2024年3月20日水曜日

神楽坂2 日本出版クラブ会館「洋書の森」と翻訳

3月11日、月曜。暇なので神楽坂に行ってみた。

自転車は坂を上り下りするからやめて、文京区コミニティバス「Bーぐる」でいく。のんびり座って景色を見ながら後楽園を過ぎハローワーク飯田橋の横で降りた。100円。

飯田橋駅東口の巨大交差点から大久保通りの坂道を上がり筑土八幡、赤城神社をみて神楽坂に来た。
2024₋03₋11 11:57
不動産屋の壁に貼ってあった神楽坂文芸地図

赤城神社の前から神楽坂通りを、いつもと逆方向に飯田橋駅に向かって下っていく。このあたりは来たことがなかったが、大久保通りを越えると見覚えがある。
少し上り坂になり、毘沙門天の善国寺の手前に何回か通った坂道があった。地蔵坂である。

かつて坂を上がった右に日本出版クラブ会館があった。
12:05
日本出版クラブ会館の跡地
マンションになっていた。

日本出版クラブは「出版界の総親和」という精神で、1953年に設立され、57年に会館が落成した。近くに旺文社、新潮社があり、かつて文人が居を構えた神楽坂はその地に相応しい。
日本出版クラブ会館は一階にレストラン「ローズルーム」があり、結婚式、宴会、会議もできた。
そして一階奥に2007年から2018年7月まで「洋書の森」ライブラリーがあった。日本での版権が決まってない洋書を集めた唯一の図書室だった。

洋書の森を知ったのは、2012年2月ダイヤモンド社から依頼された「免疫の反逆」という翻訳本の印刷前ゲラチェックだった。アレルギーと食べ物の関係の話である。翻訳というのは英語力というよりその本の背景知識のほうが重要であり、いくら英語が達者でもライフサイエンスの分野に詳しくないと日本語の選び方におかしなところが出てくる。
1冊分のチェックを終わってあとがきを読んでいると、訳者は「洋書の森」でその原書と出会ったと書いてあった。

洋書の森について調べると、外国出版社の日本エージェントが、日本の出版社に紹介したものの、翻訳出版に至らなかった原書を寄付してできたもののようだった。つまり孤児のような洋書の集合体である。

当時、2007年から趣味で始めた翻訳は5冊出版し、6冊目の「サルファ剤」を翻訳していた。初期の「新薬誕生」、「Diseases]はアメリカに学会出張したとき本屋で見つけたものだった。他はアマゾンで書評を読んで見つけたような気がするが、やはり実物を手に取ってみたい。しかし紀伊国屋、丸善などの洋書売り場では翻訳したいような本はなかった。

「洋書の森」では洋書の現物が手に取れ、無料で借りだすことができる。
さらに良いことは、翻訳権がフリーであることがはっきりしいることである。今まで翻訳したいという洋書が見つかっても、すでに日本の出版社が翻訳権を買っていて誰かが翻訳しているという心配があった。実際、翻訳したかった輸血の歴史「Blood Work: A Tale of Medicine and Murder」は知り合いの出版社に調べてもらったら、すでに日本での版権が某出版社に売れていた。
また、翻訳権を買うための海外出版社との交渉は個人では不可能で、日本の出版社に頼むことになる。「モーツァルトのむくみ」のときは版権を持つアメリカ内科学会と連絡を取るのに苦労した。
しかしここにある洋書は代理店がはっきりしているし、かつ誰も手を出さなかった本ばかりで、そういうもろもろの心配がない。

こうして2012年3月、はるばる埼玉からここ神楽坂の日本出版クラブ会館にやってきた。そして見つけたのが「The Fourth World 」である。

翻訳にもっとも必要なのは、専門家レベルの背景知識であると書いた。そのためそれまで翻訳した6冊は、すべて医学、化学の歴史などであった。しかしThe Fourth World はのちに「人類と世界地図の2000年史」と副題を付けたほど、世界史と地理の話である。唯一の日本版を出版するからには、日本で一番の翻訳をしなくては原書の版権者、原著者に申し訳ない。それができるかどうか少し不安もあったが、たくさん出てくる古地図はとても魅力的で、どうしても翻訳して出版したかった。好きなことなら何とかなるという自信もあった。

当時、私は千駄木の家を買い都心への引っ越しを決めていた。
そして31年間、製薬会社の研究所に勤め、イオンチャネル創薬に関しては国内第一人者の自信があった(極めて狭い分野、対象、趣味なら誰でもそういうものはあるものだ)が、転居と同時にその飯のタネを捨て転職し、違う人生にトライすることを考えていた。翻訳業はその一つで、そのためにはジャンルが広いほうが良い。専門外の「The Fourth World」はその一歩にもなると考えた。

こうして原書を借りて、後日返しに行ったから、神楽坂の「洋書の森」には少なくとも2回は来ている。
「洋書の森」では多くの会員がいて、1,2か月に一度、プロの翻訳家を招いて会館のレストランでセミナーも開かれたようだが、私は一度も行かなかった。そのうち、「洋書の森」は日本出版クラブ会館とともに2018年11月に神保町に移転したことをメールマガジンで知る。

実際に来てみると、跡地はマンションとなり跡形もなかった。
懐かしさから、もう一度見たかったので昔の景色をグーグルストリートビューで探してみた。
2009年11月
東京都新宿区袋町6番地
左:日本出版クラブ会館
右:ユネスコ・アジア文化センター
2024₋03₋11 12:06
マンション入り口に銀杏の木だけ残っていた。
説明板を読めば、樹齢250年以上、新宿区の保護樹木である。戦時中周りが焼け野原になったのに生き残った。焦土に戻った住民たちがこれを目印にして集まったという。

2009年のグーグルストリートビューには銀杏の前に別の説明板がある。記憶では確か江戸時代に幕府天文方の天体観測所(新暦調御用所)がこの地に建てられたという内容だったと思う。マンションになった現在、その板は見当たらなかった。

道路を挟んで日本出版クラブ会館の前は、浄土宗光照寺。
12:08
境内は思ったより広い。
この一帯は牛込台地の突端に当たり、戦国時代、牛込城があったようだ。

牛込氏は、上野国赤城山麓にいた大胡氏を祖とする。一族の大胡重行が北条氏康の家臣として招かれ武蔵国牛込に移り、江戸氏衰退後の牛込郷・比々谷郷(日比谷)を領し、赤城神社を勧進したことは前のブログで書いた(社伝では重行の父・重治の代とされる)。重行の子である勝行の代に牛込と改姓した。北条滅亡後は家康に仕え、旗本として残った。墓はここではなく、新宿区弁天町9 宗参寺にあるようだ。

(よく考えたら牛込氏がいた時代は寺ではないのだからここに墓があるわけない)
代わりに大きな大名墓が目についた。
12:10
出羽松山藩主・酒井家墓所
井伊と並ぶ徳川譜代の名門・左衛門尉酒井家の庄内藩(鶴岡、15万石)から分家し、酒田の松山城に藩庁をおいた。2万五千石。

地蔵坂を戻り再び神楽坂通に出た。
12:15
日蓮宗・善國寺
神楽坂の目印にもなっている。寺の名前ではなく「毘沙門天」と呼ばれる。本殿の前に一対の狛犬ならぬ狛虎の像が置かれているらしいが、毘沙門天像同様、見たことがない。今回も境内に入らず、ランチの場所を探すため通り過ぎた。

平日というのに行列の店があり、近くに行くと中国語の若者グループが海鮮丼の店に並んでいた。それでも銀座や浅草と比べると外国人は少ないような気がする。
結局、善國寺前のとんかつ「さくら」に入った。ロース、メンチ、串カツ3点盛のランチ定食・税込み990円はお得感があった。ご飯キャベツみそ汁お替り自由のせいか、近くの理科大生らしき男子グループもいた。

千駄木、谷中と比べると店の数・種類、料理の質ともに神楽坂のほうが圧倒的に優れていると思った。店の家賃はこちらのほうが高い気がするが、客の多さと多数の店同士の競争によるものだろうか。

食後飯田橋駅に向かってぶらぶら歩いた。
西の路地に東京理科大の校舎が見えた。
13:15
洋書の森のさらに31年前、製薬会社に入る前に理科大の石毛徹夫氏を訪ねた。
1980年11月の就職試験で意気投合し、谷中から自転車で遊びに来たのである。確か神保町の古書店街をまわった帰りだったと思う。
合成化学の研究室の廊下の外は神楽坂の崖の壁が迫っていたから、建物を建て替えても分かるかと思ったが、今の校舎は周辺まで削られたようで何号館か全く分からない。
13:17
西に進むとクラシックな校舎があった。
古そうに見えるが、東京物理学校の木造校舎(明治39年)の外観を1991年に復元建設したもの。無料の近代科学資料館となっているが、月曜は休館日だった。

理科大の裏の高台にあがると若宮公園の先にThe Agnesというホテルの空き家があった。
13:21
理科大が購入し、2021年に閉館したらしい。
少子化の時代、どの大学も都心部のキャンパスを拡大する傾向にある。理科大も周辺で売り物が出れば積極的に買っているようだ。
隣のル・コワンベールはカヌレの店でお土産に買おうかと思ったがやめた。
13:23
外堀通りに降りると濠の向こうは千代田区の高層ビル。
13:23
こちらは理科大のビル
高校3年の頃、1回だけ買ってみた旺文社の大学受験ラジオ講座テキストだったか、高校図書館でみた受験雑誌だったか、その裏表紙に理科大の広告があった。外堀のほとりに並ぶ校舎群を千代田区側からうつした写真で、私の東京理科大神楽坂キャンパスのイメージはずっとこれだった。当時は最新のビルだったのだろうが、今はすべて建て替えられ、さらに高層のビルになっている。

・・・
2012年3月、洋書の森で見つけたThe Fourth World は、古代からの「世界地図」の変遷の物語である。すなわち、ギリシャローマに始まったヨーロッパ文明の知識人の「世界」の範囲が、地中海周辺からどうやってアフリカ、アジア、アメリカまで広がり、地球全体になっていったかを見ていく物語である。

その年の7月に学会で初めてヨーロッパに行き、バルセロナで地中海を見て対岸を想像したころから本格的に翻訳を始めた。しかし、8月から千駄木の家の問題が忙しくなり(リフォーム会社の選定、間取りなど打ち合わせ、そして業者の不正行為)、埼玉の家の売却の難航、転職活動も始まり、さらには健診で肺に影が見つかったりして、7割程度翻訳して中断した。

2013年4月、なんとか転居、転職。
2014年5月、分厚い本で売りにくいにもかかわらず中央公論新社が出版を決定。
11月、翻訳を始めるきっかけとなったファルマシア編集委員会のOBたちと神楽坂、夏目亭で食事会。「洋書の森」は立ち寄らなかったが。
2015年8月、「第4の大陸:人類と世界地図の2000年史」としてようやく出版。「洋書の森」の事務局に報告メールを出すと、会員へのメールマガジンで祝福、紹介してくれた。

この翻訳は今までより背景調査の時間を長く必要としたが、初期の「新薬誕生」の訳文を見たことがある東京化学同人の編集者・井野さんからは「ずいぶん上達しましたね」と褒められた。読書家で知られた出口治明・ライフネット生命会長が読売新聞(9/13)で、また東大の西洋史の樺山紘一名誉教授が日経新聞(9/27)読書欄で大きく取り上げてくれ、専門家好みの本に仕上がったが、売れ行きはいまひとつだった。

まだ翻訳自体はする体力知力がある。しかし出版社に紹介・説得できそうで(売れそうで)かつ自分が面白いと思う原書を探し出したいという元気が出てこない。結局、洋書を選び出せたのは、2012年3月神楽坂のThe Fourth World が最後となった。

もし翻訳を続けていたら、千駄木からは思ったより近いこともあり、頻繁に「洋書の森」に来て神楽坂が自分の庭のようになっていたに違いない。


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第四の大陸--(2015-Aug-07出版)

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