11月1日夜、新宿から高速バスにのり10時間、翌朝、弘前についた。
弘前城と武家屋敷町を1時間ほどで切り上げ、南下して町を見ていく。
10:19
旧東奥義塾外人教師館
向こうのとんがり屋根は旧市立図書館
両方とも明治に建てられ、見学無料だが、写真を1枚撮っただけで先を急ぐ。
しかし、近くの裁判所のわきにベンチがあったので、コンビニパン1つをお茶で食べる。少しでもリックを軽くしたかった。
東奥義塾は、スキーで長野県の高校のライバルであり、中学生のころよく新聞スポーツ欄で目にしていたが、東奥という言葉から東の八戸か青森にあると思っていた。
明治5年、弘前藩の藩校稽古館は廃止され、旧藩主・津軽承昭による財政援助のもと、藩校の教師、施設、教科書などがほぼ引き継がれる形で、弘前漢英学校が開学。まもなく慶應義塾にならって改名、名付けられたのが東奥義塾である。
当初から高い給料で外国人教師を雇い、アメリカの教科書を使用するほど先進的な学校であったが、財政難から明治34年弘前市へ、のち県へ移管され、県立弘前中学校東奥義塾となるも、大正3年に廃校。その後、塾長に笹森順造を迎え、私立学校として1922(大正11)年に再興された。
休憩した裁判所の東の道を南下。
すぐ養生幼稚園がある。
10:34
ここは幕末、吉田松陰が訪れた伊東広之進(梅軒)邸である。
その後、明治39年、この邸宅を隣の親戚?の医師、伊東重が買い取って、養生主義に基づく幼稚園を開園した。
伊東重(じゅう、しげる)は弘前藩の藩医の家に生まれ、先ほどの東奥義塾で学び、東京帝大を出たあと帰京、弘前公立病院長となり、翌年私立伊東病院を開業、1903年市立青森病院長に就任、1913年弘前市長、1917年衆議院議員。要するに名士である。
吉田松陰は宮部鼎蔵と共に伊東梅軒を訪ね二日間にわたり国事を談じた。伊東重はこの吉田松陰と伊東梅軒が会した部屋を「松陰室」として保存、今も現存する。
その説明板の隣は、幼稚園の掲示板であった。
10:35
養生幼稚園の隣を見ると、「伊東クリニック」という標柱がある。
こちらは新しい。
弘前城の北の武家屋敷町に元長町から移設したという藩医・伊東邸が保存されていたが(前のブログ)、ここから移したのだろうか。
弘前は物持ちが良い。
しかし司馬遼太郎の訪れた30年前の
「元長町という一すじの町並みは、今も江戸時代の空気を溜めているように閑静である」という景色は失われていた。
元長町のすぐ南は弘前大学の本町地区キャンパスの北東角に出る。
ここは医学部や大学病院がある。
10:37
弘前大学医学部保健学科
お城で写真を撮ってスイッチを切らなかったせいか、スマホの電池が残り少なくなった。
学生が充電している食堂のようなものがないか、とお邪魔した。
一階のガラス張りの部屋でスマホ用コンセントのあるカウンターがあったが、女子学生が談笑していたので、勇気がなくてそのまま出た。
10:43
看護学科の西隣は大学病院と医学科。
ここから弘前大学本部キャンパスまでひたすら歩くだけ。
休憩した裁判所脇から元長町、看護学科まで0.5km、6分だったが、ここから農学部のある文京町キャンパスまで2.1km、26分である。その前に駅からお城まで大分歩いていて大丈夫だろうか。
保健学科の角から本町坂を下る。
10:49
太田商店
八百屋さんの一番目立つところに、まるで店主自ら岩木山のふもとで採って来られたようなキノコが並んでいた。種名は書いてなかった。
土淵川に向かって下り境橋を渡ると駅がある。
10:51
レールが終わる終点だった。
弘南鉄道大鰐線、中央弘前駅である。
弘南鉄道は1927年に国鉄弘前駅 - 津軽尾上間で開業(現弘南線)。
弘南と言っても弘前の東である。
1949年設立の弘前電鉄が1952年中央弘前-大鰐間を開業(現大鰐線)。
そして1970年、弘南鉄道が弘前電鉄を吸収した。
10:52
JR弘前駅が市の中心部から離れているから、便利そうだがあまり人がいない。
レンガ造りの日本聖公会 弘前昇天教会を右に見てひたすら歩く。
渋い青果店があったが、ここはキノコを置いておらず、果物店だった。
10:59
グーグル地図にある店名も「バナナの松幸」だった。
昭和を感じさせる。
「フィリピン産バナナ」という手書きの紙札だけあり、バナナはなかった。
1分も歩かないうちにまたもやバナナ。
11:00
バナナ菓子いなみや
知る人ぞ知る、明治38年創業の老舗。
バナナ最中には根強いファンがおり、私も石合君にいただいた。
戦前、昭和の高級品だったバナナというのがまだ大事にされているのは、さすが、伝統建築や文化を大切に守り「物持ちのよい町」と司馬遼太郎がいった弘前である。
朝からずっと歩いてきて第一に思ったのは、道路が広いこと。
広げるにあたり、かなりの古い町並みを撤去したに違いない。
「物持ちのよい町」はなんとか貴重な建物だけ残したが、景色までは保存できなかった。
広い道だから見晴らしがよく、見渡して思ったのは、病院が多いこと。
大学病院を出てから、この道だけで、鳴海病院、弘前中央病院、国立弘前総合医療センターがあり、どれも遠くから見えるほど巨大なのである。小さい医院や看板はもっとある。
多い理由は分からない。
11:07
弘前銘醸
1966年、おはなはんのロケ地にもなったという。
11:08
旧制弘前高等学校外国人教師館
ここは旧制弘前高校すなわち弘前大学の敷地の北東の隅に当たる。
もっとも、本来この建物はここから東に300メートルのところにあった。
道路拡張に伴い解体移築されたもの。
成田専蔵珈琲店と書いてある。
店名は経営者のお名前で、店舗は弘前に3つ、4つあるらしい。
教師館を記念館としてそのまま残すのは費用が掛かり難しいが、このように喫茶店が入ってくれるとありがたい。弘大カフェとも書いてあるから、学生がメインなのかな。しかし繁華街からも遠く、いまどき経営は大丈夫だろうか。東京などはチェーン店だけになり独立系は姿を消した。
11:08
と思っていたら、弘前とコーヒーの関係の説明板があった。
蝦夷地の警備に弘前藩士が派遣されたとき、第一回(1807)は多数の藩士がビタミン不足で浮腫となり亡くなった。そこで第二回の派遣(1855)では当時蘭学医たちが特効薬と考えていたコーヒーが支給されたという。
このことから、長崎出島の異人や特権階級を除くと、一般人がコーヒーを飲んだのは弘前藩士が最初といわれる。
その後も、弘前は外国人教師や宣教師がコーヒーを持ち込み、もともとハイカラで気位の高い士族や成功した商人の間に広まっていったらしい。
そういえば、朝、弘前駅から歩いてきて目についた建物、三上ビルや師団長官舎などはみな喫茶店が入っていた。
旧制弘高外人教師館のわきには太宰治文学碑があったようだが見逃した。
すぐ隣は弘前大学正門。
11:10
写真の撮影時刻を見れば医学部キャンパスから27分。
ここは教育学部、人文学部、南に隣接して理工学部、農学部がある。
(続く)
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