2019年4月30日火曜日

号外と皇室カレンダー

テレビは連日、天皇陛下特集、平成特集を続けてきたが、とうとう平成最後の日となった。
しかし個人としては何もすることがない。
そこで、こんな機会でもないと見ることもないだろう、という平成、皇室関連ものを開いてみた。
(私は本を買っても中を見ない癖がある)
2019-04-30
もっといろいろあるはずだが、段ボールに入ったものは探すのが面倒。

まず平成になったばかりの朝日新聞縮刷版
 実際の号外もあった気がするのだが行方不明。
この年1989年は出向先の東大薬理から会社に戻り1年。
シナプトゾームを使って神経型Caチャネルの薬理を研究してきて、つぎのステップ、神経細胞の培養に成功したのが1月12日だった。
2月伊奈町に家を購入、7月に東大宮の尾山台団地から引越し、10月に長男が生まれた。

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皇室カレンダーが3つ出てきた。
会社の同僚、片山泰一氏(現阪大医学部教授)から頂いたもの。

彼の父上が定年退職後神主になるため皇学館大学に入られ、その関係から入手、私に下さった。彼には十分お返しをしていない。東郷平八郎のテレホンカードや「揺らぎ、カオス、フラクタル」の本を上げたが。
1996
そうか、初孫は眞子さまだった。
この年、2月に司馬遼太郎逝去、私は6月に伊奈町から大宮市指扇に引っ越し、8月森さんたちと黒部ダム、9月社内旅行で佐渡、11月一人でマニラに旅行した。

1997
この年は子供たちも成長、荒川でピクニック、春日部恐竜展、三橋プールなど。私は2月に岡崎生理研で実験、5月に田端文士村を歩き、8月に森さんと小川村、11月に宮島、原爆ドーム、呉海軍墓地、江田島にいっている。ふるさと中野テクノ会にも入った。

2003
1月バイオリンを始めるも1週間で挫折、3月薬理学会で元寇防塁跡、4月創薬プロジェクトを辞め安全性薬理課に移動、5月、自動パッチクランプ装置導入のため、アメリカの二社を視察、11月から京大シミレーションプロジェクトに参加。ダンスは4年目に入ったが競技会はまだ出ていない。
1996,2003

皇室カレンダーを会社の研究室で見ていたころ、大阪から埼玉に単身赴任されていた山村道夫さんが東京見物、靖国神社に行かれ、お土産としてやはりカレンダー(1997)を下さった。70才を超えた彼は今、上海で新しいベンチャー製薬会社を興し、特許も取られたらしい。
私が靖国神社、遊就館に初めて行ったのは1995年。

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「私たちの天皇陛下」という本は買ったまま開いたことがなかったかもしれない。
今見ると良い写真がいっぱいあった。


この本で面白かったのは両陛下が各地をご訪問されたときの旅館と料理が載っていたこと。
山形の村尾旅館は社内旅行で泊まったことがある。
確かに廊下には昭和天皇が来られた時の写真が飾ってあった。

夕食のときの乾杯の挨拶を指名された工藤幸司さんは、昭和天皇の声色をまねて挨拶した。彼はこの数年後に会社研究所の上層部から追い出されるように出向を命じられ、しかし数年後に東北大医学部の教授になってしまった。

今陛下の召し上がられた食事を見ると我々が社内旅行で食べたものとそれほど変わらない。胃袋が同じなのだから当たり前だが。

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私はこのころ皇室が大好きで、皇居清掃奉仕団に入ろうとした。

幸い、長野県皇居奉仕団というのがあった。
名前は大きいが実体は、実家のある奥信濃の中野市と山ノ内町の人々で構成される。しかし域内に志賀高原もあり、昔から両陛下が来られるときはお出迎えをし、また皇居の清掃奉仕もこの時点で25回を数え、皇室、宮内庁の信頼もとくに厚かった。
団長の青木さんは山ノ内町夜間瀬で、たしか、毎年正月に祖父のところにいらしたビルマ時代の戦友の方の縁者だったこともあり、思い切って大宮から電話をしてみた。

すると、ずっと一緒に同じ宿舎で行動してほしいとのことだった。
彼等は4日ほど作業するが、せっかく上京したので歌舞伎を見たり東京見物もする。宮内庁に出す書類に、身分のほかにその間の滞在中の宿舎も明らかにせねばならない。
大宮の自宅から1日、2日ていど、通いで皇居に集合、混ぜてもらおうと気軽に考えていたので、あてがはずれた。1週間も付き合うのは難しいので断念した覚えがある。

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平成最後の日は大みそかよりも感慨深い。
除夜の鐘とかなるのかな?
鳴らす寺があってもいいと思うが。


千駄木菜園 総目次


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