2017年3月28日火曜日

浜松城、引間城跡

3/28日本生理学会で浜松に来た。
ホテルが会場と浜松城の中間だったので、早起きして散策に。
市役所と元城小学校の間を歩くと樹上にリス。

石垣がほかの城と違う。
野面積みを初めてみた。
石自体もなんという岩石だろうか、層になっている。






木がやたらと切られている。
管理が大変なのだろうか。
夕方、北に広がる森を見て、ここでは樹木が貴重でないことが分かった。

南方向を望む。
左が市役所。
城跡はいろんなものに転用されている。




東海道が大手門まで来て直角に折れるのは小田原城に似ている。
今の国道152号は、大手門からまっすぐ北へ城内に入る道のところにあるのだから、かなり城は大きい。国道と本丸の間に市役所、小学校がある。

学会プログラムでは午後に空き時間があったので、東照宮へ。
浜松城は、この地にあった曳馬城(引馬城)が前身で、三方が原から家康が逃げ帰ったのは、この城である。その後、だんだんと今の本丸がある西南方向に拡張されていき、引馬では(負け戦を表し)縁起が悪いというの浜松と改名したとか。

本殿の東側に
「出世の街、浜松」という、いかにも観光用の家康、秀吉の像。
特に秀吉は漫画っぽい。まだ新しく、撰文が磯田道史で、直虎ブームに乗っかろうと急いで作ったのだろうか。あまりありがたみがない。

秀吉は信長の草履取りが有名だが、よく考えたら、いきなりそんな役に付けるわけがない。信長のところに来る前、浜松、頭陀寺城の城主、松下加兵之綱(かへいゆきつな)に、 15歳前後から約3年間仕えたとされる。                                      


古城の空堀がそのまま道路になったような地形である。石垣の上は住宅街である。
浜松城に戻る。
北から入ると山のように広い。木々の間から天守閣が見える。
これだけ広いから駅に近い南、東側に小学校や市役所を建てられたのだろう。
花見用の提灯が下げられている。東京上野などと違い、場所はたっぷりある。

パワーショベルと工事の柵があった。
ここは作左曲輪のあったところ。本多作左衛門重次が築き米蔵などがあった。
長篠から「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」と妻にあてたのは彼である。
ぐるっとまわると、工事は浜松市立中部中学校の拡張工事だった。
元城小学校と統合し、小中一貫9年制とするらしい。
これだけ広いと城を削るのも遠慮がない。
浜松市は大きな遺産をもらっている。



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