。
足立成和信用金庫本店
芭蕉像が迎える。
奥の細道では千住まで船できて、ここを北に歩いた。
足立産業芸術プラザ、東京芸術センター
大学を誘致した北千住は変わりつつある。
高い建物を見ると入ってみたくなる。
エレベーターで上がってみた。
南の方、常磐線、スカイツリーは見えたが、千住大橋、墨田川は見えなかった。
清水歯科
ここも市川歯科のように古い
東から表通りに戻るに、下は通れるが、上は建物
表通りに戻ると、この道は完全に私有地ということが分かる。
ビル化する前から、江戸の昔から人々が通っていたため、親切に通路を残したのであろう。
千住のメインストリート、旧日光街道を歩きながら横を見ればこういう路地ばかり。
今どき珍しいほど密集しているというのは、古い時代に賑やかだった歴史ある土地の証である。
北千住から千代田線に乗った。
千駄木で降りて団子坂を上がり久しぶりに鴎外邸観潮楼跡を見ようと思った。
しかしひとつ前の西日暮里で降り、谷中名倉医院を見て帰宅した。
(追記20201227)
メモに井上さんという電話番号があり、ネットで調べたら国道4号の近く、「土筆」という焼かつの店だった。HPに創業51年とあるが2012年が最後の更新でしばらく休業すると書いてあった。
20201222 北千住3 日光、水戸街道の分岐点
20201218 北千住2 荒川開削と名倉医院の系譜
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