2024年3月7日木曜日

熱海へダンス旅行 貫一お宮の松の由来

2月25日、熱海に来た。

ダンス旅行スタッフとしてのアルバイト。

熱海は少なくとも2回は来ている。
最初は1985年9月の社内旅行。
1991年6月には山田ゾウさん夫妻と昭和電工の保養所(昔の偉い人の別荘)に泊まった。
また84年、90年の社内旅行も伊豆だから記憶にないが熱海を通っているかもしれない。

しかしその後、熱海は縁がなかった。
鎌倉や京都などと違って、本来、一人旅するようなところではない。
宴会も温泉も興味がない私には関係なかった。
13:59 熱海、駅前広場
熱海のホテルの多くは海辺にある。駅から海へ降りる坂には、土産物の仲見世アーケード街があるが、今回初めてアーケードが2本あることに気づいた。
14:00
平和通り名店街
14:01
こちらは仲見世名店街
午前中歩いた鎌倉と対照的にここは日本人が多い。
特に若者のグループが多いのは意外だった。
14:05
改めて考えると、今まで通っていた土産物店は仲見世通りだったのか平和通りだったのか分からなくなってきた。
14:06
こちらは平和通り

熱海は文字通り海の中から温泉が出ていたのだろう。当然陸にも湯は湧き出ていただろうから、古い温泉地と思われる。源頼朝が流され北条氏らの本拠地だった伊豆と鎌倉の間だから鎌倉時代には様々な人が湯浴みを楽しんだことだろう。まともな医薬のなかった時代、湯治場としての価値もあり、徳川家康なども訪れたとか。

しかし明治になって政府要人、富裕層などの保養地になっても、今のように関東地方全体の一般庶民が気楽に宴会に来るわけではなかった。
鉄道がなかったからだ。
今でこそ東海道線も新幹線も止まるが、当初の東海道本線は国府津から御殿場経由であり、小田原、熱海を通らなかった。

明治29年(1896)には熱海から小田原(鉄道馬車が来ていた)まで「豆相人車(ずそうじんしゃ)鉄道」が開通。4〜6人乗りの客車を2〜3人の人夫が押し、約25kmを4時間で結んだとか。運賃は相当高かったらしい。江戸時代のかごをほうふつさせる。
ようやく1907年に蒸気機関車の軽便鉄道に代わり、大正14年(1925)国府津駅- 熱海間が「熱海線」として開通、東京からぐっと近くなった。
難工事だった丹那トンネルが開通、国府津 ~ 熱海~沼津の東海道線ができたのは昭和9年(1934)である。

サラリーマンの宴会は昭和30年代の高度成長時代からか。

ホテルの送迎バスがいっぱいだったので雨の中、歩いた。
下り坂なので問題なかった。
14:19
ニューフジヤホテル到着
社交ダンスは斜陽であり、東京でも新宿ステレオホール、有楽町東宝ダンスホールが閉店した昨今、熱海でダンスホールがあるのは(ネットで検索する限り)ここだけのようだ。

15:30からダンス90分、(仕事)
バイキングの夕食を挟んで
19:30からダンス90分、
21時過ぎに雨の降る露天風呂に入る。
その後、我々スタッフは主催者の部屋に集まり、何十年ぶりかの乾きものと缶ビールの部屋飲み。
久しぶりに酔ったまま寝た。
6:10
翌朝、2月26日 部屋の窓から。
前日の鎌倉と違っていい天気になりそうだ。
同室の西田さんが朝風呂に行くというので一人で散歩に出た。
6:22
左の奥がニューフジヤ
右は和菓子の「熱海・本家ときわぎ」
向かい(写真手前右)がやはり和菓子の「常盤木羊羹店 総本店」であるが両者の関係は知らない。双方とも歴史ある建物。
この銀座通りを(背後に)まっすぐ下れば海だが、南隣の糸川沿いの遊歩道を下ることにした。
6:24
糸川の御成橋
「春の夜の 夢さへ波の 枕哉」
徳川家康の熱海入湯句碑があり、「御成り」というのは家康のことか。しかし橋はいくつもあり、ここを御成橋と名付けた理由が分からない。
6:25
この遊歩道にはいくつものオブジェがある。
誰かがタコを洗ったまま忘れたかのようなシュールな作品。
6:27
橋の欄干が竜(怪獣?)になっている
6:28
鶴亀でなく亀とマンボウ。
さっきのタコとは作者が違うような同じような。
6:28
「せいえう」坪内逍遥の歌碑
この遊歩道は密度濃くいろんなものがあるが統一性はない。熱海らしい。
6:28
このオブジェは花の電球のようなものがぶら下がっている。
6:29
あたみ桜の基準木
知らなかったが、早咲きで有名な河津桜より1か月早く咲くらしい。開花は1月から2月上旬、すでに葉桜になっていた。温泉の湯気に当てればもっと早くなったりして。イタリア人が明治4年にレモン・ナツメヤシとともに熱海にもたらしたという。
6:30
橋の欄干が大波になったところで海が見えた。

国道135号線を渡ると浜に出る。
6:33
わずかに遅れたが、日の出を見るのは初めてかも。
月曜朝とはいえ泊っている客は相当いるはずだが、散歩の人はあまりいない。
6:35
橋田寿賀子顕彰碑
熱海名誉市民のようだが、生まれ育ったわけでもなく、成功してから温泉保養地の別荘に住んだだけというのは、熱海と結びつく物語が浮かばない。熱海はこういう文化人が多いだろうから、彼女だけ立派な碑を建てる意義は他にあるのだろうか。
向こうの像は「おしん」かと思ったが、江戸幕末の義民、釜鳴屋平七。こちらは熱海の網元。貧しい漁民の側にたち代官所に直訴、4年投獄のあと八丈島に送られる途中死亡したから、ここに立っていてよい。
6:38
熱海サンビーチ
向こうの大型クルーズ船のような建物は、ウイスタリアンライフクラブ熱海。
藤田観光が1982年に建てた会員制ホテル(今は一般人も利用可能?)。
1991年の写真にも写っている。
一部は分譲リゾートマンションになっているらしい。苗場、湯沢あたりのマンションは暴落しているが、ここは東京に(心理的に)近いから需要はあるだろう。
1991年6月

熱海の海岸で一番の名所は、貫一お宮だろう。
記憶の像は、昔実物を見たのか、テレビなのかどうか分からない。
当然場所が分からず犬を連れた地元の方らしい男性に聞くと丁寧に説明してくださった。40代くらいの、まだお若いのに話は枯死した初代の松や釜鳴屋平七にまで及び、こちらは朝食時間もあるので切り上げさせてもらい、現場に急ぐ。
6:43
貫一お宮の像(1985)
主人公の間貫一は一高の秀才。許嫁のお宮がダイヤモンドの指輪に目がくらんで富豪に嫁いでしまい、腹を立て、熱海の海岸でお宮を問い詰め、復讐を誓う。
「来年の今月今夜のこの月を、僕の涙で曇らせてみせる」(金色夜叉)

このセリフ、声に出してみると、現代なら、別れを切り出された男が(ギャグでも)これを言ったら、女は(笑えばまだいいが)頭がおかしくなったとびっくりするだろう。

ちなみに、今月今夜(1月17日)の月は形が変わらない旧暦ならもっと良かった。明治5年に施行された太陽暦では毎年、今月今夜の月は形が変わる。しかしここでは曇るかどうかが重要だから問題ない。なお蹴っている足は下駄であるが、原作では靴を履いていたらしい。
新聞連載だった『金色夜叉』は完成前に尾崎紅葉がなくなり、弟子の小栗風葉が完結させたという。

尾崎紅葉(1868年江戸生まれ、帝大中退)は35歳で早逝し、意外なことに記念碑、記念館などが全国どこにもなかったらしい。
そこで紅葉の孫の尾﨑伊策氏(当時85、横浜市)から、記念碑があってもいいのではないかという提案が市にあり、紅葉生誕150周年の2017年に制作が具体化。肖像の陶板と碑文の黒御影の費用は尾﨑伊策氏が、周囲、土台となる白御影石は熱海市が負担して2019年1月17日建立序幕された。
6:43
お宮の松(2代目)
本来は「貫一お宮の松」だろう。
金色夜叉の爆発的なヒットにより、足蹴にした場所を探す人が増え、1919年門人の小栗風葉の句が刻まれた「金色夜叉の碑」が松の傍に建立されるとそこが現場となった。松はそれまで羽衣の松と呼ばれていたが、以後お宮の松と呼ばれる。樹齢300年の松は道路の真ん中にあり、両脇を人馬、次いで自動車が通ったため衰え、1966年2代目が海寄りに植えられ、碑も移設された。さらには1985年足蹴の像まで作られ、熱海一番の観光資源として「現場」が確定した。

しかし橋田寿賀子顕彰碑といい貫一お宮といい、熱海の土地に根差したオリジナルのものではない。温泉客を相手にした人工的なにおいがする。

散歩しても町・民衆の歴史が分かるような名所がなく、海を眺めるしかない。古い城下町や古都と違い、熱海はやはり、夜遅くまで飲み食い騒いで、朝は寝坊して、散歩でなく風呂に入る町なのである。
6:49
ホテルのある熱海銀座にもどってきた。
今は眠ったままだが夜はネオン輝く街になるのだろうか。
6:52
ホテルに戻り、7時から昨夜と同じバイキング会場で朝食。
体育館のように広い会場で全館の宿泊客が時間差をもって集まる。料理を補充したり片付ける会場スタッフはほとんど外国人。公式サイトを見るとおとな2名、2食付きで合計22,000~とあった。この価格はこうした合理化努力の結果だろう。

8:30から10:00までまたダンス。
全部終わり、皆より早く一人で出て送迎バスで熱海駅まで。しかし電車まで時間があった。
ぶらぶらと仲見世アーケード街に入る。
10:45
卒業旅行だろうか学生っぽい若者のグループが目立った。
10:46
「熱海プリン」や、小さな食パンの形をした又一庵「熱海ばたーあんパン」は行列ができていた。
私は逆にいちばん暇そうな店で温泉饅頭と小魚せんべいを買った。
スイカが使えなかったが、他に客がいなかったので、まだ1度しか使っておらず慣れていないPayPayを聞きながら試してみることができ、熱海の最後は有意義だった。

熱海までの往復交通費は各駅停車でも4000円かかるから、差し引くとアルバイトというよりボランチアだが、退職有閑老人には良い娯楽アクセントになった。


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