薬学雑誌1911年度43頁(明治44年)
昔、薄暗い台所に食べ合わせの表が貼ってあった。
ウナギと梅干、タニシと蕎麦などがちょっと不気味に描いてあった。富山の薬売りの人が薬箱の中身補充のときに置いて行くものだ。紙風船も懐かしい。当時はどこの家も滅多に病院に行かなかった。
明治時代の薬学雑誌に、富山売薬の歴史が10頁にも亘り書かれていた。
それによれば、利家のひ孫になる富山藩二代目、前田正甫が疾ありて癒へず。侍臣日比野、丸薬を呈すと、公たちまち癒ゆ。聞くに備前医師の萬代常閑秘伝の反魂丹(はんごんたん)という。
公、常閑を招き、侍臣をして伝習せしめられたり。
元禄三(1690)年、正甫江戸にありてある日参勤せらるるや、某藩主急病を発し死に瀕す。満座狼狽するところ、公、懐から反魂丹を出し服用せしめるとたちどころに平癒す。(磐城、三春藩藩主という)。列座の諸侯皆驚き,以後富山の売薬業者をして諸国に行商させることを懇願した。
以後富山の製薬、行商は藩の保護奨励で盛んになっていく。薬を売っても貧窮なるものからは直ちに金を受け取らなかった。これ、配置売薬の習慣が出来た原因という。徴税のため町奉行の監督下にあったが、1764年には反魂丹役所ができ専門の奉行も置かれた。このころ行商人は2600人あまり、以後増加。廃藩置県後は家禄を失った士族も売薬に進出し、行商人は8000人を超えた。
しかし反魂丹は旧慣を墨守し草根木皮でつくるに過ぎざれば、今,泰西文明の技術を入れなくては座して衰退を待つものの如し、と危機感を持つ。そして県内業者共同で製薬会社を設立、調剤所を廣貫堂と称す。その後同種の団体、師天堂、弘明堂、精寿堂など続々出来た。
彼らは薬学校と同校付属病院の設立も企画する。
しかし政府は売薬印紙税を導入。藩政時代と比べて過酷な徴税により売り上げ激減、明治15年9700人いた行商人は翌年6000人にまで減少、薬学校どころではなくなった。
それでも明治26年には開校。
43年(1910)に県立となる。12月、県立薬業学校開校式に長井博士が臨席した。
このとき売薬同業組合編纂の富山売薬紀要を東京に持ち帰る。
それを薬学雑誌が摘載したものが本記事である。
なお、腹痛の三春藩藩主は秋田輝季である。秋田氏は平安時代の安倍貞任につながる出羽国の名門であり、秀吉に北出羽、秋田郡の所領を安堵されたが、実季のとき常陸国宍戸に転封され、その子俊季の代1645年、三春に移った。
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