薬学雑誌 1901年度 p635、p742
地区通信欄を見ていると赤痢発生,ペスト発生のニュースが毎月のようにある.
たいてい2,3行だが,たまに長い記事もある.
明治34年5月21日,医科大学付属病院、西配膳室で1頭,物置で1頭の斃鼠,22日西配膳室で病鼠が1頭発見された。
25日にペスト菌が検出され、26日入院患者を時計台病室に収容,内科は向こう10日間交通制限,病室は石炭酸水、昇汞水で消毒.各科とも外来診察をやめる。
内科に近接する生理,衛生,医化学,薬物の4教室も交通制限された。
「模範薬局にては外来診察休止のため投薬は毎日百名の少数なるも,大学各部の清潔法施行に使用の消毒薬,亜砒酸団子の調製,配布、捕鼠器消毒などなかなか多忙なりし」
その後捕獲された鼠160余頭は悉く解剖されたが、いずれもペスト菌を発見できず.
しかし6月16日解剖学教室で捕獲された鼠にペスト菌が発見され,緒方衛生学教室主任は本部に報告する.
19日内科玄関床下(建物構造を想像せよ!)で発見された斃鼠にも「ペスト菌発見」と新聞に報道されたが、これは誤報、社会全体がピリピリしていた。
再度ペスト菌発見から、鼠捕獲に尽力することが本部から各分科大学に通達され,全学委員長に薬学の丹波敬三教授が任命された.
鼠1頭につき5銭,10頭ごとに1円の割増金を払うこととし、捕鼠器百余個を各分科大学に配分する。これにて6月24日から7月13日までに捕獲した鼠は275頭に達したが,ペスト菌は見つからなかった.
また、6月に新築教室に移転した生理,衛生,医化学,薬物の4教室の旧建物は焼き払うこととなる。6月25日から周囲を鉄板にて囲い,中で大穴を掘り始め,27日には本郷消防第4分署から40名の消防夫が出張,半数は家屋を取り壊して穴に入れ点火,半数は囲いの外で警戒、すなわち消火栓に水管を付して待機.毎日穴で燃やしつづけ,7月1日には床だけとなった建物に石油を撒いて点火,翌2日は動物小屋と残物を焼いて終了した。
同月号の山梨県通信では「6月21日、一人ペスト発症,26日死亡」とある(p736)
それにしても大騒動である。
ちょっと想像できないほど、ペストは恐怖だったようだ。
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