2025年1月24日金曜日

広島3 比治山、駅、広島城

1月15日、クルーズ船飛鳥IIが広島に入港し、私も市内を観光した。
ひとりで陸軍広島被服支廠、広島大学霞キャンパス(旧陸軍兵器補給廠)を見物した。
さすが軍都広島、陸軍三廠の残る一つ、陸軍糧秣支廠も宇品西海岸沿いにあるが、そちらは行かず、JR広島駅のほうに行ってみようと思った。

広島大学霞キャンパスから広島駅に行くに、路面電車の停留所は比治山の西、だいぶ距離があった。そこで、知らない街ということもあり駅まで歩くことにした。途中、28年前に来たときのことを思い出すかもしれない。
10:47
比治山公園南口交差点
広島大学を出て西に行くとすぐ広い通りに出た。
この広さは軍用鉄道だった宇品線の跡ということもあるか。

正面に比治山が見えた。
中学生のころ広島の比婆山で謎の類人猿?が目撃され「ヒバゴン」として話題になったが、そのヒバヤマと混同しやすい。28年前もこの山を見たし、活字でも一、二度は見ていると思うが、名前を憶えていなかった。今度はしっかり「ひじやま」と覚えた。

この独立丘陵は島だったのが、太田川が運ぶ土砂で周辺が埋まり、戦国時代、1500年代後半には本土と完全に陸続きになったという。
毛利元就が太田川河口を本拠地に考えたとき、この山(島)が候補の一つだったという。確かに濠を掘る手間が省ける。(実際に毛利氏が山中の安芸吉田から瀬戸内に面した広島に出てきたのは、元就の孫の毛利輝元の時代である。)

いま広大霞キャンパスとなった陸軍兵器補給廠は原爆爆心から3キロメートル以内にあったが、比治山の陰で被害が軽微だったという。
しかし比治山の標高は71メートルである。8時15分、高度9,640mから投下されたリトルボーイは43秒後、地上600メートルの上空で炸裂した。これで比治山が防護壁になったのだろうか? 作図して考えてはいないが。

比治山には1872年(明治5年)、旧日本陸軍第五師団の前身、広島鎮台(1973)ができるのに合わせ、陸軍墓地の整備が決定、1877年西南の役の戦没者から埋葬された。
さらに、船舶砲兵団司令部(陸軍船舶兵)や電信第2連隊の駐屯地が置かれた。
また戦後のABCC(アメリカ軍による広島長崎の原爆傷害調査委員会)を前身とする放射線影響研究所もある。

今回麓に立ち、陸軍墓地など戦前の旧蹟、記念碑、広島市現代美術館など名所が盛りだくさんの山上を見たいと思ったが、登る元気がなかった。
飛鳥でのダンスは揺れる船内と堅い床とで足が痛くなり、いたわる気持ちもあった。

山には行かず北に歩いていくと、道路の反対側にリトルマーメイドの店があった。
10:56
リトルマーメイド段原店
アンデルセングループのリトルマーメイドは1974年東京に進出した。学生時代、ちょうど谷中に引っ越した1978年、毎月15日のリトルマーメイドの日が始まり、根津交差点近くの店舗で食器をいくつかもらった。また、2022年定年退職して駒込駅のパン屋で6日間だけアルバイトしたのもリトルマーメイドだった。このように私と縁のあるベーカリーチェーンの1号店は、まだ焼き立てパン屋が珍しかったころ、1972年、広島で誕生した。
ふと、28年前に荻原さんがアルバイトしていたパン屋ってリトルマーメイドだったりして。ひょっとしたら(改築しているだろうが)この店かもしれない。なんて思い、広い道路の向こう側にあっても目にとまった。

さらに歩いていくと川に出た。
11:01 大正橋
太田川から分かれた猿猴川にかかる。なんて読むのかと思ったら単純にエンコウガワだった。猿猴とは、広島を中心に中国・四国地方に古くから伝わる伝説上の生き物。河童の一種とされるが、姿が毛むくじゃらで猿に似ているらしい。
猿猴川は、太田川が形成する広島デルタの6河川のうち最も東側を流れる。
11:04 くわうじんばし
大正橋の一つ上流の橋の上を路面電車が新旧4台も通った。都バスよりも多い気がする。

11:05
市街地中心部にこういう空間があるのは素晴らしい。
水も大都市にしてはきれいである。

11:05
くわうじんばしを渡りきると「荒神橋」と書いてあった。

11:08
JR広島駅到着
前回私が来た2年後の1999年に、こちらの南口が全面改装され、その後も2012年、2014年に駅舎の改良工事があったようで、現実にも私の記憶にも当時の姿は残っていない。

広島駅の開業は1894年(明治27年)6月。山陽鉄道の終点だった。翌7月には日清戦争が始まり、大本営が広島城に置かれ、前年に完成した宇品港とを結ぶ宇品線が突貫工事で翌8月に開通した。
広島駅南東の一角
1997年に泊ったビジネスホテルはあのあたりにあったと思うが、ホテル名も分からないし、探すこともせずに先を急いだ。
11:11
駅前大橋から手前の猿猴橋(旧西国街道)とその一つ下流の荒神橋をみる。

城南通りを西に歩き、京橋川を上柳橋でわたる。
11:17 上柳橋
京橋川と猿猴橋の分岐点がみえる。
その向こうは駅前のエールエールA館とビッグフロント広島(計画中はエールエールB館と呼ばれた)のタワービル。いずれも1997年にはなかった。

広島城を目指し、城南通りを西へ歩き続ける。
11:21
藤棚が歩道の上に張り出していた。地図を見れば、フェンスの向こうは広島女学院中学・高校。1886年創立の伝統あるミッションスクールで、岸田文雄元総理の夫人の出身校でもある。
フジの根っこは学校敷地内なのか公道の一部(植え込み)なのか分からないが、少なくとも広島女学院の生徒さんたちが歩道を清掃してくれているらしい。
11:23
左上の出汐倉庫(陸軍被服支廠)、広大医学部から大分歩いてきた。
このところクルーズ船が帰港するたびに歩く横浜と比べ、同じ観光都市として路上地図が少ない気がした。

11:28
内堀に出て広島城到着、二の丸太鼓櫓を望む。
11:32
内堀の向こうに二の丸表御門を望む。
水色は実際の濠であるが、画面いっぱいに広がった形とその広さによって、どうしても余白の類に見えてしまう。濠の外にも何か描いたほうが良い。
11:34
二の丸から本丸へ入る途中、西にエディオンピースウィングが見える。
2024年完成したばかりのサンフレッチェ広島の本拠地サッカー場である。

11:36
広島護国神社
本丸で一番人が集まっているのがここだった。
市民としては、天守閣などより一年の無病息災と発展を願う初詣のほうが大事だ。

11:37
「明治二十七八年戦役廣島大本営」

日清戦争は7月25日に開戦、8月1日に宣戦布告した後、9月に大本営が移ってきた。
城内にあった第五師団司令部の建物が明治天皇の行在所となり、天皇は9月15日から翌年4月27日まで7か月も滞在した。天皇が神となった昭和の戦争では考えられない。
行在所建物は日清戦争後も保存されたが、原爆で消滅、礎石のみが残った。

11:39
広島城天守閣
広島城は毛利輝元が1589年築城を開始し、城の構造は大坂城を参考として、本丸と小さな二の丸を内堀が囲むという縄張は秀吉が京都に作った聚楽第に範を取ったといわれる。
1590年末、堀と城塁が竣工、1591年1月輝元が入城。1599年に全工事が完了した。しかし翌年関ヶ原が起き、西軍大将に担がれた毛利氏は広島を去ることになる。

完成当初は、堀は三重に巡らされ馬出を多数備える実戦的な城構えで、当時の大坂城に匹敵する規模だったといわれるが、1600年代わって城主となった福島正則による改築があり、築城当時の姿は不明である。
福島正則は雨漏り修繕程度の軽微な工事まで咎められ、1619年安芸50万石から信州高井郡4万石に改易され、5年後高山村で死去した。
代わって浅野長晟が38万石の和歌山から42万石で加増入封し、この家は明治まで続く。
11:40
壁板など一見古そうに見えるが、原爆が落ちたのだから古い木造建築が残るはずはない。
戦後復元した鉄筋コンクリート製である。
例によって中には入らなかった。
原爆以前は1592年に建てられた大天守が残っており、国宝に指定されていた。
別名、鯉城。一帯は昔、己斐浦(こいのうら)と呼ばれていたことに由来するという。
虎とかライオンと比べると鯉・カープは小さくて弱そうだ。
11:43
本丸の東側に多数の車が駐車していた。
白線も引いてないし、管理人もいないし、ちゃんとした駐車場でもない。見ていれば全く自由に止めて、出ていく。
ちょうど入ってきた車の人に聞くと、デパートのように護国神社から参拝したというハンコをもらえば無料だという。
こんな一等地の、しかも名城の本丸が駐車自由というのは、さすが広島だと思った。
平城で、かつ城内が広大で、まわりの三の丸などにも公用地、駐車場がふんだんにあるという条件が重なったこともあろう。

二の丸を経て表御門から内堀を出て、城南通りに出た。
11:48 城南通り
この通りは二の丸の南、内堀のすぐ外側を東西に走る。
28年前、荻原さんの車はこの道を東から西に通った。右側に二の丸の櫓だったか、本丸天守閣だったか、運転席越しに見たことを思い出す。

広島は道路が広い。
城南通りは広すぎるからか横断歩道はなく地下道だった。
11:49 北が左
城南通りの下をくぐって南の平和公園に向かうも両側は依然として公園のよう。
この広さはどういう訳だろう?

広島城付近 1930年ころ

戦前の地図を見れば、本丸に第五師団司令部があり、内堀の外、三の丸は西側に野砲兵第5連隊、東側に歩兵11連隊、南外郭に西練兵場、憲兵隊、西外郭に輜重兵第5大隊、北外郭に衛戍病院、火薬庫や衛戍監獄。
外郭を含めた広大な広島城がそっくり陸軍施設になっていた。

現在濠として残っているのは本丸、二の丸を囲む内堀だけである。
三の丸を囲む中堀は、戦前までだいぶ残っていたようだが、戦後の都市化によって埋められた。その外側、外郭を囲む外堀はもっと早く、日露戦争後の人口急増による水質悪化、道路建設などにより明治のころから埋められ始めた。原爆ドームの北を東西に通る現在の相生通り(国道183号)が南の外堀にあたる。

民有地とならず軍用地であったことが、この広大な官庁街、都市公園、運動・文化施設の、ほかでは見られないほどの集積を可能にした。

(続く)

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