2024年3月5日火曜日

鎌倉4 源氏山から北鎌倉へ、懐かしい歌と

2月25日、鎌倉に来た。

大船から東海道線から分かれ北鎌倉駅に近づくと線路わきの民家に風情がある。
かっこいいギターのイントロのあと始まる、岡本正の「北鎌倉」が浮かぶ、というより湧いてきた。

♪ 北鎌倉で降りて歩いてみませんか
もう落ち葉が肩先にまつわりつきますよ ♪

大学1年のとき1975年に出た名曲だが、北鎌倉では降りず、次の鎌倉駅まで行った。
冷たい雨の中、2時間ほど歩いて若宮大路、鶴岡八幡宮、長谷の大仏、銭洗い弁天を周ってきた。
(前のブログ3つ)
銭洗い弁天の入口トンネル(参道)からさらに坂道を上ると源氏山。
これを越えて北鎌倉に出るつもり。

1990年ころ、初めて鎌倉を歩いたときも銭洗い弁天から切通を通って北鎌倉へ出た。30年以上前の記憶を引き出したかった。

今度は、さだまさし(グレープ)の「縁切寺」が出てくる。これも1975年。
 ♪
 今日鎌倉へ行ってきました
 二人で初めて歩いた町へ
 今日のあの町は人影少なく
 思い出に浸るには十分すぎて

 源氏山から 北鎌倉へ 
 あの日と同じ道のりで
 たどり着いたのは縁切寺
 
(以上1番)

ちょうどサビの部分が
 ♪源氏山から 北鎌倉へ あの日と同じ道のりで♪
だからまさにこの日の状況。
11:28
源氏山公園
源氏山は、奥がずっと山地になる他所と違い、屏風あるいは城壁みたいに頂上は馬の背になっている。だから鎌倉は防御が固く、また切通しが多いのである。
11:33
頂上の広くなったところに源頼朝の像が鎌倉の街を見下ろしていた。
1980年に頼朝の鎌倉入り800年を記念して建立されたという。いかにも最近作ったようで、写実的である分、本当にこんな顔だったのか、と考えてしまう。写真のない人の銅像を今になって作るのは難しい。
11:35
北鎌倉に出るには源氏山からこの坂を下りなくてはならない。

この日は15時から熱海でダンスをすることになっていた。
一泊のダンス旅行で参加者がほとんど年配の女性だから、男性スタッフとしてアルバイトを頼まれたのである。
荷物を持つのは嫌なので、コートを脱げばすぐ踊れるような格好で来た。つまりズボンもダンスパーティー用だった。
リックを背負い、片手は傘を持ってるし、落ち葉も雨でぬれて滑りそう。
普段なら平気だが、今回はお洒落なパーティの前に転んで泥だらけになったら着替えもないし大変である。

最初は慎重に足を運んだが、滑らないような平らな石の上などを狙って足を置こうとすると、どうしても大股になる。下り坂で大股だとどうなるか? バランスをとるため「おっとっと」と自然とすぐ次の足も出てしまうから、図らずも勇ましく駆け降りる形になった。
義経の鵯越(ひよどりごえ)の逆落としである。
途中、道を戻ろうかと思ったが手遅れ。
降りるしかない。
11:37
走り下りながらも、振り子のように脇の草の斜面にわざと突っ込み必死にスピードを殺す。幸い無事きれいな道まで降りられた。足元は泥だらけ、靴下までびしょびしょに濡れた。
11:39
降りた坂は仮粧坂(けわいざか)だった。
この切通しは鎌倉七口の一つで、武蔵に向かう鎌倉街道が通っていたらしい。
11:41
このあたりの山は砂岩である。
鎌倉石と呼ばれ加工しやすいため様々に利用された凝灰質粗粒砂岩であろう。
海で堆積して隆起、柔らかいから浸食され、鎌倉の複雑な地形を生み出した。
11:44
歩いていて何気ない場所に横穴がある。
お地蔵さんでもおはすかと覗いたが、何もなかった。
11:48
北鎌倉に出るにはもう一つ山を越えねばならない。
ここでスマホの地図をみたが山を越える道はない。
地図にはなくとも細道があるかもしれないと家々の間を奥まで進んだが行きどまりだった。

下まで戻り、地図にある亀ケ谷坂切通しを目指して東へ進む。
横須賀線の線路をくぐり、亀ヶ谷坂方向に曲がるT字路にお堂があった。
11:53
海蔵寺・岩船地蔵の堂
千駄木の隣、文京区向丘には海蔵寺(富士信仰を広めた身禄の墓あり)、また信州中野の実家の近くにも岩船地蔵があることから写真を撮った。
11:54
畑の向こうの崖にいくつかの横穴
戦時中の防空壕か、それとも米軍の相模湾上陸も考えた施設か。
あるいは単なる農家の貯蔵庫か。
11:58
亀ヶ谷坂切通
降りてきた化粧坂とともに鎌倉七口の一つ。他の5つは西の極楽寺坂、大仏切通、東の巨福呂坂、朝比奈切通、名越切通である。
http://yoko74.kids.coocan.jp/source/hike/kamakura/nagoshi/main.html
11:59
登ってきた亀ヶ谷坂を振り返り、
記憶は朧ながら1990年はこの切通を通ったことを確信する。

亀ヶ谷坂を下りると広い道に出た。
12:07
県道21号(横浜鎌倉線)
坂を境に電柱の住所は扇ガ谷から山ノ内に変わっている。
そうか、山内上杉氏はここ北鎌倉に屋敷を構えていたのか。
むこうに横須賀線の踏切が見えた。

上杉氏は武家ではなく公家の藤原氏の出身だが、足利氏と縁戚を結び台頭した。上杉氏4代当主・上杉憲顕(初代関東管領)に始まる山内上杉家が嫡流となり、一族から犬懸・宅間・扇谷の上杉諸家が出た(この4家はそれぞれの屋敷のあった鎌倉の地名を家名とする)。

線路と並行に走る県道をそのまま歩いていくと、右手に池があり、寺の参道が線路で分断されていた。
12:12
門柱は大本山円覚寺。
こんなところにあったのか。

同じ禅宗の曹洞宗が単一教団であるのに対し、臨済宗は15派にわかれ、ここは円覚寺派の本山。同じ北鎌倉の建長寺に次いで鎌倉五山第二位に列せられる大寺。
円覚寺は、中学か高校の歴史教科書にでもあったのかどうか、あるいは昔の30円切手の図案でもあったからか、私が長野にいるときから鎌倉で唯一聞いたことのある寺であった。
12:13
円覚寺参道の踏切から北を見ると、北鎌倉駅のホームがすぐそば。
それにしても境内を横須賀線が突っ切るとは、明治の廃仏毀釈の風を受けたか、軍港に早く鉄道を敷きたかったからか、やや乱暴にみえる。もっとも土地の狭い鎌倉ではどこかの寺の敷地を線路がかすめるのは仕方がなかったのかもしれない。
12:15 円覚寺入り口
円覚寺の舎利殿は神奈川県唯一の国宝建造物であるが、500円払ってわざわざ雨中に奥まで坂を上って見に行く元気がなかった。

その代わり道路を挟んで反対側の東慶寺に向かった。
ここは1990年、初めて鎌倉を歩いたとき、つまり銭洗い弁天から北鎌倉駅まで歩いたコースで立ち寄った唯一の寺院である。
12:19
すっきりしている。
仰々しい楼門、山門などはなく「松ケ岡」「東慶寺」と二本の柱が立っている。

東慶寺は臨済宗円覚寺派。山号は松岡山、寺号は東慶総持禅寺という。1285年の開山は北条時宗夫人・覚山志道尼。後醍醐天皇皇女が第5世住職となったことから、御所寺、松ヶ岡御所とも呼ばれ、鎌倉尼五山の第二位に列せられた。

女性から離婚できなかった江戸時代には上州太田の満徳寺とともに幕府・寺社奉行も認める縁切寺であった。尼寺で男子禁制であったこともあり、逃げ込めば助かるから駆け込み寺とも呼ばれた。
12:22
尼寺の特徴か境内に大きな堂宇はない。
梅の木を見ながら奥に登れば木々に囲まれた墓地がある。

先に書いたさだまさし・グレープ「縁切寺」はこの東慶寺のことで、歌詞2番以降は、

ちょうどこの寺の 山門前で
君は突然に泣き出して
お願いここだけは よしてあなたとの
糸が切れたら生きていけない

あの日誰かに頼んで撮った
一枚きりの一緒の写真
収めに来ました 縁切寺

君は今頃 幸せでしょうか
一度だけ街で見かけたけれど
紫陽花までは まだ間があるから
こっそりと君の名を呼ばせてください

人の縁とは 不思議なもので
そんな君から 別れの言葉
あれから三年 縁切寺

あれほど別れを恐れていた女性が自分から縁を切ってしまった。ちゃっかり新しい男を見つけたのか、それとも愛し合いながらすれ違いを重ね別れざるを得なかったのか、後者であってほしい。
12:23
1990年ころ初めて鎌倉を歩いたのは、鏑木さんの家に焼香に来たときだった。皆がまっすぐ帰る中、吉川公平氏と一緒にまわった。さだまさし同様、源氏山から北鎌倉におりて、吉川氏はこの木立の中でセミの抜け殻を見つけた。そして子供へのお土産にするのだと言って、駅の売店でお菓子を買い、その空き箱にそっと入れた。
12:26
東慶寺は文化人の墓が多いことでも知られる。
鈴木大拙、西田幾多郎、岩波茂雄、和辻哲郎、安倍能成、小林秀雄、高木惣吉、高見順、野上弥生子、前田青邨、川田順など。
晩年鎌倉に住んだ人々としても、寺は他にもある。どういう理由だろう。

年配の男女数人が出口近くで雨を見ていた。
文学・歴史散歩のグループだろうか。
12:26
門を出てから説明板を見れば、文化人の墓だけでなく文学関係の石碑もあるらしかった。
1つも見なかったが境内に戻って探す元気はなく、北鎌倉駅に向かった。
12:32
駅前の地図で北鎌倉には明月院もあったことに気づいた。
裏山を越えれば今泉の住宅地。1977年薬学に進学したときの同級生、天野美弦さんと学部長の水野伝一先生が住んでいらした。天野さんは母上が明月院にお布施をしていたこともあり裏口から入れたとか。

ずっと降っている雨は冷たい。
この日は最高気温が5.8度(東京)までしか上がらなかった。
明月院は近いけど、とても行く気にならず駅の改札に入った。
12:33
向こうの下り線ホームは無人改札だった。

明月院はアジサイ寺とも呼ばれる。
「北鎌倉」「縁切寺」と同時期によく聞いたのは、北川とみの「あじさい寺」(1976年2月)
   
       ♪ 夏の初めの 雨に誘われ 
         ひとり来たのよ あじさい寺に
         絹の糸ひく 雨の石段
         どこか 空似の人が行過ぎる
           むかし むかし このお寺に 駆け込んだという
           女の人の哀しみが 痛いほどわかる
         うす紫の 花のしずくが
         滲みていそうな 古都の昼下がり

         思いがけない 雨のいたずら
         花の向こうに 立っている人
         忘れもしない そうよ あの人
         そばで かわいい人が笑ってる
           むかし むかし このお寺に 駆け込んだという
           女の人の哀しみが 痛いほどわかる
         傘に隠れて 降りる石段
         濡れた足元 雨は降りしきる

さだまさしの「縁切寺」では、傷心の男性が一人昔をしのんで鎌倉に来るのだが、「あじさい寺」では女性が一人訪ね、そして偶然にも昔の恋人を見てしまうのである。

当時、「むかしむかし このお寺に駆け込んだという 女の人の哀しみが 痛いほどわかる」
というサビの部分は何回も歌って、あじさい寺=駆け込み寺と思っていた。
しかし明月院は駆け込み寺ではない。

作詞者が間違えたのか、アジサイも咲く東慶寺を無理に「あじさい寺」にしたのか、
なんて考えながら冷たいホームで電車を待った。

岡本正も、さだまさしも、北川とみも、恋人と鎌倉を歩き、別れ、再び一人で訪れる様子を歌った。これら3つのヒット曲からも分かるように、1970年代の若者は鎌倉にあこがれた。ディズニーランドもUSJも海外旅行もなかった。それを考えると今と昔の若者では心というか情緒の形成具合がだいぶ違うだろう。

デートした幸せなカップルも結婚までこぎつけたものは少ないだろうから、半世紀近く経ち、歌のように一人鎌倉を再訪して切ない思い出にひたる老人男女も多いに違いない。しかし若者と違って老人では詩にならない。

もっとも私のように恋人のいなかった多くのものにとって、1970年代の鎌倉はあこがれだけで終わり、切ない思い出すらない。


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