1月15日、クルーズ船「飛鳥II」が広島に入港し、軽く観光しようと下船した。
クルーズターミナルから広島電鉄(路面電車)の海岸通という駅まで歩いて電車に乗った。運賃は220円
9:53
「広大附属学校前」で下車
9:55
停留所の名前通り、広島大学付属の小学校、中学校、高等学校が一つの敷地にある。
ここは戦前、旧制広島高校だった。
広島は中国四国地方の中心都市でありながら、早くから官立(=国立)の広島高等師範学校、広島高等工業学校があったため、近隣の山口、松江、岡山(第六高校)、松山などに旧制高等学校ができても広島だけなかった。設立は1923年、姫路とともに最後の旧制高等学校になる。
原爆炸裂で爆心地から2.7キロの木造の建物は大きく損傷したが、1927年竣工・鉄筋コンクリートの講堂は、被害軽微であり、戦後広大教養部となった後も使われ、また校地交換で付属小、中、高校がこの皆実(みなみ)校地に移ってきた後も使われている。
校地には入れないようで、正門から講堂の写真を撮った。
1994年に広島市により被爆建物に指定された。被曝が軽微だからこそ(解体を免れ)指定される矛盾がある。1998年には登録有形文化財になった。
・・・・・
ここまで来ると広島陸軍被服支廠はすぐである。
広大附属の正門から北東のほうへ歩いて950メートル、13分。
10:07
陸軍被服支廠址、南西の角
南のフェンスの隙間から覗く。
旧広島陸軍被服支廠は、現在、出汐(でしお)倉庫とも呼ばれる。
かつては兵員の軍服や軍靴などを製造していた。
被服廠が取り扱っていた品目はほかに、下着、靴下、帽子、手袋、マント、背嚢や飯盒・水筒、ふとん・毛布、石鹸、鋏・小刀、軍人手帳等の雑貨まで含まれていた。大正・昭和になると、防寒服・防暑服、航空隊用、落下傘部隊・挺身隊用の被服、防毒服なども取り扱うようになった。
しかし被服廠では軍服の縫製と軍靴の製造が主であり、その他については民間工場に依託し、被服廠では発注、品質管理、貯蔵、配給などの業務を行っていた。また、中国、四国、九州における民間工場の管理指導も行った。
10:09
西の壁に沿って北へ歩いていく。
陸軍被服廠は、1890年(明治23年)東京本所に設置された。
1904年(明治37年)大阪に支廠ができ、さらに1905年広島にも支廠ができた。1944年札幌、仙台、東京(朝霞支廠)、名古屋、福岡に支廠ができるまで、当時は全国に3か所しかなかったから、広島の存在は大きかった。宇品線からの引き込み線もあった。
(ちなみに、本所の本廠は 1919年、王子区赤羽台に移転した。もともと赤羽には1891年から被服倉庫があり一体化する目的もあった。本所区の跡地は1922年に逓信省と東京市に払い下げられ、運動公園や学校が整備される予定で空き地となった。
しかし1923年9月、関東大震災で住民が避難したところに火災旋風が襲った。敷地内にいた人々は四方から火に囲まれ、逃げられず約4万人のうち約3万8千人が焼け死んだ。これは大震災全体の犠牲者の約1/3にも達する。「陸軍被服廠」という一般人にとって地味な単語は、本来の業務でなく跡地で起きたこの惨事のみで知っている人が多いのではないか?)
過去のブログ
20210820 被服廠跡、震災復興記念館に入ってみた
鉄扉
倉庫の扉はガラスでなく鉄製である。
歪んで閉じられず、下のほうは錆びている。
鉄扉は閉じたら真っ暗になるが、ふつうの工場でこんな鉄扉は必要だろうか?
1945年8月6日に投下された原爆が落ちた時、被服支廠は爆心地から約2.7km離れていて、外壁の厚みが60cmと厚かったこともあり焼失や倒壊は免れた。ゆえに救護所として使用され、避難してきた多くの被爆者がここで息を引き取ったという。
10:10
戦後、被服支厰の建物は、1947年以降、一時、広島大学・広島高等師範学校の校舎、大蔵省中国財務局庁舎が入り、7万坪の敷地は現在、公務員宿舎、個人住宅、県立皆実高校、県立広島工業高校、国道2号線拡張用地、その他事業用地(テレビ新広島本社社屋など)などに転用されている。
その過程で建物は現在残されている4棟を残してすべて解体された。
その後、残った4棟のうち1棟が広島大学の学生寮「薫風寮」として使用され(広大キャンパスの東広島市移転で廃寮)、のこり3棟は日本通運に所有が移り倉庫として使用された。1995年日通も使用しなくなり、施設は県へ譲渡され、1997年以降は4棟とも完全に使われなくなった。
広島市は「旧日本通運出汐倉庫1-4号棟」として被爆建物台帳に登録した。
10:11
割れたガラスの窓があった。この外側に鉄扉があったのかもしれない。
安全対策工事は清水建設と共立の共同事業、発注者は広島県。
10:13
30年も使用しないと朽ち果てる一方である。
有名な原爆ドームはウクライナの通常爆弾での被害建物にも見られそうだが、むしろ歪んだ鉄製扉以外、建物が無事なこういう施設のほうが、中で多数の被爆者が息を引き取った物語を持っていて、被爆記念建物として貴重かもしれない。
10:15
倉庫の間の白いフェンスが開いていて、中をのぞこうと入っていくと、突然、軽自動車から警備の人が出てこられた。入ってはダメだという。一時雪がぱらついた寒い日で、誰も来ないから彼も車の中で休んでいたのだろう。私が来てからは車から出てずっと入り口で真面目に立っておられた。
広島市 1930年ころ
この陸軍被服支厰の東には軍用鉄道の宇品線が通っていて、それを挟んで東(斜め向かい)には広島兵器支廠があった。宇品線、宇品港を使って陸軍の武器弾薬の集積・補給を行っていた。
現在その敷地は広島大学霞キャンパスとなり、医療系学部が集まっている。
行ってみた。
10:25
広島大学霞キャンパス
1887年(明治30年)大阪砲兵工廠広島派出所が設置される。
1905年、広島陸軍兵器支廠に昇格。翌年、この現在地(霞町)移転。
1940年、広島陸軍兵器補給廠に改称。
比治山の陰になり原爆の被害は軽微であったため、救護所として被災者が集まり、戦後は1946年から1956年まで広島県庁舎として利用された(旧庁舎は中の島で壊滅した)。
そして1957年から広島大学医学部となった。
広島大学医学部は大戦末期、昭和20年3月設立の広島県立医学専門学校(広島市皆実町)を起源とする。
戦後呉市から市立病院、旧海軍徴用工員宿舎を移譲され、昭和23年、広島県立医科大学(旧制)が呉で開学した。
昭和27年、広島医科大学(新制、県立)が単科大学として開学したが、翌年広島大学(医学部)に合併されることになった。順次移管が始まり、昭和31年広島医大は閉鎖された。そして1957年2月、呉から現在地への移転も完了した。
10:26
広大医学部 医学資料館
入場無料。写真撮影は不可。
そこで1978年医学部30周年記念事業として医学資料館を設置するにあたり、最後まで残った大正4年建築の11号館(旧第11兵器庫)を保存使用した。
その後1998年、附属病院建て替えのため、新築移転することになる。原爆被爆建物でもあり、被災者の臨時救護所となった歴史的意義から、旧資料館の外観を尊重し、痛みの少なかった東外壁を中心にできるだけ旧材を再利用したという。
実は1997年11月ここ霞キャンパスに来た。
第8回脳高次機能障害シンポジウムを聴講するためだった。
しかし当時は医学資料館にも気づかず、陸軍兵器補給廠の跡地であることも知らなかった。
10:32
歯学部
ここは医学部、附属病院のほか、歯学部、薬学部もある。
広大歯学部は1965年設立。
薬学部は国立大学としては遅く、1969年、医学部薬学科として発足した。当時すでに多くの医学部薬学科が薬学部として独立していたが、広大は2006年ようやく薬学部として独立した。だから、医療系学部が霞地区に集まったというより、ここで生まれたといったほうが良い。
歯学部前の地図をみながら、1997年のシンポジウムはどこだったのだろう?
ホワイエとか階段とか覚えているのだが、どの建物だったか分からない。
10:32
薬学部
シンポジウム会場はここでもなかった。
当時、ここにいらした代謝教室出身の太田茂さんがシンポジウムの世話人をされていた。彼は3年上で、のちに薬学会会頭になられた。
田辺三菱時代に数年同じ組織となった西尾さんもここの出身だった。
10:33
薬学部の南の霞会館
高いビル校舎に囲まれて古い二階建ての大学生協。
これは覚えている。
シンポジウム初日の1997年11月27日、前もって連絡しておいた荻原英雄さんが会いに来てくれ、この二階の生協食堂でお昼を食べた。
10:34
二階の生協食堂。
学内wifiはパスワードが分からないと使えなかった。
現在窓際は横一列に並んだ一人席であるが、1997年当時はファミレスのようなテーブル席だった。そこに座って11年ぶりの再会を喜んだ。
荻原さんはシンポジウムの要旨集をパラパラめくって、シンポジストの一人であった京大薬学部の赤池昭紀教授の名前に目を止めた。神奈川・栄光学園時代の同級生?同学年生?だったという。彼ら(栄光学園18期生)は東大紛争で入試(1969年3月)がなかったため、赤池先生は京大薬学部に、荻原さんは京大農学部に進学した。
校内のマラソン大会で荻原さんが1位、赤池さんが2位だった(順位の記憶あいまい)と話して、要旨集を閉じた。少し寂しそうだった。
彼は車で来ていて、午後も暇だというので、私もシンポジウムはさぼった。彼は原爆資料館などを案内してくれたあと、私のたっての希望で、市街から遠く離れた安佐北区、可部東の自宅(兼実験室)も見せてくれた。庭先の柿を土産にとってくれ、再びはるばる市の中止部まで送ってくれた。
彼とは田辺製薬の同年の入社(1981)である。
大学院は京大医学部生化学教室(早石修)にすすみ、のち群馬大医学部に転じた。修士課程修了の私よりさらに5歳上であった。
今まで私が出会った人の中で優秀さでは3本の指に入る。しかし知識、発想と実験の集中度をみてノーベル賞を取るのはこういう人かと思ったのは彼だけである。ところが彼に対してそう思う人は少なく(ほとんどおらず)、田辺の研究所では全く評価されなかった(田辺では平均より悪いマイナス評価だったのでないか?)。在籍した5年の間、入社したときの病理部門から生化学部門(高脂血症薬)に移動した後、失意のまま退職した。残念だったとしか言いようがない。
彼は田辺のたいていの人を良く言わなかったが、私のことは褒めてくれて、それが当時よく落ち込んでいた私の支え、励みにもなった。彼は職場の送別会は断ったが、退職の日、私の家に来てくれて夕食を共にした。
その後、三重県で伊藤ハムの子会社で肉の品質検査?をしたあと、広島の医療用具メーカー(手術用縫合糸?)に転じたが、10年ぶりに再会した時点ではパン屋、マツダの子会社、塾教師などのアルバイトをしていた。
じつはこのブログで5人まで書いた「忘れられない人」シリーズで一番目に書きたかった人だが、人間が大きすぎて未だ書けずにいる。しかし山が迫る広島市とは思えない田舎の中古住宅で飼われていたマウスをみた(たぶん唯一の)者として、いつかは書かねばならないと思っている。
天才は今どうされているか、もう連絡先も分からず、ネットにもヒットしない。
28年ぶりに、思いもかけずクルーズ船から陸軍施設の跡の広島大霞キャンパスに来て、いろんなことを思った。
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