2024年3月3日日曜日

鎌倉3 銭洗い弁天の参道は二つ?

2月25日、最高気温が5.8度(東京)までしか上がらなかった寒くて雨の日、ひとり鎌倉に来た。

若宮大路、鶴岡八幡宮を見た後、鎌倉の閑静な住宅街を歩いて長谷まで来て鎌倉大仏を見た。
10:50
大仏の高徳院を出て案内標識を見ると、近くに長谷寺がある。
そこに寄って長谷駅から江ノ電に乗ってみる手もある。
(ちなみに長谷寺(浄土宗)は徳道上人が奈良の長谷寺(真言宗)に次いで開いた。はせでらと読むのは日本三長谷(大和、鎌倉、信濃)を含む7寺、ちょうこくじと読むのは全国に23寺あるらしい)

しかし来た道を戻り、まっすぐ銭洗い弁天に行くことにした。
11:03
左の一般住宅がそのままカフェになっている。
西(左)に山が迫る閑静な街並みは、京都御室の双ヶ岡、東麓の住宅地に似ている。
ここから鎌倉駅までわずか850メートル、12分である。
環境の良さは確かにあこがれるが、出不精の私では東京と決別する覚悟がいる。


鎌倉は風致地区などが多く規制があり(これは良いこと)、また掘ると遺跡が出やすいため工事が中断したりして、宅地を買って住むには鎌倉ならではの苦労もあるらしい。
カフェやレストランなどが新築でなく一般住宅が多いのは、こういう事情もあるのかもしれない。
11:09
やがて上り坂になると葛原岡神社の案内板。
「鎌倉の縁結び」とある。
若者なら一人でもカップル、グループでも行きそうなところである。
老人は行かない。
11:11
銭洗い弁天に到着
入口は崖に掘ったトンネルに鳥居、宇賀福神社とある。

弁財天はヒンズー教の神が仏教に取り込まれたものだから寺院にあるイメージ。しかし神仏混交を経て、日本三大弁天は、厳島神社、江ノ島神社、竹生島神社であり、神社も多い。
日本人は寺社名でなく本尊名、神名で呼ぶから、ここが宇賀福神社とは初めて知った。
11:12
最近再読した酒見賢一「後宮小説」を思い出す。
トンネルを出ると山に囲まれた窪地の空間
弁天様は砂岩をくりぬいた洞窟の中のようだ。
11:14
1990年ころ、鏑木さんのお家に焼香に来た帰り、吉川公平君と二人でここに来た。
平日の午後遅く、人はあまりいなかった。
銭洗いというから私は小銭を洗ったのだが彼はお札に水をかけた。彼がその後(いま)金持ちになったかどうかは知らない。しかし銭洗い弁天にきて以来、どんどん出世したから私より若いのに給料はずっと良かったはず。もっとも小銭と紙幣の違いは関係なく、私の研究所内での評価が平均より悪すぎたせいである。

それにしても当時、洞窟ではなく解放空間だったような気がするのは、その後の各地の崖下にある湧き水スポットの景色で記憶が上書きされてしまったのだろう。
外国人が興味深くザルをとり、お金を入れて水をかけている。
11:16
11:18
社務所に
「御参拝用 線香・ローソク・ザル 
ONE SET 200円」
とあった。
多くの人は気づかず、穴の中にある使用済みザルをそのまま使っていた。

それにしてもここは山に囲まれている。
しかし水はどこかに流れ出なくてはならない。
11:21
南の方角だけ空が開けていた。
茶屋らしきものがあり、看板は「こくに茶屋」。
精進料理からわらび餅、民芸品まで売っていたようだが廃屋になっている。
帰宅後調べたら白蛇を見世物にしていたらしいが、2014年に廃業したようだ。

茶屋の右脇に道があるが登っているので行かなかった。
水の流れる下り方向は茶屋が完全に塞いでいる。
しかし鳥居があることから、こちらの方向も参道だったのではないか?

ネットで調べると、トンネルが掘られたのは1940年ころあるいは昭和33年ころと2説ある。いずれにしろ戦前は南のほうからしか来られなかったわけだ。鳥居がそれほど古いわけでもないから現在でも参道は二つあるのかもしれない。南に降りれば佐助稲荷のほうへ出るはず。

今や表参道となったトンネルは北東方面からの近道であることに加え、抜け出た先に境内が突如現れるという劇的演出効果がある。

結局、私は銭も洗わず、賽銭も上げず、弁天様も見ずにトンネルを出た。
(続く)

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