2024年3月2日土曜日

鎌倉、扇ガ谷から長谷の大仏まで

2月25日、熱海に行く途中、鎌倉に寄り道した。

鎌倉で最も重要と(私が)思う若宮大路と鶴岡八幡をみたあと、さて、どこに行こうか?
何の計画もない。
雨で寒かったが時間はある。

前回1990年ころ来たとき覚えているのは銭洗い弁天から切通しを通って北鎌倉駅まで歩いたことだけ。あと中学校の修学旅行で長野から来て大仏だけ覚えている。

この二つに行ってみようと、鶴岡八幡の前(三の鳥居)から西に向かった。
電柱の住所は鎌倉市雪ノ下。この地名は鶴岡八幡を中心に東西に広がっている。

横大路という落ち着いた通りを行くと右に川喜多映画記念館があった。川喜多長政・かしこ夫妻の平屋の旧宅跡にたち、鎌倉文化人の屋敷の雰囲気が分かる。素通り。

横須賀線の踏切を渡り南下(今小路)。
銭洗い弁天の案内表示があったので西に曲がる。
住所はいつの間にか扇ガ谷(オウギガヤツ)になっていた。

そうか、扇谷上杉氏はこのあたりに屋敷があったのか。
それにしても、いまの住宅街になっても鎌倉室町時代の地名がふつうに使われているとは、さすが鎌倉である。
扇谷上杉氏は、室町幕府の関東支配人といえる鎌倉公方(足利一門)を補佐する関東管領を出せる家であったが、上杉宗家の山内上杉家が管領職を独占した。
太田道灌は扇谷上杉氏の家宰であったが、活躍しすぎて主君上杉定正に殺された。
10:05
扇ガ谷の住宅街。
進むと道は上り坂になっていく。
隧道があった。
10:08 佐助隧道
隧道を越えると住所は佐助。
鎌倉の地名はいい。
道を下るとT字路。
右、銭洗い弁天、左、長谷の大仏。

銭洗い弁天まで行くと前回のように山を越えて北鎌倉に向かってしまうため、先に大仏を見ることにした。左折し南下。
広い道に出て西に曲がり再びトンネル(新佐助隧道)を過ぎて再び南下。
住所は長谷になった。
10:21
前方を女性が歩いていた。
長靴をはき手袋をしていた。鎌倉歩きが慣れているのだろう。
私は普段と同じ、全くの軽装で手が凍えていて反省する。
若い頃なら(かつ住宅街でなく山中なら)声をかけたかもしれないが、顔も見ずに追い越した。

やがて大仏のある高徳院に到着。
漠然と鎌倉の大仏は鶴岡八幡のあたりにあるのかと思っていたが、長谷の大仏と言われることを今更ながら思い出す。

入場料は300円。
息子は以前300円を払わず、外から木々の間の頭だけ拝んで他に行ったという。
10:29
國寶 鎌倉大佛
と、石柱は旧字体で書いてあるため、指定基準が緩かった(広かった)旧国宝かと思って調べたら、1950年からの文化財保護法でも国宝になっていた。
(旧国宝は美術工芸品5,824件、建造物1,059件だが、新法では902件、230件と5分の1以下に減っている。)
10:31
銅造阿弥陀如来坐像
牛久大仏やら板橋の東京大仏やら今は多くあるが、近世以前のものが現存するのは奈良東大寺と鎌倉の二つだけで、ともに国宝である。

日本三大仏というのはこの二つが確定していて、3つ目の候補が富山の高岡大仏と岐阜市の正法寺大仏である。奇しくも(大仏に興味がないのに)4つとも訪ねている。奈良は高校の修学旅行と2004年京都出張のついでに行ったが記憶にない。高岡は大仏基部の内部に入った。岐阜は早朝で開いておらず外から建物だけみた。
10:35
大仏のまわりは回廊になっていて木のベンチがある。寒かったが座ってほっとした。雨に濡れたリックから、観光案内所でもらった鎌倉の地図を出し、来た道を見たり、行く道を考えたりした。

高徳院はいま浄土宗の寺だが、開基(創立者)と開山(初代住職)はともに不詳。
最初は真言宗で、のち臨済宗に属し建長寺の末寺となったが、江戸時代に芝増上寺の祐天上人による再興以降は浄土宗に属し、材木座の光明寺(浄土宗関東総本山)の末寺となった。

鎌倉時代に書かれた編年体歴史書「吾妻鏡」によれば、1238年、ここ深沢の地で大仏堂の建立が始められ、5年後の1243年に開眼供養が行われたという。しかしこれは木造で、1252年から「深沢里」にて金銅八丈の像の造立が開始されたとある。
10:41
ここの由来記によれば、浄光という僧が勧進(資金集め)して作ったらしい。鎌倉幕府ではなく民間からの資金という。最初の木像は強風で倒れたと書いてある。
大仏を覆う大仏殿は当初存在したが、1335年、1369年に強風で倒壊、その都度復興された。しかし1498年の津波で流されてからは再建されず露座の大仏となったようだ。
残った本尊も1923年の関東大震災で基壇が崩れ1メートル沈下したという。

隣に大きな藁草履があった。
10:42
大仏様の藁草履
常陸太田市の子供会が奉納した。戦後間もない1951年、大仏様に全国を歩いて万民を幸せにしてもらいたいという願いから作られた。まだ素朴な神仏信仰が残っていた。以後3年ごとに奉納されているという。
長さ1.8メートル、幅0.9メートルという大きさが、大仏の大きさ(座像の高さは11.3メートル)から計算されたものかどうか知らない。

体が冷えたのでトイレを借りて退出した。
10:44
高徳院は寺院だが、境内図を見ても仁王門の他は事務所、売店やトイレしかない。
離れた場所に本殿など伽藍のある寺域があるかと思ったがこれで全部である。
本殿は本尊すなわち大仏を安置するところ。ここになければない。
御本尊が巨大ゆえに本殿が構造的に弱くなり、また再建が難しかったのだろう。
10:45
ゆっくり見たが結局15分ほどで退出した。
券売所には多くの外国人が並んでいた。

帰宅後、昔のアルバムを開いてみた。
1971年4月
信州から2泊3日なのに油壷水族館、城ケ島から鎌倉、横浜港、国会議事堂、皇居、東京タワーなど盛りだくさんだった。
このとき我々は鎌倉大仏の前で生まれて初めて、なまの外国人を見た。大仏より興味深く、外人だ、外人だ、と小声で遠くから見る中、女子の一人が勇敢にも「サインしてください」と話しかけたのにはびっくりした。
それ以外は何も覚えていない。

(続く)

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