2022年11月28日月曜日

旅の終わりは盛岡高等農林と岩手大学

弘前青森八戸から盛岡に来て、護国神社、盛岡八幡、盛岡城址を歩き、石川啄木宮沢賢治の記念館を見て、賢治の出た盛岡高等農林学校にいってみたくなった。(別ブログ)
そしてお城の近くから本町通りをてくてく歩いてきた。
2022‐11‐03 15:48
岩手大学ミュージアム本館
何とか16時までに着きたいと思ってきたが、15時閉館だった。
まあ、そうだろう。

今の正門かと思われる農学部東門から入る。
休日、夕方ということもあり、誰もいない。
15:52
樹木がいっぱい。一帯は農学部付属の植物園のようだ。
竹林がある。竹は南方の植物で、同じイネ科の稲は品種改良でどんどん北進したが、竹は岩手県あたりが北限らしい。(将来は温暖化で北海道でも育つだろう)

池のほとりに期待通りの古い建物。
15:52
旧盛岡高等農林学校同窓会事務所(岩手大学農学部附属百年記念館)。

と書いてあったが、「旧」は農林学校にかかるのか、同窓会にかかるのか、事務所にかかるのか、少し考えさせる。もし卒業生がすべて物故され同窓会がなくなっていたら旧は事務所にかかっていてもよい。しかし、戦後の岩手大学農学部卒業生が同窓会を引き継いだ。だから旧は農林学校にかかる。
その同窓会は北水会というらしい。北水は北上川を表す。

百年記念館の隣にはもっと大きな歴史的建造物があった。
15:54
農業教育資料館
旧盛岡高等農林学校本館。大正元年(1912)竣工。校長室や事務室、会議室、講堂などがあった。
戦後岩手大学ができたときは、大学本部になった。

明治政府は、富国強兵、食糧増産をめざしたが、明治半ばまで農業分野の高等教育機関は札幌農学校と帝大農科大学しかなかった。そこで農業技術者、農業教員と中堅技術官吏の育成を目的として全国に官立の農業専門学校を計画する。

1902年 (明治35年)創立の盛岡高等農林は、東北の振興という国内政策もあって最初に設置された。農学科、林学科、獣医学科の 3科ではじまり、後に農芸化学科、農業土木科が増設された。獣医学科は陸軍獣医の養成が大きな目的だった。

その後、鹿児島高等農林(1908)、上田蚕糸(1910、現信州大繊維学部)、東京高等蚕糸(1914、現東京農工大工学部)、京都高等蚕業学校(1914、現京都工芸繊維大)、鳥取、三重、宇都宮、岐阜、宮崎、千葉、と続く。
15:54
この旧本館は、1974年に現在地に移転し、1977年同窓生らの寄金により改修され、農業教育資料館として使われている。

宮沢賢治(1896-1933年9月21日)は、1915年トップ成績で入学、1918年卒業、引き続き1920年まで研究生として在籍していたからこの本館でも学んでいる。

その後、賢治は1921年、7か月ほど東京で暮らした後、故郷花巻の稗貫農学校(後の花巻農学校)教師となり、1926年まで務めた。
15:54
その宮沢賢治の記念像が本館前の池(北水池)のほとりにあった。畑で帽子をかぶりうつむいている有名な写真をモチーフにしたもの。
15:56
像の素材は安山岩だそうだ。
賢治は鉱物にも強い興味を示していた。
(化学同人の雑誌「化学」に、「『銀河鉄道の夜』の元素と鉱物の世界」(桜井弘)という連載記事があり、退職前に毎月読んでいた。)
とくに柱状節理や岩頸にもなる安山岩は賢治の作品にも出てくるため、この彫刻素材として選ばれたという。

15:56
人は全くおらず大学とは思えないが、温室が見えた。
ポランハウスというらしい。
賢治の作品に「ポランの広場」という童話があるようだが知らない。

15:58
何が育てられているのかな、と覗くとからっぽ。
「閉鎖中 新型コロナウィルス感染拡大防止のため当面の間利用できません」と書いてあった。教室はもう使っているのだから、ここは大して必要ない施設なのかな?

後で調べたら中にピアノがあるらしい。それにしても、高温多湿の温室にピアノって?
16:00
温室前の案内地図を見れば、梅太郎・賢治の碑があるようだ。
盛岡高等農林は最初の農業専門学校だったから、駒場(農学校→農林学校→帝大農学部)の卒業生が続々と盛岡に赴任してきた。農芸化学の鈴木梅太郎もその一人で、1906年2月、留学から帰国して盛岡に赴任、9月からは東大助教授と兼務した。賢治は彼の講義を聞いたようだ。

他にも自啓寮跡の碑がある。賢治も住んだ。
色々見るべきものはあるようだが、疲れていたし、暗くなってきたこともあり割愛。

地図のすぐ横にまた説明版があった。

もりおか啄木・賢治青春館で賢治の盛岡高等農林を見ようと思い、歩いて来たのだが、ここは思いがけず、啄木ともゆかりのある地だった。
16:00
啄木の妻、堀合節子の生家と古井戸。
1902年設立の高等農林の敷地は、もとは民有地で、節子の家もあった。節子(1886~1913)は士族の家に生まれ、ミッション系の盛岡女学校に進み、盛岡中学の啄木と相思相愛となり、結婚。しかし啄木死去の翌年、函館で亡くなった。27歳。
16:01
彼女の家は上田新小路11番地というところで、今の地図と合わせると温室の西あたり。2008年、写真をもとに井戸を復元したという。

森の中を西にいくと門に出て、よこに小さな古い小屋があった。
16:03
門番所。1903年築。重要文化財。
暗くなってきて写真の文字もピンボケ。
16:04
賢治も見上げただろう大木
16:04
岩手大学旧正門
ここで分からないのは、現在、農学部の南がわに「旧盛岡高等農林学校正門」という表札がかかっていること。調べるとここも当時正門だったような記事がある。

いずれにしろ、新制岩手大学になったときはここが正門だったのだろう。その後、北部に拡大するにつれ、キャンパスが開放的になり、正門どころか、門がなくなってしまったような感じだ。

16:05
高等農林の敷地は西側が崖になっていたようで(北上川の河岸段丘?)、岩手大学旧正門に至る道は、両側の民家を見下ろす堤になっている。高等農林時代、馬や荷車が歩きやすいようなスロープにしたのかもしれない。

再び岩手大学農学部のキャンパスに戻る。
16:08
農学部の生協食堂
この日は祝日だが、やはり大学見物はウィークデーが面白い。

16:08
食堂から南は資料館、博物館、植物園などがある保存地区、ここから北に講義棟などがあるようだ。
16:10
岩手大学農学部と言えば、工藤幸司さんを思い出す。
1991年、心循環部門の上司とうまくいかず、ちょうど大阪から中枢神経部門が移ってきたとき異動願いを出し、1992年から合流、工藤さんが上司となった。
彼は豪快な人で、趣味も広く、かわいがってもらった。独身であられたから、よく飲みに誘われ、休日に高尾山へ登ったこともあった。
ただ(細かいことは気にしないため)サイエンスが甘く、理屈っぽい薬理研の主流派からよく攻撃された。彼の美点の一番は、常に新薬を夢見て、思いついたアイデアを若者に語り、まわりの研究員のやる気を起こさせたところだろう。しかし、結局左遷のように、時限的に作った半官半民の研究機関(大阪)に出向させられた。

彼のすごいところは当時は誰も考えなかったアルツハイマー病の診断薬を目指し、アミロイドβに結合する化合物に到達したことだ。それが評価されたか、東北大加齢医学研究所の教授に招聘された。
今は70代後半、どうされているか。
16:11
農学部の学内掲示板に時間割が出ていた。
退職して薬学、生理学から離れて、シェア畑の栽培アドバイザーのアルバイトをし、スーパーの野菜売り場でも働き始めた。いま、私の興味は農業にある。現在の農学部はどんなことを学ぶのだろう、と思って見入ったが、趣味の農業とは程遠く、難しそうで研究生になる気は失せた。

16:12
みれば、掲示板のガラスの内側は昆虫の死骸でいっぱい。

16:13
掲示板の端はガラス戸が開いていた。虫が入るはずだ。
イーハトーブ基金とか、岩大100円朝食とかのお知らせが目に入った。

16:14
学内の木々のそばには「この樹木の名前は?」という問題を書いた板が立っている。ヒントとして特徴も併記されていて、いい教育だと思った。農学部を出たからには樹木、草花の名前を知っていたい。わざわざ勉強することでもないから、こうやって歩いているときに覚えれば一番良い。

農学部の中を北に歩いていると外に出た。
しかしよく見たら、広い道の向こうにまだ大学が続いている。
農学部は岩手大学の南のほんの一部だった。
16:19
岩手大学は1949年、盛岡師範学校(1876年設置)、盛岡高等農林学校(1902)、盛岡高等工業学校(1939)を統合してできた。旧一期校である。一期校というのは戦前の旧大学令で大学であった学校を前身としている大学と思っていたが、ここは例外のようだ。
(1919年に盛岡農科大学への昇格運動があったが)

暗くなってきて岩手大学を後にした。
16:34
夕顔瀬橋と北上川
雨は上がっていたが、岩手山の裾野が少しみえただけだった。

盛岡駅で18時に駒野宏人氏と待ち合わせ。
彼は岩手医大を退職したが盛岡を気に入ってまだ住んでいる。

会うやいなや、いきなり「老けたな~、やせたな~、大丈夫か? どこか悪いんじゃないか?」と正直に感想を言ってくれた。続けて「おれは若いだろう?」と自慢した。相変わらず明るい。

彼の車で雫石川をわたり、盛岡西バイパス、アメリカのように大きいイオンモールの向かい、焼肉ヤマトに入った。学生時代の思い出話もしながら、肉を焼き、最近の政府、マスコミのコロナ対策に対する怒りを語った。(私も彼もワクチン反対)
老けた老けたというので、ラテンダンスの動画をみせてやったら、予想外の動きだったらしく、ひどく感心された。

21:30 夜行バス盛岡駅発
2022‐11‐04 6:54
東京駅鍜治橋駐車場着
道路で降ろされるのではなく、ちゃんと待合室もあるような高速バス発着所ができていた。

7:00
線路の高架をくぐり丸の内側に出る。

KITTEビルの南の樹木のある広場のベンチに座り、リックの中から余っているパンとお菓子を出し、食べながら通勤している人々を眺めた。私は退職老人。

一泊四日(車中2泊)という、家族・友人、みんなに馬鹿にされた旅行が終わった。
2日間歩き続けた足の痛みは、窮屈な座席でも一晩座って癒えていた。
変な自信がついてしまった。
次はどこにしよう。

(完)

今回の旅行ブログ
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17 20221128 旅の終わりは盛岡高等農林と岩手大学

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