2019年2月18日月曜日

モミジを切ってもらう

家の西南の隅にモミジがある。
葉っぱを思い出せばイロハモミジかな。
これがブロックを押していて、これ以上成長したら、あるいは強風で揺れたら塀を壊す恐れがあった。

2019-02-15


2013年以来毎年剪定してもらっていたが、落ち葉掃きも大変。
ここは自転車に乗るときくらいしか来ない。
愛着がないので切ってもらうことにした。


切ったら草花でも植えられるかなとも思うが、ブロック塀と家の間の狭いところに大量の根が張っていて、除去は難しそう。
木を切るときは酒を根元にかけて感謝するということがあるが、
私はそういう趣味がない。

かつてこのモミジは巨大だった。
 
2012年9月
もともとは二世帯住宅。
年寄り世帯が使う玄関を四季色鮮やかに飾る、風情あるものだった。
リフォームで玄関を納戸にして入り口をつぶし、自転車置き場とした。

上の写真では大したことないが、航空写真では屋根を覆っている。

2011 グーグル

2018

2012 塀、屋根の高さに注目。
街灯もすっぽり隠れるほど繁る大木だった。

さて、2月15日
最高気温7℃、曇り、という寒い日
芳樹園さんが来られた。
今回はおひとり。
もてる大きさに輪切りにしていく。

地上1.5メートルのところで直径30センチほど。
垂直に立っているものを輪切りにするのは大変らしく、この段階で根元にチェーンソーをあてて、切り倒した。

1.5メートルほどの丸太ができた。
庭に置けばいいベンチになると思う。
しかし数年前、桜の丸太を庭に置いたら虫が巣くって大変だった。
モミジは肌がすべすべで虫にも強そうに見えるが、もしアリや虫が巣くったとき、人力では動かせない。
私が手動ののこぎりで切断することは不可能。
思案しているうちに、Tさんは運べる大きさに輪切りにしていった。
こんな狭いところに直径35センチ

作業は11時前に終わり、デッキで世間話。
彼の顧客である大きな家の、親と若夫婦の同居問題などがテーマだった。
後片付けも終わって、今年も大根と白菜を持って行ってもらった。
スーパーのものと比べるとだいぶ見劣りするけれども。

これで、ザクロ、ザクロ、シュロ、と大きな木は4本切った。
やはり都会の狭い宅地に、成長する樹木は無理がある。

翌朝、根っこを掘ってみる。
土よりも根っこの方が、より空間を占めている。
2年前のザクロ(→別ブログ)は抜根不可能と思われたが、2か月かけて掘り出した。
しかしこれは、はるかに難しそう。

2019-02-15
塀に沿って平行に伸びる根っこの、さらにその下も根っこ。
通信、ライフラインの集合ケーブルを思わせる。
右側の土の部分も、ちょっとスコップを入れたら太い根に当たった。

今週は日曜も出勤だったので、土、日、月、と3連続で早起きして朝食前に根を掘った。

2019-02-18
3日間で切った根っこを並べてみた。
しかし太い根、深い根は、つながったまま。
根はまだしも、株を除くのは何年もかかるかもしれない。

でも、今まで何も植えられなかった場所を新たに耕すのは何故か楽しい。
何を植えようかな。

昔、荒地に入った農民も、こんな感じの楽しさで苦しい開墾を続けたのだろうか。

2019年2月17日日曜日

誠之舎と西片のお屋敷

2月14日、本郷税務署へ確定申告に行った。
かつては埼玉の家の売却損で所得税をそっくり返してもらったり、印税の申告だったり、金額が大きい分、書き方が分からず少し面倒だったが、最近は単純なもの。

田辺の退職金の一部を年金でもらうようになり、それが年70万以下だから、源泉徴収された税金が戻ってくるのだ。
日常生活で100円でももったいないと思う半面、4万7千円の還付手続きを面倒くさがり、ともすると無視したくなる心理の不思議。

今年は家で印刷して持って行ったから提出しただけであっという間に終わった。
まだ朝8:35。
面倒なものを終えた開放感で、ちょっと遠回りしようと自転車ですぐ裏へ入ったらびっくり。
誠之小学校がなくなっている。
崖下の民家を越えて白山通りのマンション群まで一望

公立小学校でありながら設立に阿部家が多額の寄付をしたこともあり、名前に福山藩の藩校の名前を冠した。東大教授初め文化人が集まった西片町にあったため、名門小学校となった。遠く千駄木はもちろん、北は不忍通りの向こう、動坂町や日暮里渡辺町からも意識の高い親が子女を通わせた。
今でも人気があって文京区の小学校(→別ブログ)3S1Kの筆頭である。
グランドの真ん中にあった木がこれとすると、校庭に校舎を建てたということか。

北西の9教室は大正13年に建てられ貴重なものだったらしいが、文京区というのは歴史、景観とかに配慮しない区だから。

電動機付自転車のきれいなお母さん方が、近くの幼稚園の弟妹を送ってきて長い立ち話しをする姿もこの日はなく、工事関係者のみ。
校舎の裏というか、南に回ると

これが正門? いかにも仮設。

ちょっと油断すると町はどんどん変わる。
少しばかり自転車を走らせてみる。
誠之小学校の北へいくと、すぐ胸突坂


 胸突坂の下は白山1丁目
左の崖上が誠之小学校。
ここは千駄木と違って崖の上と下で町名が違い、ほとんど交流がなさそう。


再び坂を上がって西片町を散策する。

へんな町名である。
中山道の西側は福山藩阿部家の中屋敷があったから、東側だけの片町だった(駒込東片町)。
西側は明治になって開発され、両側が宅地になった段階で片町ではなくなったのだが、東片町があったため、それと対をなすように西片町と名づけられた。
東片町が向丘1丁目となった段階で西片も意味がなくなったのだが、変えるわけにもいかずそのままになっている。

誠之小学校の通りを南下、2丁目13番地の四つ角を西に曲がる。
 千駄木より大きい家が多い。
大和郷の本駒込6丁目、あるいは曙町の本駒込1、2丁目よりも豪邸が多いのではないか。

敷地は小さく荒れているけど素敵な家

安藤邸
ながらく都営三田線・春日駅(1968)くらいしかなく、ようやく南北線・東大前駅(1991)ができたが、繁華街から離れていたことも官民による乱開発の圧力から免れたのかもしれない。

それに第一種低層住居専用地域(建蔽率60、容積率150、高さ10m)のため、相続で開発業者にわたっても、せいぜい落ち着いた低層マンションしか建てられない。

いっぽう、千駄木の私のところなどは第一種中高層住居専用地域、建蔽率60、容積率300、高さ17mだから、3階建てが優にたつ。敷地が55平米(16.7坪)あれば床面積100平米の家が建つのである。
業者は品のいい邸宅だった敷地を細分化し、手ごろな新築物件にするから町がどんどんごちゃごちゃしていく。
業者だけでなく土地所有者の間でも規制が緩いほうがいいと思う人がいるから厄介である。

さて、左折して8番地と4番地のあいだを南下。
 
あとでgoogle viewをみたら、表札は栗山と読めた。 
帝大教授、国立東京第一病院長、栗山重信も西片だったが・・・?


中には朽ちている家もある。
老人一人暮らしの家も多いのかもしれない。

西片公園
こういうゆったりした広場をつくったのは、分譲主だった阿部家の功績だろう。

なお、一丁目と二丁目の境はこの公園の南縁である。


阿部家が明治に新築した本邸は、南を見下ろす高台の端だったな、と思い自転車を回した。すでに阿部邸の敷地も分譲され、何軒もの豪邸に変わっている。
それらを見ていると、阿部家ゆかりのものがあった。
右側の西片らしくない古いビル。
誠之舎である。


説明版によれば、明治23年以来、福山藩子弟の寄宿舎が今も継承されているらしい。
自転車が2台とまっていたが、玄関前の日経新聞が1月29日より溜っていた。

帰宅して調べると定員37名、今年度は9名募集している。
食費、部屋料など舎費は月74,200円
 宮澤裕(明治40年入舎・元衆議院議員、宮澤喜一の父)
 森戸辰男(明治44年入舎・元文部大臣)
 葛原しげる(明治37年入舎・童話作家)
 井伏鱒二(大正7年入舎・作家)
など創立以来129年、これまでの寄宿生は1480人を数える。

・・・・
そろそろ帰ろうと自転車を北へ向けると
板張りの立派な邸宅があって、植木屋さんと老婦人が話していた。
素敵な家ですね、と彼女に話しかけると、いろいろ教えてくれた。

帰宅して会話を思い出し確認すると
もとは中央公論社の(初代)社長だった麻田駒之助(1869 〜 1948)の屋敷だったという。
設計は保岡勝也(1877~1942)。
彼女によれば、右側の洋館が事務所で一階が中央公論、二階が婦人公論の編集室だったらしい。

植木屋さんが上から「門の瓦が割れているから早く修理したほうがいいですよ」と言った。
「これだけの家を維持するのは大変でしょう」というと
「ええ、私どももいつまで持っていられるか・・」
「区などが修理費など補助してくれればいいんですがね」
「そういう話もあったんですが、そうすると公開しなくちゃいけない。国の登録有形文化財にはなっているんですよ。補助金は全くでないけど、これなら公開しなくてもいいんです」
大正10年と12年築。

・・・西片町。
医家だけでも杉田直樹、山際勝三郎、片山国嘉、榊俶、名倉英二、100名以上いたらしい。入沢達吉、三浦謹之助も震災後に仮住まいしている。
長岡半太郎、佐々木信綱、伊東忠太といった文化勲章組も住んだ。
ここに居を構えることそのものが最高の「エスタブリッシュメント」という時代があった。

おそらく今のどの家も、名の有る文化人の屋敷なのだろうが、表札だけではわからない。
町内に住んでいれば、古いご近所さんと親しくなって教えてもらえるのだろうが。


千駄木菜園 総目次

2019年2月16日土曜日

江知勝と湯島プラザホテル、湯島天神

2月13日、会議が湯島であったので、その前に医図書で調べ物をした。

2019‐02‐13 10:03
竜岡門から出て、春日通りとの突き当り。
北東の角、関電工のビルはなくなっていた。

春日通りを湯島天神に向かう。
10:04
麟祥院。スマホの広角レンズはずいぶん遠くに見せている。
春日局の墓があるが、時間がないので寄らない。
記憶にある墓石は実際に見たのか写真を見たのか、あいまいになっている。

春日通りは、この麟祥院の墓ではなく、彼女が拝領した小石川の春日殿町、春日町に由来するものだろう。

10:06
明治4年創業の江知勝
1977年以来、何十年ものあいだ、前を通り過ぎるだけだった。

1991年、小林恒文が毒性薬理の追いコンで大胆にもここをリクエストしたという。

それからさらに23年後、やっと2014年6月父の日の前、その春就職した息子に対して
「茂木健一郎は就職だったか卒業だったか、お礼として両親をここに招待したんだぞ」
とおねだりした。
期待通りで美味しかった。
あの日の帰りは妻と30分くらいかけて千駄木まで歩いた。

その後も彼は母の日や誕生日にプレゼント代わりに食事をおごってくれたが、根岸の笹乃雪、回転はま寿司、不忍通りのわらしっこ、在留外国人のカレー屋、とだんだんレベルが下がっていき、数年前に自然消滅した。

10:07 湯島天神入り口
この三角の頂点にラブホテルなのかビジネスホテルなのか分からない、湯島プラザホテルがあった。
1978年から81年の、忘年会だったか追いコンだったか、坂下での一次会が終わって、路上に二次会へ行く者だけ残った。
みんな遊び慣れておらず、知らずに入ってみたらバニーガールのいる店だったこともある湯島、さてどこに行こうか。
そのとき、「湯島プラザの上のラウンジで飲んでみたい」と私だか誰だか幹事にリクエストし、それが通った。真面目な幹事の木内文之さんも実は行きたかったのではないか?

男ばかり10人ちかく、狭いエレベーターで上がると、落ち着いた店内は暗い。
内側が厨房で、二人掛けのソファはすべて窓の外を向いていた。
我々も二、三人ずつ座り、1時間で1回転する夜景を静かに眺めた。
とてもいいムードでこういうところでカクテル飲んだあと階下に誘うのかと勉強になったが、その後、再び上がることはなかった。

ホテルは2006年12月に閉館、2007年に取り壊されたたという。
一度泊まってみたかったが、埼玉在住では機会もない。
今は湯島天神の駐車場。
10:08
平日の朝10時過ぎ。
お年寄りと外国人ばかり

既に先週から始まっている梅まつりの梅よりも、圧倒的に絵馬の方が目立つ。
でも京都の北野天満宮(→別ブログ)には負けるな。

10:09
・・・と思ったら、稲でも干しているように、絵馬の束はあちこちにある。
全部合わせたら北野天満宮くらいあるかも。

どうせ、どれも志望校と名前しか書いてないから読まない。
もっと恋愛や深刻な悩みとかあれば面白がって読むかも(不謹慎か)。
しかし、そもそもここに書くというのは他人に読まれることを前提にしている。
神様宛なら祈るだけで良いはず。

深刻に悩む人はわざわざここまで来ないだろう。
書くというのが楽しいんだろうな。

10:10
湯島切通し坂に降りる階段
江戸の昔は新坂、いまは夫婦坂という。

ところで湯島天神はなぜここか?
鎌倉時代以前から湯島郷というのはあり(本郷はその中心という意味)古い集落だが、この場所は低地に飛び出した丘陵のさらに先端にあたる。
国土地理院の地形図を見れば、北の東大病院あたりよりは高く、また南の神田明神との間には谷がある。
江戸氏などが、上野の山と、その南の低地、上総下総を望むところに砦を築いていたのではなかろうか。そのとき付属の社を作ったとか。
郷民が菅公を京都から勧進したのはずっとあと、1355年である。


10:11
女坂
男坂
緩くて長いより、急でも短いほうがいいとも思うが、着物だと歩きにくいのかも。


10:12 男坂下。
かつては両側に茶店などが並んでいただろうが、今はマンションが多い。

右に行くと女坂下

10:14
湯島切通し坂。
右は湯島ハイタウン。築1969年。
1階にレストランなどもあったが、たぶん入ったことはない。

この裏にあった池之端文化センターは2010年に廃業。
1978年11月、集団コレラ発生、客が激減したその年末、安いことを期待して研究室忘年会をここでやった。
81年、埼玉に就職しても取手の池田さんとボーリングなどで利用させてもらった。

10:16 湯島中坂
ラブホテルがちらほらあるが、昔ならともかく、湯島天神が大した名所ではなくなった今や、立地条件は良くない。実際多くがマンションとなった。三組坂のほうはまだ何軒か営業しているようだ。

13:15
実はこの日、会議終了後、静岡中央銀行に行った。
虎ノ門交差点がみえた。右は文科省。
ここも歴史的にはいろんな景色があった。
東京は狭いけど広い。