2022年11月12日土曜日

弘前のスタバと第八師団、偕行社

弘前城(別ブログ)を南西、博物館、市民会館のわきから出て、追手門通りを渡ると、藤田記念公園。
お城の「菊と紅葉まつり」期間中で入場無料であったが、急ぐので入らず。

通りを東に向かうと市役所の手前にレトロな建物。
2022‐11‐02 10:11
登録有形文化財がスターバックスになっている。

もとは第八師団長の官舎で、戦後米軍の司令官宿舎として使われ、1951年に市長公舎となった。1959年に市役所新築に伴い3分の2が解体され今の形となり、2012年にここへ保存、移築された。
その後2015年、青森県内では5店目、弘前では初となるスターバックスが出店した。

建物は大正時代を感じさせるが、敷地も狭く、周りはアスファルトで道路も広々していて、ちょっと残念。

それにしても、あえて文化財の中に出店したスタバの売り上げはどうなんだろう?
地元の人にとっては普通の店舗でもいいだろうし、観光客も関心があるだろうか。
しかし文化財の保存には貢献していると思う。
内部はとてもカフェに見えない。
ここでお茶でも飲めればいいのだが、とにかく先を急ぐ。

なお、第八師団というのは、6個師団プラス近衛師団で戦った日清戦争が終り、日露戦役を見据えて増設された6個師団の一つで、1898年に師団司令部が弘前に開庁した。兵士はおもに北東北出身者から構成された。所属歩兵連隊は第5(青森)、第17(仙台→秋田)、第31(弘前)、第32(秋田→山形)。
日露戦争直前の師管(軍政・軍の警備のために設けた地域区分)と師団司令部(黒点)

もう少し書けば、増設師団は、北から屯田兵を中心に旭川で編成された第7師団、仙台第2師団から分かれる形でできた弘前の第8師団、名古屋第3師団から分かれた金沢第9師団、大阪第4師団から分かれた姫路の第10師団、広島第5師団から分かれた善通寺第11師団、熊本第6師団から分かれた小倉第12師団である。

ちなみに日露戦争後は下図のようにさらに師団が増える。
日露戦後、宇垣軍縮(1925)まで

すなわち弘前は第八師団の司令部が置かれた、北の軍都でもあった。
兵士は粘り強く、また寒さにも強く、帝国陸軍の精強師団であった。

「八甲田山死の彷徨」は、日露戦争直前の1902年、第八師団が八甲田山で行った雪中行軍の演習中におきた。冬の八甲田山の踏破は満州など寒冷地における戦闘の予行演習でもあったが、また満州に行かなくとも(実際、第七師団と第八師団は当初、ロシアの本土上陸に備え内地にいた)、陸奥湾沿いの青森から弘前への補給路をロシアの艦砲射撃によって破壊されたり、あるいはロシアが八戸に上陸し、その救援に向かうときも必要と考えられていた。この演習では、傘下の第31連隊は5名のみの調査行軍で全員無事だったのに対し、第5連隊は記録的な寒波と吹雪で、210名中199名が遭難死亡した。

・・・
さて、この日、師団司令部跡に行くため、弘前の街を南へ歩く(別ブログ)。
スタバから最短距離で2.8km、35分、弘前大学文京キャンパスにつく。
この日は天気が良くて、東京から厚着してきたから汗ばんだ。

学内をうろうろし、大学資料館、北日本考古学研究センターなどみたあと(別ブログ)、師団司令部の遺跡を探す。
師団司令部は旧制弘前高校の南側、いまの弘前大学の南半分、農学生命科学部、理工学部の場所にあった。
2022‐11‐02 12:20
農学生命科学部校舎のコの字型の真ん中に植込みがある。
中に石碑があった。

12:21
大本営跡の文字だけ読める。

はて、「第八師団司令部跡」とでも書いてあるかと思ったが、これはおかしい。
本営とは、総大将のいる軍営のことで、天皇を迎えれば大本営になる。
陸軍および海軍を支配下に置く、戦時中のみの天皇直属の最高統帥機関であった。
日清戦争では当時鉄道で行けた西の端、広島に置かれて大陸に指示を出し、日露戦争、日中戦争は東京に置かれた。

どうも大正4年(1915)、大元帥である大正天皇を迎え、弘前練兵場で特別陸軍大演習が行われた際、ここ師団司令部に天皇の御座所を置いたことを記念して建てられたらしい。あくまで演習での大本営である。

さて、スタバから弘大医学部保健学科、中央弘前駅をへて、県道127号をてくてく南下してきたが、この県道は戦前、師団道路と呼ばれた。
第八師団の施設が両側に集中していたからである。
県道の西側、弘前大学文京キャンパスには師団司令部、また道路を挟んで斜め南東の柴田学園高校と市立第三中学校の敷地には野砲兵第8連隊があった。さらに道路の西、市立文京小学校の敷地には、陸軍倉庫と衛戌(えいじゅ)監獄。そこから少し南の県立弘前実業高校(上の地図の一番下)の敷地には、歩兵第31連隊があった。

これらの地も行ってみたい気もするが、朝から歩き回って、足と股関節が痛くなってきた。それに、これから青森、八戸に行かなくてはいけないので時間もない。あきらめて弘前駅に向かった。途中、師団道路の東側に偕行社の建物が残っているはずである。

大学前の県道を東に渡ってすぐ、国立弘前総合医療センターなども軍の施設だった。明治30年8月師団司令部に先立ち、弘前衛戌病院として創設、昭和11年弘前陸軍病院と改称された。

旧偕行社はその病院の東隣にあった。
12:31
表札は左が弘前厚生学院、右が旧弘前偕行社

偕行社というのは、陸軍の将校(少尉以上の士官)および准士官のため社交・互助・学術研究を目的として設立された親睦組織で、全国の師団司令部に置かれた。

東京偕行社の集会所は靖国神社の大鳥居の正面(東側)にあった。戦後国有地となり、住宅公団の事務所ビルが建てられた。この建物は、2004年から2013年まで東京理科大学 九段校舎として使用され、現在は九段坂上KSビルとなっている。
また、近くの九段会館は戦前、軍人会館と呼ばれたが、偕行社ではなく、在郷軍人会が運営し、主に軍の予備役・後備役の訓練、宿泊に供された。
12:31
ちなみに、偕行というのは、偕(とも)に行く、という意味で、勝って進軍も負けて傷つき退却の絵も生々しく想像させる陸軍らしい言葉である。海軍の同様の組織は、水に交わるというこれも海軍らしい「水交社」といった。

私も一時、戦後組織である水交会の会員であったことは以前書いた。
ふと偕行社の戦後組織の会員であったことも思い出した。
1998年7月号から2000年2月号まで19冊の「偕行」が残っている。「水交」と同様、レベルが高いだけでなく、戦争当事者の仲間内の生の声(マスコミなど世間を気にしない)など貴重な記事がびっしりで処分できないでいる。
偕行社バックナンバー
海軍の「水交」より記事が読み切れないほど多岐に細かかったが、全体的に暗かった。
満州が戦場となった日露戦争と違い、彼ら陸軍が経験した太平洋戦争は海洋国アメリカが相手だったから、島嶼に派遣される輸送途中で沈められたり、飢えと戦いながら密林をさまよったりしただけで、開戦当初以外、活躍する機会がなかった。

さて、弘前偕行社は戦後、弘前厚生学院に払い下げられ、併設する「みどり保育園」の園舎としても活用され、いまは地域の交流イベントにも使われている。

建物の正面に銅像が二体あった。
軍服ではない。
12:32
野津謙先生(左)と鳴海康仲先生
野津は東京帝大出身の医師でありながら戦前のサッカー日本代表選手であり、日本サッカー協会々長、世界サッカー連盟理事などを歴任した。弘前女子厚生学院理事をつとめ、青森県の保健衛生体育の発展に寄与した。

鳴海は青森医専の設立に尽力し、弘前厚生学院を設立した。
そういえば歩いてくる途中、鳴海病院という大きな病院があったな。
ま、とにかく二人とも軍人ではなく、現在の所有者、弘前厚生学院の関係者である。
12:33
12:35
この地は九十九森と呼ばれた鷹狩場であったが、弘前藩9代藩主津軽寧親(やすちか)の別邸「富田御屋鋪」がつくられた。
1907年、その庭園を利用して偕行社が建てられ、翌年宿泊した嘉仁親王(後の大正天皇)は庭園の美しさを賞して遑止園(こうしえん)と命名したというが、いまは駐車場の向こうに芝生が広がっていた。

12:40
旧偕行社を出て、道路に沿って東に回り込むと、学院正面の開口部から再び偕行社の東側面がみえた。
この学校は、 保育士・幼稚園教諭・介護福祉士を養成する専門学校のようだ。

偕行社を弘前見物の最後にして、青森に向かうため、駅に急いだ(徒歩で)。

ちなみに、軍都だった弘前は、いま市の南の郊外、かつての陸軍第八師団射撃場跡に自衛隊弘前駐屯地がある。第9師団傘下の第39普通科連隊などが置かれている。


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