2024年3月14日木曜日

横浜国大3 創立と国立二期校、連合赤軍

横浜国大にやってきた。
緑多いキャンパスを歩き、大学資料館を特別に開けていただいた。そしてかつてのゴルフ場クラブハウスを見て、学内ローソンのイートインでカップ麺を食べ、理工学部の建物を見学した。
google
横浜国大というと懐かしくは腋毛の黒木香、深夜特急の沢木耕太郎、今だと真鍋かおり、西島秀俊が思い浮かぶが、大学自体は全体的に地味である。
その静かで地味というイメージは、春休みで学生がいなかったこともあるが、キャンパスを歩いても変わらなかった。

頂いたYNU REPORTという冊子には、「企業の人事が見る大学イメージランキング」で全国4位、関東甲信越地域ではトップである(日経、2022)。真面目な調査での高い評価と世間に目立たないイメージのギャップは何が原因だろうと考えた。

1つには歴史、伝統の問題ではないか?
横浜駅から大して遠くない常盤台キャンパスに統合移転が完了したのは1979年。それ以前は戦前の地味な各前身校の場所でばらばらに存在した。三田の慶応、高田馬場の早稲田、本郷の東大、といったイメージができなかった。

横浜国大の前身学校の創立は、
1876年:横浜師範学校(後の神奈川師範学校)。校地は鎌倉など各地に分散。
1920年:横浜高等工業学校(後の横浜工業専門学校)。校地は弘明寺(現南区大岡)
1920年:神奈川県立実業補習学校教員養成所(後の神奈川青年師範学校)。校地は平塚→保土ヶ谷区権田坂
1923年:横浜高等商業学校(後の横浜経済専門学校)。校地は設立時は横浜高工に同居、のち南区南太田町清水台。

横浜高商、横浜高工は官立(国立)であり、東京に近かったため設立は遅かったが、旧高等専門学校の中ではとくに人気が高かった。2つの師範学校も1944年に県立から官立に移管された。

戦後、各県に一つ国立大学を設置するにあたり、1949年この4つが母体となり横浜国立大学ができた。
本来、横浜大学となるはずが、旧制横浜市立経済専門学校(創立1882、商専昇格1928)、旧制の私立横浜専門学校(1930)も新制大学への改組にあたって同じ大学名を申請した(「神奈川より横浜が好まれるのは今も同じ)。
三者間で協議を行い、各校は「横浜大学」の名を使わないこととなり、まっさきに私立横浜専門学校が神奈川大学の名にかえた。結局、国立、市立を校名に入れることで決着。
戦後、他の地区では、旧帝大が地名のみとなり、公立大学が東京都立大、京都府立大、名古屋市立大などとしたのと対照的である。

さて名前だけは単科から総合大学となったものの、各学部は前身校の狭いキャンパスにいたままだった。これでは存在感が薄い。しかし1967年、ゴルフ場跡地を購入、キャンパスを造成し、1979年移転、統合を完了した。
統合キャンパス予定地(撮影日1967₋05₋16 国土地理院)

ところで、横浜国大はイメージが薄いと書いてきたが、我々の年代のものが思うのは「二期校の雄」という言葉だった。

二期校というのは国立大学の区分で1978年まで存在した。
私は1975年に大学受験したが、当時国立大学は入試日程が二つのグループに分かれていた。一期校は3月上旬、二期校は3月下旬で、国立大学は2回受けられた。この区分というか制度は戦後の1949年に始まり、私が受験した4年後1979年に始まった共通一次試験の導入で廃止された。

一期校には旧帝大や旧官立大学を設立母体の一部にもつ大学が、二期校には横浜国大など戦後の新制大学が入った。
旧官立大学というのは戦前、国が設置した旧制専門学校が大学令によって大学に昇格した学校でほぼ単科大学である。「官立」と言い「国立」とは言わなかった。

 東京商科大学(1920)
 神戸商業大学(1929)
 東京工業大学(1929)
 新潟医科大学(1922)
 岡山医科大学(1922)
 千葉医科大学(1923)
 金沢医科大学(1923)
 長崎医科大学(1923)
 熊本医科大学(1925年県立、29年に官立移管)
 東京文理科大学(1929)
 広島文理科大学(1929)
医科大が多いのは、(仙台を加え、熊本、名古屋を除くと)旧制高等学校(官立)の学部として出発し、旧制高校が帝大予科となったとき医専として独立したが、設立が古く他の専門学校とは別格だったから大学令で昇格した。また、文理大学は高等師範学校の卒業生が進んだ研究科が昇格したもの。

この11校の他に、旅順工科大、神宮皇学館大(戦後私立に)、大阪工大(1929設立、33年大阪帝大に吸収)、名古屋医大(1920県立、1931官立移管、1939名古屋帝大に吸収)があった。

旧帝国大学は台北と京城をのぞけば
 東京大学(1877)
 京都大学(1897)
 東北大学(1907)
 九州大学(1911)
 北海道大学(1918)
 大阪大学(1931)
 名古屋大学(1939)
の7校で、大阪と名古屋は官立大学より設立はあとだが、大学令ではなく帝国大学令で設置された総合大学であり、別格であった。

一期校はこの18校では少ないので、戦後の新制大学も特殊性(東京芸大、お茶大、奈良女子大、東京水産大など)や地域性(岩手、三重、鳥取、徳島、高知、宮崎など)から加えられた。(恐らく一期、二期の定員を調整したのだろう)

当時は今より国立大学の人気が高かった。
まず学費が安い。私のときは年額36,000円(月額3,000円)だった。その4年前までは3分の1の月額1,000円、タダのようなものである。キャンパスの広さを含め設備、教育環境は圧倒的に優れていたし、官尊民卑の雰囲気は今より強かった。なにより大学進学率が低かったから相対的に国立大学の学生が多く、(特に地方では)大学というと国立大学というイメージがあった。

(その後、私学の入学定員が飛躍的に増え、人気も高まっていった。そして一期、二期の区別のなくなった地方の国立より都会の私立を選ぶ学生が増え、私の15年ほど若い長野の従弟のように旧一期校の金沢が受かりながら東京理科大に進学するものも出てきた。)

とにかく、新制・横浜国大は、首都圏で埼玉大、電気通信大、東京医科歯科大、東京外語大、東京学芸大、東京商船大、東京農工大などとともに二期校になった。
しかし一期校の東大を受験するものが併願したから、横浜国大のレベルは高かった。問題集などで(横浜国大・73年)などとあるとちょっと目を止めた。
今の横浜国大より存在感があった。

そして大して成績の違わなかった高校の同級生が東大に行き、自分は落ちて横浜国大の小さな地味なキャンパスに通うようになったら、悔しく思う学生もいたに違いない。

(もっとも、制度発足当初は流動的で、横国は49年、53年は一期校。54年も大学として選べたようだが、53年の工学部の倍率が下がり、首都圏の状況を考えて二期校に戻った。経済学部は20倍もの入試倍率ながら、「二期校の雄」と「二期校コンプレックス」を同時に抱えることになった。https://www.econ.ynu.ac.jp/about/history/pdf/03.pdf)

・・・・
今回、横浜国大に来て、資料館に入れてもらったとき、とても珍しいものを見た。
2024₋02₋26 13:50
1970年代前半、まだ学生運動が盛んだったころの学内看板である。
これに一番感激した。よく残っていたものだ。

  告示
 本学構内における左記の行為は禁止します。
  記
 一.集団による示威行為。
 一.ヘルメット、覆面等の装着。
 一.ゲバ棒、凶器類の持ち込み、所持。
 一.投石その他の暴力行為。
 一.教室等施設の不法占拠。
 一.(略)
 横浜国立大学長

水素エネルギーのパネルなどが目立つ資料館で、この看板だけポツンと1つあり、とくに何も説明はなかったが、そう、横浜国大は過激派学生が多いことで有名だった。

柴野春彦(1946年生まれ、1966年入学)は日本共産党(革命左派)神奈川県委員会(のちの京浜安保共闘)の幹部で、1969年12月からは獄外最高幹部となった。1970年12月銃を奪うために交番を襲撃し、警官に射殺された。

寺岡恒一(1948年1月生まれ)も京浜安保共闘の軍事部門幹部でのちに連合赤軍中央委員(序列4位)となるが、1972年1月、委員長の森恒夫に死刑を宣告され、山岳ベースでリンチ処刑された。(あさま山荘事件の1か月前)

もっとも有名なのは吉野雅邦だろう。連合赤軍中央委員(序列は7位)。妊娠した妻が「総括」の対象となり、自分も総括対象になる恐れがあって見殺しにせざるをえず、妻の処刑後2週間で残った序列3位の坂口弘をリーダーにあさま山荘事件を引き起こした。

このほかに多くの「一般」過激派学生がいた。彼らの友人として一時的に「活動に付き合う」者もいただろう。

ちなみに、連合赤軍とは、1971年7月、共産主義者同盟赤軍派と京浜安保共闘革命左派が合流し結成された。12月上旬に南アルプスで合同軍事訓練を行い、下旬には群馬県の山岳地帯に警察の目を逃れるための拠点として「山岳ベース」を構えた。しかし極寒のなか外部の援助もなく組織は疲弊し、2か月の間に29人いたメンバーは、12人が総括(リンチ)で処刑され、4人が脱走、そして森、永田を含む8人が逮捕され、残った5人が長野県側に逃走し、1972年2月19日、銃撃戦を繰り返しながらあさま山荘に逃げ込んだ。
私が中学3年の冬、茶の間のコタツで高校入試の勉強をしていたときである。

この年は札幌オリンピックが2月3日から2月13日まであり、笠谷金野青地のジャンプ陣が表彰台を独占した。その興奮が冷めないうちに、今度は雪のあさま山荘で籠城する連合赤軍と警官隊の対決が19日から28日まで10日間もテレビ中継された。包囲された犯人たちは発砲を繰り返し、機動隊2人、民間人1人が死亡した(重軽傷者27名)。民放、NHK合わせた視聴率は最高89.7%に達した。

これによって連合赤軍の残忍さを全国民が突如知るところとなる。その後、総括、リンチが流行語となり、メンバーの出身大学、出身高校まで紹介された。岩田平治氏ら長野県の名門・諏訪青陵高校出身者も2人いた。(高校生でも社会意識の高い、ませた生徒の多い進学校では学生運動があった。)
そういう恐れのある進学校への入試の終わった私に、父は「ああいう人には近づかないように。本人だけでなく家族もみんな大変なことになる」と言った。
(籠城5人のうちの一人、坂東の父は28日全員逮捕のテレビを見た後、自宅で首を吊った)

これを書くにあたって「十六の墓標」(永田洋子・序列2位、共立薬科)を段ボール箱に探したが見つからなかった。資源ごみに出してしまったようだ。

さて、横浜国大の話に戻る。
吉野は1948年杉並区に生まれ、父親は東京帝大法学部卒、千代田区立麹町小、麹町中から都立日比谷高校を経て、東大志望であったが結局一浪し併願していた二期校の横浜国大経済学部に入学した。

事件後、連合赤軍の序列4位、7位はじめ、横浜国大に過激派が多かった原因の一つに「二期校コンプレックス」があったのではないかとされ、横浜国大学長の越村信三郎が参考人として国会に呼ばれた。
そして、はやくも1972年4月の第68回国会衆議院文教委員会で文部行政として一期校と二期校という問題を解決する必要があるのではと提起され、これに対して高見三郎文部大臣は、国立大学の入試は1回の共通テストで行うという形式にすれば良いのではないかと回答した。
そして1979年、共通一次試験が導入され、一期、二期の区別はなくなった。

吉野、柴野、寺岡らが入学したのは1966、67年ころ。この年、横浜国大は経済、工学、教育学部を統合するため、広大なゴルフ場跡地を取得した。しかし彼らは昔からの狭いキャンパスで大学生活を送った。連合赤軍結成の1971年は校舎の建設も始まっておらず、移転は1974年に始まり79年に終わった。
もう少し早く、広く明るいキャンパスに移れていたら、二期校コンプレックスはあっても、彼らは他学部の学生と軟派で華やかなサークル活動を楽しんでいたかもしれない。

今回、横浜国大のキャンパスを歩いた。
学生には昔のようなコンプレックスなど全くないだろう。しかし同時に大学偏差値輪切り現象の一環に組み込まれ、良くも悪くも「フツーの大学」となり、かつてのような地頭がよく「二期校バネ」のかかった骨のある学生はいなくなり、対外的には「目立たない」、学内的には「おとなしい」キャンパスとなった。

しかし私は来てみて、この大学の環境、設備、雰囲気に感心し、好きになった。
皆が気付いていない、お得な感じがする。
身内で迷っているものがいたら背中を押す。

0 件のコメント:

コメントを投稿