ラテンB級
サンバ:心配していたステップの間違いはなかったが、何回かぶつかって、思ったように踊れず。
チャチャチャ:曲がいつもの練習場より遅く、早まってしまい、修正するのに気を取られ体を使えず。
ルンバ:「4で右足乗って1で踏みつけ2で左足出す」というのを音をはっきりさせるため「1でのって2で出す」という風に変えて上手くいった。
パソ:可もなく不可もなく。
結果を見に行って血の気が引いた。
ほとんどの組が番号に黒い網掛けされて二次に進んでいるのに、私のところだけ白く抜けている。まさかの一次落ち。
34組中29位。
29組中26位だった先月8日と全く同じ。
あ、1月15日も13組中10位だった。
昨年は昇級こそしなかったものの決勝に2回行き、準決も何回かあり、一次落ちはほとんどなかった。それが、落ちる人がほとんどいない一次予選で、落とされる本当にへたくそな、わずかばかりの組に、2回とも入ったのである。偶然では済まされない。
いったい何が起きているのか理解できなかった。
パートナーは「もうやめたい」とテーブルに突っ伏してしまった。
着替えても11時前だった。ライバルたちが勝ち残っている中でずっと午後まで控室にいるのは嫌なので、外に出ようと誘ったが、「寝る」と顔をあげなかった。
「じゃ、30分くらい散歩してくる」と私は外に出た。
こんな時は気分転換で、かねてから気になっていた象設計集団がつくった、このシンシュウカンという建物を見ることにした。
そして歩いて5分ほどの笠原小学校も見に行った。
ブログ:http://tkobays.blogspot.jp/2017/02/blog-post_12.html
確かに素晴らしい建築だったが、やはりダンスのことが頭から離れなかった。
たった一人残されたパートナーは、控室でどういう気持ちだろう。
可哀そうになった。やっぱり無理にでも連れ出すべきだった。
早々に戻ってきたら彼女はラテンの準決勝をみていた。昨年ずっと私たちが勝っていたライバルが、先月同様まだ勝ち残っていた。
ぽつんと座っていた彼女は私に気づくと、立ち直ったのか、カラ元気なのか決勝戦をスマホで録画して研究するという。
決勝には、私たちより下手に見える組もいた。しかし私たちの目で下手に見えるだけで、真実は、つまり審査委員から見たら、私たちは彼らより何段階も下手なのである。
気を取り直して2階にあるレストラン(フリースペース)でゆっくりと遅い昼食。
「決勝に残った人たちは、古臭いけど音符通りきっちりリズムをとっている。私たちは先生に言われたようにメリハリ付けた新しい音の取り方に変えているけど、若い人のように体が動かないから、かえってぎこちなく見えてしまうのではないか?」
彼女はスマホの録画を見ながらこう分析した。
午後は3時過ぎからスタンダード、ミドルシニアA級に出た。
・ずっと前傾を保つ。
・各音の最後には次の足が着地点のそばまで進む
練習で少しずつできるようになった以上の2点だけを実践したかったのだが、いざ始まると、いつものように、私の脳は周りとぶつからないようにすることで精一杯、2つの心構えはすっかり吹っ飛んだ。
でも何とか12位に滑り込み、ミドルシニアのクラスは維持できた。
先月と同じように1回戦で負けていたらダンス引退を考えるところだった。
1.野菜作り 2.お出かけ・散策 3.医薬史、地図史、 http://tkobays.blogspot.com/2019/11/blog-post_24.html (目次サイト:見てね!)
2017年2月13日月曜日
石神井川、王子七滝と金剛寺、正受院
千駄木菜園 総目次
2月11日
王子から板橋までの石神井川は、神田川ほど有名ではないが、景色はよく、かつてこのあたりに住みたいと真面目に家を探したことがある。
石神井川は谷深く、このあたり幾筋もの滝が落ち、そこでついた滝野川という俗名は村の名前になり、現在も北区の大きな地名である。
安藤広重の名所江戸百景に王子滝野川というのがある。
広重の絵と同じように、西から東を望むと向こう側にお寺が見える。江戸切絵図によれば松橋院金剛寺である。松橋弁天というお堂も書いてあり、すると下の岩屋弁天と二体あったのだろうか。
もう一度尾張屋の地図を見ると、音無川左岸(北側)に「湯タキ、木タキ」と読めるが、滝だろうか。広重の絵にみる「弁天の滝」「不動の滝」のほかに下流の王子権現から落ちる「権現の滝」、さらに王子駅の北、東向きの崖線に「稲荷の滝」「名主の滝」「大工の滝」「見晴らしの滝」「飴屋の滝」があったという。これらのどれが王子七滝かは知らない。
この日の収穫は正受院だった。
暖かくなったらまた寄りたい所だ。
千駄木菜園 総目次
2月11日
家から3.7㎞。
自転車で来たのでご近所に含めたいが。
西巣鴨の滝野川西区民センターでダンスの練習をした帰り、日が傾きかけていたが寄り道する。
そもそも家のそばの不忍通りは、本郷と上野の台地に挟まれた谷で、大昔は石神井川の川筋だった。今この川は王子で飛鳥山を突き抜け隅田川に入っているが、千駄木根津と関係なくもない。
自転車で来たのでご近所に含めたいが。
西巣鴨の滝野川西区民センターでダンスの練習をした帰り、日が傾きかけていたが寄り道する。
そもそも家のそばの不忍通りは、本郷と上野の台地に挟まれた谷で、大昔は石神井川の川筋だった。今この川は王子で飛鳥山を突き抜け隅田川に入っているが、千駄木根津と関係なくもない。
王子から板橋までの石神井川は、神田川ほど有名ではないが、景色はよく、かつてこのあたりに住みたいと真面目に家を探したことがある。
石神井川は谷深く、このあたり幾筋もの滝が落ち、そこでついた滝野川という俗名は村の名前になり、現在も北区の大きな地名である。
安藤広重の名所江戸百景に王子滝野川というのがある。
(国会図書館デジタルコレクション)
右に滝が見える。
中央の鳥居の奥に岩屋弁天が祀られていた。
尾張屋版江戸切絵図を見ると、音無川の蛇行の跡か、この辺りの窪み全体を岩屋弁天といったようだ(下図左下の赤い部分)。
この場所にいってみると、以前来たときより、また一段と整備されたような気がする。きれいにしすぎではないか? 音無もみじ緑地というそうだ。
広重には、こちらの楽しい絵もある。
(国会図書館デジタルコレクション)
中央にかかる橋については江戸切絵図で
「王子権現ヘマハルニハ岩屋弁天地内ノ外近辺ニ橋ナシ」
とある。
右側を回って金剛寺に行ってみる。
江戸切絵図には、細かくて読めるだろうか、
開山弘法大師 本尊不動尊 滝川山大師作
と書いてある。
確かに弘法大師の立像があった。
また、1180年頼朝が兵をあげるも石橋山で破れ安房にのがれ、再び戻ってくるとき10月に滝野川松橋に陣をとったというのはここだ、という看板があった。
さらに右岸を王子に向かうと、昔蛇行していた川の跡が馬蹄型の窪地になっている。音無さくら緑地というから、春はきれいだろう。
ここに面した家々は本当に素敵で、東京とは思えない。
地層の自然露頭が見える。
東京では川も崖も護岸工事をしてしまうから、こうやってみられるのは珍しい。貝の化石がとれたというから、石神井川浸食以前の太古は海底だったか。
王子七滝の痕跡といえるか、水が湧いて滴っていた。
また広重。こちらは王子不動の滝。
(国会図書館デジタルコレクション)
金剛寺にも不動尊はあるが、こちらの滝は少し下流にあった。切絵図の文章に
浄土宗思惟山三昧寺正愛(受?)院
滝不動本當(堂?)後ノ坂下レバ飛泉アリ
不動滝又泉流滝トモ云
とある。
その正受院にいってみる。
住宅地の中にひっそりとある。
今は23区内でも、昔はこのあたりになると震災、戦災に遭わなかったか、田舎のように建物が古くて良い感じ。金剛寺と違って土と林がある。
中央の小さな甲冑姿石像は近藤守重という。
北方探検の近藤重蔵のことだが、私の世代は守重と書かれるとわからない。駒込に生まれ、4年ほど正受院の東隣に住んていたとか。
本堂の左奥が不動尊である。
この後ろから広重の絵の太い滝が落ちていたらしい。
バケツを洗っていらしたお寺のご婦人に、裏にその名残の石碑があると教えられた。
回ってみると林の中にひっそりと建っていた。
新東京名勝選外十六景 滝野川の渓流
とある。東京という、あまりに新しい碑文に拍子抜けした。
帰って調べたら、新東京名勝選外十六景というのは、昭和の初めに15区から35区になることを祝して、報知新聞が主催、市民の投票で新しい区から新東京八名勝を選んだ。池上本門寺や日暮里諏訪神社が選ばれた。そのとき漏れた中から十六名勝を選んだらしく、ここのほかに新井薬師、堀切菖蒲園、哲学堂などがあった。
このことから崖がコンクリートで固められたのは近年のことであり、それまでは江戸時代に近い景色だったのかもしれない。
(国会図書館デジタルコレクション)
中央にかかる橋については江戸切絵図で
「王子権現ヘマハルニハ岩屋弁天地内ノ外近辺ニ橋ナシ」
とある。
右側を回って金剛寺に行ってみる。
江戸切絵図には、細かくて読めるだろうか、
開山弘法大師 本尊不動尊 滝川山大師作
と書いてある。
確かに弘法大師の立像があった。
また、1180年頼朝が兵をあげるも石橋山で破れ安房にのがれ、再び戻ってくるとき10月に滝野川松橋に陣をとったというのはここだ、という看板があった。
さらに右岸を王子に向かうと、昔蛇行していた川の跡が馬蹄型の窪地になっている。音無さくら緑地というから、春はきれいだろう。
ここに面した家々は本当に素敵で、東京とは思えない。
地層の自然露頭が見える。
東京では川も崖も護岸工事をしてしまうから、こうやってみられるのは珍しい。貝の化石がとれたというから、石神井川浸食以前の太古は海底だったか。
王子七滝の痕跡といえるか、水が湧いて滴っていた。
また広重。こちらは王子不動の滝。
(国会図書館デジタルコレクション)
金剛寺にも不動尊はあるが、こちらの滝は少し下流にあった。切絵図の文章に
浄土宗思惟山三昧寺正愛(受?)院
滝不動本當(堂?)後ノ坂下レバ飛泉アリ
不動滝又泉流滝トモ云
とある。
その正受院にいってみる。
住宅地の中にひっそりとある。
今は23区内でも、昔はこのあたりになると震災、戦災に遭わなかったか、田舎のように建物が古くて良い感じ。金剛寺と違って土と林がある。
中央の小さな甲冑姿石像は近藤守重という。
北方探検の近藤重蔵のことだが、私の世代は守重と書かれるとわからない。駒込に生まれ、4年ほど正受院の東隣に住んていたとか。
本堂の左奥が不動尊である。
この後ろから広重の絵の太い滝が落ちていたらしい。
バケツを洗っていらしたお寺のご婦人に、裏にその名残の石碑があると教えられた。
回ってみると林の中にひっそりと建っていた。
新東京名勝選外十六景 滝野川の渓流
とある。東京という、あまりに新しい碑文に拍子抜けした。
帰って調べたら、新東京名勝選外十六景というのは、昭和の初めに15区から35区になることを祝して、報知新聞が主催、市民の投票で新しい区から新東京八名勝を選んだ。池上本門寺や日暮里諏訪神社が選ばれた。そのとき漏れた中から十六名勝を選んだらしく、ここのほかに新井薬師、堀切菖蒲園、哲学堂などがあった。
このことから崖がコンクリートで固められたのは近年のことであり、それまでは江戸時代に近い景色だったのかもしれない。
もう一度尾張屋の地図を見ると、音無川左岸(北側)に「湯タキ、木タキ」と読めるが、滝だろうか。広重の絵にみる「弁天の滝」「不動の滝」のほかに下流の王子権現から落ちる「権現の滝」、さらに王子駅の北、東向きの崖線に「稲荷の滝」「名主の滝」「大工の滝」「見晴らしの滝」「飴屋の滝」があったという。これらのどれが王子七滝かは知らない。
この日の収穫は正受院だった。
暖かくなったらまた寄りたい所だ。
千駄木菜園 総目次
2017年2月12日日曜日
象設計集団と宮代町、笠原小学校
千駄木菜園 総目次
ダンス競技会で宮代町の進修館にきた。
宮代という町名より、東武動物公園の方が有名か。
駅から歩いて3分、動物公園までいく途中に、役場と進修館が並んである。
全部ダンスだけど4回目の訪問。
最初から変わった建物だと思ったが、今日あらためて見た。
ここも起伏に富んでいる。駆け上がったり、ごろごろころがったり、単純だが気持ちいい遊びができる。
花壇だが、菜園だか知らないが、本格的である。
子どものころ、悲しいことがあっても春の黒い土を見ると元気になった。
植物を育てること、土をいじること。子どもにはとても大切なことだと思う。
階段を上がるとそのまま外縁が廊下になっているから、教室ものぞけた。
戸一枚で外だから、季節も嵐も直に感じる部屋になっており、庭、運動場に出やすい。
そしてこれだけ庭が充実していると教室なんていらないくらいだ。
いや、卒業したら困るから、世間並みの勉強も少しはしなくちゃいけない。
うさぎも楽しそう。
帰宅後調べたら、小学校の見学は事前申し込みが必要らしい。
我が子の小学校は勝手に入って子どもと野球の練習などできたが、これだけ有名になると、勝手に入らせたら、問題も起きるだろう。今回は知らなかったとはいえ失礼しました。
千駄木菜園 総目次
ダンス競技会で宮代町の進修館にきた。
宮代という町名より、東武動物公園の方が有名か。
駅から歩いて3分、動物公園までいく途中に、役場と進修館が並んである。
全部ダンスだけど4回目の訪問。
最初から変わった建物だと思ったが、今日あらためて見た。
まず、建物、部屋、などが四角でない。
庭も起伏に富んでいる。
もともとまっ平らな場所だから、盛り土して斜面を作ったのである。
外階段なども手作り感たっぷり、単純な段々でなく、飽きないつくりになっている。
階段脇の石段だか花壇だかが歪んでいる。
あえて歪んだ形で設計したのか、盛り土したのが沈下したのか分からないが、建物は沈下してないので、この廃墟のような荒れ方も計算だろうか。
食堂や階段の床は角材を輪切りにしたのを一つ一つ埋め込んでいる。
相当お金がかかっただろう。
和室はふつうだった。
隣の役場は普通の建物だから、住民が使うコミュニティセンターだけ贅沢にしたのである。
象設計集団は宮代で笠原小学校も作っている。
進修館から歩いて5分くらいの、動物公園正面玄関入口の前にあるから知っている人は知っているだろう。
なにかPTAの会議でもあるのか、車が入っていき、門があいていた。見学できるかどうか聞こうと思って入ったが、公園のような感じでどこが事務室なのかどこが教室なのかわからず、結局誰にも会わずに見学できてしまった。ふつうの通学日だとこうはいかない。
花壇だが、菜園だか知らないが、本格的である。
子どものころ、悲しいことがあっても春の黒い土を見ると元気になった。
植物を育てること、土をいじること。子どもにはとても大切なことだと思う。
男の子なら階段から降りるより手すりを乗り越えて外に出たほうが楽しい。どこでも運動神経を鍛えられそうだが、「危ないからダメ」とか禁止されていたら残念だな。
階段を上がるとそのまま外縁が廊下になっているから、教室ものぞけた。
戸一枚で外だから、季節も嵐も直に感じる部屋になっており、庭、運動場に出やすい。
そしてこれだけ庭が充実していると教室なんていらないくらいだ。
いや、卒業したら困るから、世間並みの勉強も少しはしなくちゃいけない。
廊下?は直線でない。
あちこちあるデッドスペースはさっと身を隠すのに役立つ。
池も楽しそう。
裸足で自由に入れるのだろう。
この小学校は朝から晩まで楽しいだろう。
他に遊びに行く必要がない。
教室にいるのがもったいないくらいだ。
知恵がつく、生活力がつく。
毎日過ごす場所だから、6年いたら、他の小学校の卒業生と違う子供になるのではないだろうか。
草をいじったり、虫を探したり、ウサギをみていたり、木に登ったり、そして誰もいなくなった教室で一人本を読んだり、みんな別々の遊びをすれば、つまり全員が違うことに夢中になれれば、いじめなどなくなるのではないか。いじめは「みんな仲良く」一緒のことをしようとするから生まれる。個性個性というのならみんなバラバラに遊ぶことも大切にしたい。
宮代町は本当に良いものを作った。普通は使わなくてもいいお金を使ったことで、全国の尊敬を集めるのではないか?
宮代町のマークは「み」を図案化した三つ葉である。
ダンスの待ち時間で目にした、進修館情報誌のなまえは「みつば」だった。(み)んなが(つ)ながる(場)所だという。町民の祭りは、みつば祭という。
住んだことがないので実情は知らないが、この一日で宮代のファンになった。
帰宅後調べたら、小学校の見学は事前申し込みが必要らしい。
我が子の小学校は勝手に入って子どもと野球の練習などできたが、これだけ有名になると、勝手に入らせたら、問題も起きるだろう。今回は知らなかったとはいえ失礼しました。
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2017年2月11日土曜日
巣鴨地蔵通り商店街
電車で行くとオオゴトだが、直接家から歩くと巣鴨駅まで2.2㎞、商店街入り口まで2.5㎞、自転車行動圏だったので、この「散歩・ご近所カテゴリー」に含める。
結構にぎやか。
今日は祝日だが、もうみんな土日関係ない人たちだからいつも混んでいるみたい。
おじいちゃんおばあちゃんの町と思っていたが、いつのまにか私も彼らと大して年が変わらなくなってきた。通りの両側に、美味しそうな店が並び、行列のできているところもいくつかあった。今のお年寄りはちゃんとネットで調べてくるのかもしれない。そんなに高そうでないし、私も仕事を辞めたら、ちょくちょく遊びに来ようかな。
高岩寺といわれてもピンとこないが、とげぬき地蔵は有名。
南谷寺より目赤不動、東覚寺より赤紙仁王、源覚寺よりこんにゃく閻魔、など、寺名よりも本尊、仏像の方が有名なのは面白い。
今はお堂の奥に引っ込んでいるが、昔は参拝者ともっと物理的にも心理的にも近い関係だったのだろう。願い事をかなえてくれるのは仏像であり、お寺ではない。文字を読めない庶民にとって漢語の寺名は理解できず、あだ名のような本尊の名前しか覚えられなかった。今は反対に、例えば地図には寺名しかないから、仏像名は知らない。
巣鴨からの中山道は種や街道とも言われた。
江戸土産の一番は地図、すなわち色鮮やかな切絵図だったというのは分かるが、野菜の種や苗、というのも納得する。今のように万事が全国均一でなかったから、野菜などは土地土地で珍しいものが多かっただろう。小松菜、滝野川ごぼう、駒込ナス。種は軽いし、格好の土産だった。いや、商売だったかもしれない。
以前歩いたとき、その案内板を見た記憶があったので探したが分からなかった。時間がなかったので、タネやさんを探すこともできなかった。
帰ってきて調べたら案内板は旧中山道に入ってすぐ左の真性寺だった。案内板はJA東京が設置した。それによれば、明治中期にはとげぬき地蔵から板橋清水町まで6キロの間に種子屋問屋が9戸、小売店が20戸も立ち並んだという。
千駄木菜園 総目次
千駄木菜園 総目次
・目次・第108話~
薬学昔々 目次
第108話~ ファルマシア連載終了後の新作
20170208 第108話 大正天皇、X線に御手をかざす 1898年 明治31
20170211 第109話 千駄木世尊院で子どもが毒草食べる 1885年 明治18
20170715 第110話 サルファ剤、日本登場 薬学雑誌 1937年 昭和12
20170716 第111話 東京田辺製薬の誕生 1901年 明34
医学史その他
20200306 スモンの謎7 椿教授の神データ
20200302 スモンの謎6動物実験の怪
20200228 スモンの謎5 容量と発症頻度
20200223 スモンの謎4 外国ではなぜ発生しないか
20200219 スモンの謎3 中止後の発症激減
20200215 スモンの謎2 キノホルム服用率85%
20200214 スモンの謎1キノホルム説の登場
20190929 戦時中の有機合成化学協会
20190921 柳田国男の杏林舎はどうなったか?
20190814 今の薬剤師国家試験はおかしい
20190809 廃棄された明治31年の薬学雑誌
20190808 医学のあゆみ創刊と緒方富雄
20190807 戦時中の岩波の「科学」
20170818 鴎外森林太郎と東京医事新誌
20171201 川上元治郎と中央医事週報
千駄木菜園 総目次
第108話~ ファルマシア連載終了後の新作
20170208 第108話 大正天皇、X線に御手をかざす 1898年 明治31
20170211 第109話 千駄木世尊院で子どもが毒草食べる 1885年 明治18
20170715 第110話 サルファ剤、日本登場 薬学雑誌 1937年 昭和12
20170716 第111話 東京田辺製薬の誕生 1901年 明34
医学史その他
20200306 スモンの謎7 椿教授の神データ
20200302 スモンの謎6動物実験の怪
20200228 スモンの謎5 容量と発症頻度
20200223 スモンの謎4 外国ではなぜ発生しないか
20200219 スモンの謎3 中止後の発症激減
20200215 スモンの謎2 キノホルム服用率85%
20200214 スモンの謎1キノホルム説の登場
20190929 戦時中の有機合成化学協会
20190921 柳田国男の杏林舎はどうなったか?
20190814 今の薬剤師国家試験はおかしい
20190809 廃棄された明治31年の薬学雑誌
20190808 医学のあゆみ創刊と緒方富雄
20190807 戦時中の岩波の「科学」
20170818 鴎外森林太郎と東京医事新誌
20171201 川上元治郎と中央医事週報
千駄木菜園 総目次
第109話 世尊院で子どもが天南星を食べる
千駄木菜園 総目次
薬学雑誌 43号(1885 明18年)p382
数年前、この辺りで家を探したことがある。私の予算では土地付きの家は変えない。借地権付き中古住宅を探したのだが、寺が地主の物件が多かった。世尊院も困窮した明治に土地を貸したり譲ったりしたのだろう。
ついでに言うと観潮楼の21番地というのは、実は団子坂上の角のところで、鴎外は藪下道に面した21番の南側と19番、20番を買った。
薬学雑誌 43号(1885 明18年)p382
地下鉄千駄木駅から団子坂を上がり(大観音通りという)、左に鷗外旧居跡の記念館と何軒かマンションを過ぎると世尊院がある。都会の寺らしく、広くない境内に木々どころか土さえなく、周りを密集した家々で囲まれている。
しかし今から130年前の薬誌の三面記事のような文章から、違う景色が浮かんでくる。
「千駄木町21番地、消防夫・石田幾次郎の長男、直吉(13年)、次男、金太郎(4年)、および千駄木林町2番地、車夫・小林辰次郎の長男、伊の助(9年)は、去る三日の昼ごろ、世尊院の境内にて丈、2,3尺ばかりの草にて万年青(おもと)のような美しき実を結べるを見つけ・・・」
世尊院は、将軍綱吉に寵愛されたお伝の方の父、小谷忠栄の死に際し建立されたという。江戸切絵図や明治9年の東京実測全図をみると、団子坂上から続く道に北面しながらも、さらに東側の藪下道まで広がる地所を持っていた。近所の子供たちが遊ぶ鬱蒼とした森があったのかもしれない。
なお、奇しくも千駄木21番地のというのは鴎外が1892(明治25)年30歳から大正11年60歳で亡くなるまで、家族とともに住んだ場所である。
なお、奇しくも千駄木21番地のというのは鴎外が1892(明治25)年30歳から大正11年60歳で亡くなるまで、家族とともに住んだ場所である。
明治東京全図(明治9年、国立公文書館蔵)から
「・・・実を摘みて噛み砕きたるに、辛辣にして口内灼くがごとく、舌たちまち涸りて物をも云へざる体に苦しむを・・・」
薬学雑誌の同記事によれば天南星には種々あり。
・虎掌うらしまそう
・天南星やまにんじんArisaema Japonicum
・斑杖へびのだいはち、やまごんにゃく・虎掌うらしまそう
・(漢名不詳)むさしあぶみ
のちに現物をみて小林九一はArisaema Japonicumと結論した。これらはシュウ酸カルシウムの針状結晶を含み、それが毒となる。
「・・・傍らに見て居たる一人は、早々立ち戻りて親々へ通知せしかば早速駆けつけ、直ちに本郷の医学部第一医院へ入院せしめしに、幸ひ三人とも嚥下せざりしかば、1週間ほど経て治癒出院したりと云ふ」
世尊院のすぐ南、現在救急病院として利用されている日本医大病院は当時なかった。子供たちが人力車?で運ばれたのは、医学部第一医院といわれた。
東大は、明治11年医学部が神田に医学通学生の臨床講義用患者収容所として第二医院を設立、本郷の病院を第一医院と称した。帝国大学医科大学は明治19年からの名称であり、当時は東大医学部が正式名である。
明治40年の地図では、世尊院が古尊寺となっている。世を卋とした地図を見たことがあるので、写し間違ったのだろう。注目すべきは藪下道に面した東部が37番地となり、小さくなった世尊院に与えられたはずの13番地もさらに二分され、敷地が3分の1までに減っていることだ。現在は南側に住宅が建て込み、さらに狭い。
数年前、この辺りで家を探したことがある。私の予算では土地付きの家は変えない。借地権付き中古住宅を探したのだが、寺が地主の物件が多かった。世尊院も困窮した明治に土地を貸したり譲ったりしたのだろう。
ついでに言うと観潮楼の21番地というのは、実は団子坂上の角のところで、鴎外は藪下道に面した21番の南側と19番、20番を買った。
2017年2月8日水曜日
第108話 大正天皇、X線に手をかざす
ここから、ファルマシアに書かなかった「薬学昔むかし」を書く。
第108話 東宮殿下のエキス光線ご一覧
薬学雑誌 1898(明31)年度p644
第108話 東宮殿下のエキス光線ご一覧
薬学雑誌 1898(明31)年度p644
大正天皇は頭がおかしかったという話がある。
議会で詔勅を読んだ後、くるくると巻いて望遠鏡のように議員席を見渡したという。しかしこれが真であったとしても愚昧であることの理由になるか? 帝国議会など恐るるに足らず、皇太子時代の全国行啓中、きさくに庶民に話しかけるような人柄であるなら、当然ありうる行動だ。
生まれつき病弱で、学業、運動とも発達は健全でなかった。しかし漢詩1367首、和歌456首をつくり、朝鮮語も学んだとなれば、知能は十分あっただろう。
明治、昭和の大帝と比してエピソードが少ないのは、天皇制を利用したい政治権力がその権威を保つため、なんにでも興味を持ち無造作に国民と接触する彼を封じ込めたからという噂も聞く。
今でも右翼、左翼、政府、メディアは様々な文章を残す。ときに捏造もあることは正義のA新聞で周知のこと。まして戦前の皇室については、噂と真実の区別は難しい。
どんな人物だったか。この欄でも皇太子時代の東北巡啓を書いたが(2008年11、12月号)、出迎える側の食事、衛生面での裏方話ばかりで、東宮に関する記述は一切なかった。ところが偶然、私のイメージ通りの記事を薬学雑誌に見つけた。
明治31年5月26日午後2時過ぎ、明宮嘉仁殿下は
「大尉の御正服にて理科大学へ行啓あらせられたり」。
この年3月、医科大学のお雇い外国人教師、スクリバが一時帰国したドイツからX線透写装置を持ち帰った。1895年11月レントゲンがX線を発見して2年半。スクリバと近藤助教授は、頭蓋骨に弾丸を入れ二重の箱に収めたもの、それから鯛、小童2人の胸部の透視像を見せた。殿下は「すこぶる珍しきもの」を興味深く見物しただけでなく、なんと
「親しく右の御手を光線にかざし給ひ、また宮内高等官をして試みし給ひ」、
大いに満足した。さらには研究中の無線電信にも興味を示し、
「始終ご熱心にご熱覧あらせられご機嫌ことに麗しく」
4時20分頃還啓した。
このとき19歳。
21歳で結婚、歴代天皇で初めて一夫一妻を貫き4人の男子に恵まれたが大正3年ころから軽度の発語障害、大正8年には食事をとることも勅語を読むこともできないほど悪化したとされる。その7年後、47歳で崩御。
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以上の文章をそのまま、2015年1月、ファルマシア編集部に送ったのだが、不敬にあたるとのことで、没になった。理由を聞けば、そのまま3月1日号に載せたら、3月末の薬学会年会に右翼の宣伝カーが来るかもしれないと心配された編集委員もいらしたという。
私は一般参賀にも行くし、1993年埼玉に両陛下がいらしたときは、仕事を休んで旗を振りにいったし、伊勢神宮でも両陛下に旗を振れたし、皇居清掃団にも参加したかったほど、皇室が好きで、大正天皇を悪く書いたつもりは全くなかった。・・・文章は難しい。
どうも冒頭の「頭がおかしかったという話がある」が良くなかったらしい。私の子供の時分は、そのような話はいろんなところで言われており、学校の先生すら教えてくれた。しかし、その悪い評価を(少なくとも彼がお若いときは)否定できるエピソードを当時の薬学雑誌で見つけ、彼の名誉回復のつもりで喜んで書いたのに、どうも編集委員の方々は、反対に解釈されたようだ。
とにかく、薬学昔々の連載が終わるきっかけになった文章である。
雑誌の編集などはセンスのある人が一人あるいは少人数でやるべきだと思う。私の原稿を没にするかどうかは20人もいる編集委員のメール会議だったらしい。誰か神経質なほど心配性な優等生的発言の人がいれば、どうでもいい大多数の人はそちらに流れ、角は取れるが、内容もきれいごとの多い、つまらない原稿ばかりになる。
千駄木菜園 総目次
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