2020年11月15日日曜日

大根初収穫、キャベツ発芽

 今年は購入ナスがハダニでやられ、実生のナスもほとんど育たず、幸か不幸か畑が夏に空いた。そこで大根を早くまいた。

2020-11-07
7月にまけたので生育が良い。

2020-11-11
葉を落として1050グラム。
八百屋のものにそん色なし。

千駄木では2年目から大根を始めた。
土地がないので、昨年まではナス、ピーマンのピークが終わり、キウリのネットを外したあと整地してまいていた。

年度 まいた日 初収穫 重量
2014  9.28  2.20  ?
2015  9.16  1.26  ? (2.6に630g)
2016  9.4    1.17  710g
2017  9.3    1.22  330g(1.27に1210g)
2018  9.8    12.29   760g
2019  8.29  11.26  640g
2020        7.19     11.11  1050g

やはり早くまくと成績が良い。
肥料や日差しより時期が重要。

大根に比べ白菜は良くない。
ポットでの育苗、地植えした後の日照が不足しているか?
白菜もいかに早く土地を確保して地植えできるかが重要。

都心での菜園は土地のやりくりが難しい。
作物の収穫時期に加え、連作障害も考えないといけないから、畑を区分することにした。
いままで通路をもうけることは、土地がもったいなくてできなかったが、通路で6つの畑を作った。

b1 白菜 b2 大根 

b3 ホウレンソウ b4春菊
先日芋ほりしたサツマイモ、落花生(別ブログ)の場所は整地してb3、b4とした。
ここは来年秋に大根、白菜を作る予定なので、それぞれアブラナ科でない冬野菜をまく。
その来年の大根(b4)は早くまけるように春はトウモロコシ、枝豆と決めてある。
b3はナス、ピーマン→白菜の予定。


こちらは b5(ニンジン、ネギ、来春キャベツの予定)
b6(ニンジン、小松菜、来春オクラの予定)

2020-11-14
春キャベツは10月中旬にまいていたのが今年は11月1日。
7日に発芽したが成長遅い。

野菜作りは年1回の(自己流)試行錯誤だからなかなか上達しない。
満足できる野菜ができるのと自分の老衰・寿命と、どちらが早いか。




2020年11月13日金曜日

銀座ヨネイビルから日比谷東宝まで

 銀座に来た。

有楽町駅から柳通りを東に歩き、中央通りをこえ、一つ東のあづま通りとの角。

2020-11-09
結婚式の引き出物にカタログギフトがあり、アンリ・シャルパンティエでのお茶を選んだ。それで珍しく夫婦で出かけたのである。
12時少し前につくとなかなかしゃれた建物。
ヨネイビル。機械などの輸入商社だったヨネイ商店の本社ビルとして1930年に竣工した。
東京都選定歴史的建造物であるが、現在もヨネイの本社として使われている。

今調べたら1897年磯野商会(創始者磯野計、共同事業者米井源治郎)として始まったとある。 ん? 磯野計? あー湯立坂の銅御殿(別ブログ)は磯野敬だった。
この1階部分に芦屋の洋菓子店がテナントとして入った。
もともと会社として作ったビルだから初めての人は入りづらい構造、雰囲気。

ギフト券はクレープ・シュゼット
メニューを見れば飲み物付きで2,750円(税込)、妻はプラス200円でアイスクリームのトッピングを頼んだ。
さすが店員も丁寧。
目の前にワゴンをもってきて浅い鍋でクレープを熱しながらオレンジソースを絡ませ、仕上げに青く燃えるブランデーをかける。
これは夜、カップルで来るところだなと思った。
昼時、客は我々だけ。

店を出るとき鏡が壁の両側に向かい合ってかけてあるのに気づいた。
こういうの好き。どうやったら無限の鏡像がとれるか。
あきらめて退出。
ギフト券のせいか一人3個のフィナンシェもお土産。

銀座1丁目交差点から中央通りを南に歩く。
おしゃれな店ばかり。
田舎から出てきて埼玉に30年以上も住んだ私は、用がなくてぶらりと入るような芸当はできない。妻は千駄木に来てから上野松坂屋。たまに池袋東武、北千住丸井らしい。
銀座松屋でなく松屋銀座
1869年横浜発祥のつるや呉服店が、1889年神田今川橋の松屋呉服店(1776年創業)を買収し屋号も変えたのがはじまり。

これは松坂屋と同じだ。跡地がギンザシックスになった松坂屋(2013年閉店)も、1611年名古屋で創業した「いとう呉服店」が1768年江戸上野にあった松坂屋呉服店(伊勢松坂の太田利兵衛が1707年創業)を買収、屋号は松坂屋のままにした。

四丁目交差点が近づいてくると鞄のイビザ、真珠の御木本、パンの木村屋など有名店が連なる。キムラヤくらいは一度入ってみたいものだ。
何だろうこの格式の高さは。さすが銀座である。

四丁目角の三越。
ライオンは最近寒くなってきたから厚着になったのかと思ったら消防服だった。
私が撮ったら他の歩行者も次々と撮り始めた。

このあと歌舞伎座にまわり(別ブログ)
有楽町、数寄屋橋からミッドタウン日比谷に来た。
2020-11-09
ゴジラ像のむこうに東宝日比谷ビル(左)。
地上18階だが低層階のショッピングモールは日比谷シャンテとして知られる。

2020-11-09
1984年まで東宝の日比谷映画劇場と有楽座があったというが、知らない。
東宝ダンスホールは2019年11月まであったはずだが、いつか来ようと思っているうちに閉店してしまった。

東宝というのは名前から分かる通り、阪急の小林一三が昭和の1932年に東京に進出、東京宝塚劇場に始まる。
そのご有楽座、日本劇場、帝国劇場を所有し、日比谷一帯を傘下に納めた。すなわち浅草(別ブログ)の映画館、劇場を支配した松竹とともに、東京の興行界を二分した。
なお日劇は隣の朝日新聞ビルとともに1981年解体、跡地が有楽町マリオンになった。ここに阪急百貨店(現メンズトウキョウ)があったのはそういう理由である。

こちらは35階建ての東京ミッドタウン日比谷。
9階くらいから上は賃貸しオフィス。
ここは2011年まで三井銀行本店があったところで、ここも三井不動産が所有する。

立派
でも銀座中央通りと違って、少し入りやすい。
ここなら私でもお茶を飲める。
新宿池袋より落ち着くし、皇居も近く散歩にいい。
今度また来よう。

カフェのある二階から日比谷公園が見えた。
あとで行く(別ブログ)

日比谷公園に行く途中、お堀端に有楽町、日比谷の娯楽を支配した東宝の帝劇がみえた。
2020-11-09
第一生命ビルの向こうが帝劇

第一生命ビルは連合軍総司令部GHQとしてマッカーサーがいたことで有名。
ビルは皇居前の一等地に1938年竣工、終戦時まだピカピカの新築だったから真っ先に接収されるのもうなづける。
(ちなみにドイツではIGファルベンの本社が占領軍司令部となった)

しかし1989年から1995年にかけて第一生命本社ビルとして再開発される。
東側は壊されてDNタワー21ができ、皇居側の西寄り部分はその本館として改装された。しかし内部はマッカーサー記念室などを残し一切の間取りを変更、全て失われた。

なお、この地は関東大震災の前まで警視庁赤れんが庁舎があり、その跡地に第一生命(1902年創業)が京橋から本社をうつしたのである。警視庁代名詞の桜田門はそんなに古くない。

帝国劇場は1930年に松竹の経営となるが、1940年以降東宝の所有となった。
1955年から映画主体となり1964年解体。新しいビルは1966年竣工、出光本社、出光美術館も入っている。



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2020年11月12日木曜日

浅草花やしきからホッピー通り、公会堂

 11月8日、谷中から台東区めぐりんバスで浅草に来た。

最初の浅草は学生時代、谷中にいたとき。
寺社にはまったく興味がなく、境内まで行かずに六区で一人で買い物かインベーダーゲームに来た。
そうそう、国際通りの薬局で家庭教師のアルバイトをした。

長野から運んできたぼろい自転車で言問い通りを走って通っていたら、ある日見かねて新しい自転車を買ってくださった。その家は安芸浅野家のご典医という家柄であったが明治後先祖が薬剤師になった。
当時薬剤師は漢方医の多かった医師より近代科学を学んで魅力的な職業であったが、その後地位が低下し、1979年ころご主人は「薬剤師なんてつまらないもんです」といって娘を医師にしようとされた。
しかし駒込の聖学院に通っていた彼女は歯科をえらんだ。明るくかわいい高校生で見事合格した。1982年5月16日三社祭を一緒に見に行ったが、それきりで発展しなかった。
今どうされているだろう?


なんて思いながら2020年、バスを降りて六区花道から入り、ブロードウェイを南下、雷門から仲見世を北上、本堂(観音堂)、浅草神社を見た(別ブログ)

本堂の西北に花やしきがある。
2020-11-08 15:09
昭和に東京で生まれた人でないと、ここは知らないだろう。
私も入ったことはない。

入場料1000円、乗り物は中で別に払うようだ。
わが国最初の遊園地として知られる。
1853年(嘉永6年)に千駄木の植木商、森田六三郎により牡丹と菊細工を主とした植物園「花屋敷」が開園した。遊園地らしくない名前は、こういう経緯による。
嘉永年間の尾張屋版切絵図で我が家のあたりは「植木ヤ多シ」と書いてある。

当時の入場者は文化人や上流階級の大人だった。
しかしその後、大娯楽施設として発展した後、今や屋根やレールがさびている。

レールぎりぎりに民家の模型を配している。
子どもが喜ぶジャングルや未来志向のビルでもなく、なぜか古い二階家である。
こういう趣向は面白い。

花屋敷となりの民家は終戦後そのままの雰囲気。
取り残された浅草らしい。

映画のセットのような花屋敷通り。

ブロードウェイに出る前に南側の路地に入る。
左の奥の抹茶クレープに女子の行列
右は路上に藤棚がある。

2020-11-08 15:15
テラス席というとおしゃれだが、ただテーブルを出しているだけ。
昼間から路上で飲んでいられるところは珍しいかもしれない。

このあたり一帯、浅草公園第四区として、瓢箪池や植え込みの中に茶屋など点在する風雅な地であった。

1907(明治40) 東京案内下巻より

しかし空襲で焼けた浅草寺は1951年、観音本堂の再建のためにここを売却。
池は埋立てられ、映画館「浅草宝塚劇場」と遊園地「楽天地スポーツランド」ができ、1959年には東急の複合娯楽施設、新世界ビルが建った。

その後室内遊技場とキャバレーが同居した一大レジャー拠点、新世界ビルは、時代に合わなくなり、壊されて1973年日本中央競馬会の場外馬券売り場となった。
(ウインズ浅草と改称したのは1987年)。

浅草の場外馬券売り場は1950年、二天門のそばにできたが、ここに移ってきて、六区の歓楽街と一体化した。
すなわち両側の飲み屋は全店、大型モニターで競馬中継をしている。


ホッピー通りというらしい。
秀逸なネーミング。
飲んでいる客はほぼ全員競馬ファンであろう。

観光名所というのは一回くれば十分である。
2012年9月から10月にかけて、浅草六区最後の映画館であった5館が相次いで閉館され、全てのなくなった。この時点で定期的に来るのは競馬客だけとなり、繁華街というより名所となる。

観光名所は、デートや食事で待ち合わせる池袋新宿渋谷にかなわない。
埼玉にいた時も上野で乗り換えてまで行く気がしなかった。

東武線沿線の人には依然ターミナルであるけど、JRにつながっていないのが致命的。
みな北千住で乗り換えてしまい、浅草まで来る人は少ない。
彼らにとっても1度行けば十分な観光地であろう。

しかし、観光地であっても賑やかさ、猥雑さは魅力となる。
競馬客はその賑やかさに貢献しているだろう。

ホッピー通りから六区通りに入り東に行くと伝法院前に浅草公会堂。
浅草公会堂
ここは戦前浅草区役所があったが、戦後下谷区と合併すると台東区役所浅草庁舎となり、1977年公会堂に建て替えた。
渋谷公会堂などと同様、催し物、興行が盛んで、田舎の公会堂とだいぶ内容が違う。

正面入り口前の「スターの広場」の手形とサインは、ここに出演した人かと思ったが、大衆芸能の振興に貢献した浅草ゆかりの俳優、落語家、歌手のものらしい。
小椋佳、五木ひろし、森下洋子など目につく。
出演者でないなら、この日付、順番はなんだろう?

着物の古着屋
5000円から1万円。500円の上掛けも売っていた。

こういう店は浅草でないとやっていけないかもしれない。
都内に1軒くらいは残ってほしいから、浅草に来ればあるというのは重要だ。レコード、カセットテープ屋とか、映画パンフレット、骨董とか、そんなものが集まればリピーターが増えるかもしれない。

浅草の没落(かつての繁栄からみた場合)は、ひとえにJRが通らなかったことによる。
奥州、日光街道が通っていたのだから東北線が通ってもよかったのだが、寛永寺が焼けて土地が余っていた上野に線路が敷かれた。
浅草は大いに栄えていて土地買収が大変だったこともあるが、みな鉄道の重要さを認識していなかった。
ほとんどの客が徒歩で集まってきた時代だから仕方がない。

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2020年11月11日水曜日

浅草六区のフランス座、ROX

  11月8日、浅草に来た。

2020-11-08
浅草国際通りの六区入り口で降りて六区花道通りをはいる。
歩いている人が独特の雰囲気。
正面にスカイツリー。
千駄木から都バスにしろ、台東区「めぐりん」にしろ、引っ越してから浅草はここが入り口になった。

入り口右の角近くにはデリカ「ぱくぱく」。250円の弁当が並ぶ。
いろんな種類があって根強いファンがいそうだ。
隣がつくばエクスプレスの駅出入り口。

すぐに六区ブロードウェイにぶつかる。
六辻になっている。
左手前の角はドン・キホーテ。日本とは思えないけばけばしさ。
写真交番の後ろは「まるごとにっぽん」と書いてある商業ビル。
その左(北)隣はJRAの場外馬券売り場、ウィンズ浅草。

浅草寺本堂に通じる奥山おまいり町と、六区通りの間にも細い路地がある。
六区通りでは獅子舞をやっていた。

2020-11-08
歩いてきた六区花道通りとブロードウェイの角は、浅草演芸ホールとフランス座演芸場東洋館。
前者は落語中心の寄席。都内に4つ残ったものの1つ。はとバスツアーなどにも組み込まれている。後者は漫才コントなど色物が中心。
同じ建物で、ともに東洋興業が運営している。

フランス座演芸場東洋館
ねづっち、山口君と竹田君、おぼんこぼんがでている。

ビートたけしは明大除籍後、1972年この浅草フランス座で、芸人見習いとしてエレベーターボーイを始め、屋根裏部屋で寝泊まりした。
ツービート結成後もすぐには有名にならなかったが1980年の漫才ブームでB&Bなどとともに頭角を現す。

当時のタウン情報誌がとってあった。
アングル1979年10月別冊
フランス座、浅草演芸ホールの南は松竹の映画館、演芸場が並ぶ。


1979年の記事を読めばロック座(六辻の北、ドン・キホーテの場所)、フランス座ともにストリップ劇場として書かれている。
フランス座はストリップ劇場として昭和26年(1951)に開業、永井荷風(1879 - 1959)も熱心に通ったという。

ストリップは保健学科の猫田泰敏君に教わって西川口に行った。午前中に行くとパンと牛乳がもらえてお得なので私も友人に教えてあげた。確かテアトルミュージックといった気がする。思い出して検索したらまだあって、びっくり。この寿命の長さは考えるに値する。

しかし浅草フランス座は入ったことがなく存在も知らなかった。

そのころ私は谷中に住んでいて自転車で浅草に来た。
デートなどではなく、ただ自転車で来れる繁華街ということで、(普段使う)ベルトを買った記憶がある。

谷中にいた1978年から80年というのはインベーダーゲームやパックマンが流行ったころで、チェーン店のマイアミはもちろん、根津千駄木あたりの喫茶店のテーブルもゲームができる仕様になっていた。
研究室の高木重和先輩、合田幸広君などは金持ちで、相当投資したらしくなかなかの腕前だった。私も女性の前ではカッコいいところを見せたい。そこで空いている午前中にひとり自転車で浅草まで練習に来た。ここはいろんな機種があるからいつか女性と来る時に備えて慣れておきたかったのであるが、資金がなくなり大して上達しなかった。


ブロードウェイを南下する。
劇場や映画館をもっていた松竹が撤退した後、ニューオータニグループが再開発、1986年に商業施設、浅草ROXを開業した。
ブロードウェイの西に本館(国際通りにも面す)、2G、東にROX3G、ROX DOMEがある。
浅草ROX本館
開業当初は上層階にテレビ収録スタジオがあり、「ねるとん紅鯨団」や「天才・たけしの元気が出るテレビ」(不定期)がここで収録されていた。
笑っていいともの新宿アルタみたいだが、当時はもっと華やかだったのだろうか。いまやお年寄りがすることもなく座っているという浅草らしい風景。

このあたりは浅草でも一番の繁華街。

1965年
浅草というのは昔はたいそうな場所だった。
もともと寺社は繁華街の核であったが寛永寺や増上寺は庶民の行き先ではない。
その点浅草寺は武士も庶民も集まった。門前町がさかえ、蔵前商人の店と吉原に挟まれ、芝居小屋も移転してきて、江戸で最も人・物・金が集まったらしい。

明治以降も日本橋あたりの商家に丁稚としてはたらく若者は休みの日は浅草に来た。
テレビのない時代、娯楽といえば繁華街を歩くのと映画くらいしかなかったから、みな浅草に集まった。

しかし関東大震災以降に始まった東京の西への広がりは、昭和の戦後になると拍車がかかる。
西に住む彼らは池袋、新宿、渋谷のターミナルで止まってしまう。
浅草は遠い。
高度成長期にテレビが普及すると浅草の映画館もかつての魅力はなく、あか抜けない町として寂れていった。


ちなみに、ROX、ロック座のもとになった六区というのは、元々1884年(明治17)から始まった浅草公園の整備における区画番号の第六区画による。
1907(明治40) 東京案内下巻より
一区、二区が境内、三区伝法院、四区瓢箪池、五区花屋敷など。
昔からの歓楽街は六区に入った。

ブロードウェイを南下、新仲見世通りを横断して浅草通りに出る。

浅草通りは六区と違い、普通の商店街。
美味しそうな店が並ぶ。
うなぎ一寅
食べていないが、あまりにも安くて写す。
通りのむこうに伝法院がみえた。
オレンジ通りという両側の案内に加え、道路まで色を塗る必要はないと思うが。


このあと雷門から浅草寺境内をあるき、花屋敷に回った。(別ブログ)


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2020年11月9日月曜日

三社祭は浅草寺ではなく三社明神

 11月8日、外国人観光客のいなくなった浅草に来てみた。
谷中墓地からコミニティバス「めぐりん」にのって100円。
雷門前の浅草文化観光センター
隈研吾?
高いところが好きなのでまた上がってみる。

2020-10-08
ここは2016年7月にも上がっている。
4年前はアサヒビールのオブジェ(觔斗雲、ウンコ、聖火の炎?)が見えたのに、見えなくなってしまった。
2016-07-03

2020-11-08
仲見世方面
2016-07-03 
わずか4年しかたっていないのに新しいビルができている。
同じ日曜日、同じ13時ころであるが、雷門前、仲見世の人出をみると、4年前はインバウンドもまだ大したことがなかったせいか、コロナ後の今と同じくらい。
いかに観光業が五輪期待と政策によって急激に拡大し急激に萎んだかがわかる。

2016-07-03

浅草文化観光センターにはイベントホールなどもある。

2階から。
オリンピックのマラソンが開かれていたら特別席になっていただろう。
コースは札幌に行ったが、もはや五輪開催自体も疑わしい。


筋斗雲が見えた

1982年7月10日、池田万里子さんとほおづき市に来た。
たしか前の年から運行し始めたばかりの二階建てバスに上野から乗ってきたのではなかったか。すごい人込みで疲れた。路上でライチが売っていて、初めて見て、初めて食べた。


2020-11-08
人力車のお兄さんはイケメンぞろいであった。
乗るのは女性ばかりかな。

1992年11月23日、CNS部門は社内旅行の代わりにはとバスツアー。
雷門で記念写真を撮って釜めしを食べ、皇居、東京タワーなどを回った。

着物の人が多い。
これだけ人がいれば自治体が先頭になって(税金を使って)無理やり外国人を呼ぶ必要はないではないか。無理に入れようとすれば今回のようなことがあると損害も大きい。

左手、伝法院と仲見世の間に浅草寺幼稚園があるらしい。

自動販売機もおしゃれ

伝法院 浅草寺本坊。

この奥から非公開の伝法院庭園の池がかすかに見えた。

宝蔵門(仁王門)
小舟町の大提灯は江戸時代に日本橋小舟町の町人が寄進して以来続いているという。

本堂がみえた

五重塔跡
戦前までは上野寛永寺、谷中天王寺、芝増上寺の塔とともに江戸四塔として親しまれた。
いま残るのは上野だけ。
江戸初期には本堂の東に五重塔、西に三重塔があったらしいが、焼失。家光の時代、慶安元年(1648)に五重塔だけ再建された。

浅草寺五重塔は明治44年に国宝に指定されたが空襲で焼失。
1973年、反対の西側に再建された。

頼朝以来という大銀杏。
空襲で燃えたが枯れなかった。

二天門は持国天と増長天が左右に祀られているから。

門のすぐ向こうに東京都立産業貿易センター 台東館がみえた。
ここでダンスの競技会がしばしば行われる。
2012年2月、2016年5月、7月と3回来ているが、境内の見物は一度もしなかった。

あらためて1992年以来の本堂を見ると観音堂と書いてある。
本尊が観音様なのだから当然といえば当然だが、境内に薬師堂、地蔵堂、不動堂などある中で観音堂だけ立派すぎる。普通の寺は本堂に金龍山など山号、寺号が書いてあって観音堂など端にある。

1907(明治40) 東京案内下巻より

本堂東に浅草神社がある。
ちょうど神前結婚式の行列。

この神社の御祭神は、隅田川で観音像を引き上げた漁師の檜前浜成・竹成(ひのくまのはまなり・たけなり)兄弟とその主人の土師真中知(はじのまなかち)
ここから神社を三社権現社、三社明神社、三社様となった。
(しかしそれなら三社でなく三者のほうが分かりやすいが)

寺院には盂蘭盆会や縁日はあるが、祭礼は神社のもの。
浅草の三社祭はどこの神社かと思っていたらここにあった。
そして三つの社でなくて三社様だった。

境内図には英語、中国語、ハングルが併記。
こんな必要あるか?
日本に来た時くらい日本語を勉強すればいいのだ。


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